鐘の音……
――お……って……。
まどろむ意識の向こう。微かな呼び声に、エノク・ライツは重い目蓋を苦労して持ち上げる。
「なんだよ、いったい……」
「なんだじゃねぇ、ついたんだよ。もう皆降りてんだからはやく起きろ!」
「降りたって……。あぁ、そっか」
慣れ親しんだ友人の顔と声に、エノクはここが何処だったかようやく思い出した。
「校外学習で博物館に来たんだっけ。ふぁあ、あ。すっかり寝ちまったぜ」
彼は座っていた座席から立ち上がり、大きく伸びをすると荷物を取って呼びに来た友人と一緒にバスを降りる。エノクはバス移動中に居眠りをしていたのだ。
「君たち、はやくしなさい」
「「は~い」」
バスを降りると引率の先生が二人に声をかけた。外ではすでに生徒達が整列を終えていて、エノクたちが来るのを待っている。
エノクはバツが悪い思いをしながら急いで列に加わった。
「よし、全員そろったな。では列を乱さないで先生に付いて来なさい」
歩き出した先生に付いて列が動く。エノクもまたそれに続いた。
先生は歴史を担当しており、校外学習も歴史の授業の一環だった。実際の遺産などを見学し、歴史の勉強をするのだ。そのため生徒たちは教科書とノートを持参している。
今回の授業内容は天使と悪魔の戦いとしてこの国に古くから伝わる伝説で、この博物館で展示がおこなわれるのに合わせて企画された。
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「知ってのとおり、今から約二千年ほど前に天使と悪魔の戦いがあった」
博物館に入り、目的の展示スペースに到着したところで先生が口を開いた。
この天使と悪魔の戦いについての展示スペースは博物館の中央ホールまで続く通路になっており、中央にはメインの展示物が設置されている。
「長らくただの伝説・言い伝えとされてきたこの戦いは、近年の考古学的な調査により実際にあったことが判明している」
展示されている当時の遺物や、当時の暮らしを描いた絵などをみながら通路を歩く。
「実際は天使とは英雄で、悪魔とは敵国の人間。あるいは山賊や盗賊などを指した比喩だと考えられているが、大きな戦いがあったことだけは確かだ」
通路は入り口から終点である中央ホールまで随所に絵が飾られており、奥に進むにしたがって天使と悪魔の戦いの物語も進んでいく。
「ったく、博物館なんて退屈なだけだよなぁ」
先生の話は続いていたが、伝説に興味がないクラスメイトの一人が声をひそめて雑談をはじめ、
「ああ、まったくだ」
それにエノクが相槌を打った。
「この戦いでは三人の天使が活躍したと言われており――」
「どうせならもっと面白いもんがみてぇよなあ」
翼が生えた三人の天使が巨大な悪魔に向かっていく絵を見ながら、エノクはつまらなそうに呟く。
「だよなぁ。二千年も前のことなんか勉強してなんになるっつうんだよ。それより、女の口説き方でも教えてほしいぜ」
「しかし、最後の戦いで戦ったのは二人だけで、何故なら――」
青・赤・黄色に塗り分けられた三人の天使と黒一色の悪魔の絵がすぎると、倒れ伏す黄色い天使の絵が続く。
「女の口説きかたねぇ。お前も好きだよな、そういうの」
「良いだろ別に。男なら普通のことだぜ。彼女つくって、そんでいつかは結婚して家族つくってさ」
「家族……、な」
友人がそういった瞬間、エノクの顔が目に見えて曇る。
「家族なんてつくるもんじゃねえよ。あんなもん、ない方が良いんだ」
『この戦いで悪魔は深手を負い、後に倒されたが。天使たちもまた命を落としたと言われている』
「……。俺はお前のこと嫌いじゃねぇけど、その考え方は直した方が良いと思うぞ」
「良いだろ、別に……」
エノクは機嫌悪そうに舌打ちすると、
「家族なんてどうせ他人の集まりだぜ? 血の繋がりがあるつっても、そんだけだ。だからなんだって話だよ」
「こらっ! 君たち先生の話をきいているのか⁉」
ここでエノクたちの話は中断された。彼等が話し込んでいることに先生が気付いたからだ。それに、通路が終わって中央ホールの展示スペースに到着したからでもある。
「まったく……。えぇ、ここからは各自解散して自由に見学するように。後日レポートを提出してもらうからサボったりしないように」
先生の指示を受け、生徒たちは各々興味を惹かれた展示物へと足を向けた。殆どの者は自然と仲の良いもの同士で集まって動いていたが、さきほどのことで居心地が悪かったこともあり、エノクだけは一人だった。
別段興味を惹かれるような物もなく。エノクはぼんやりと他の生徒たちや一般のお客さんの動きを眺めているだけ。やがてそれにも飽きて、目的もなくブラブラと展示スペースの中を歩き出す。
天使を模して作らてた石像。悪魔の姿をかたどった様々な置物。色々なものが展示されていたが、どれもエノクを惹きつけるほどの魅力はない。
「あっ」
そしてふと見上げた天井。ちょうどホールの中央に位置する場所に天窓があり、そこに天使の描かれたステンドグラスがはめ込まれていた。
今日はあいにくの曇り空で、ステンドグラスの美しさは半減していたが、それでも他の展示物よりはエノクの心を惹き付けた。
――す……く……い……。
「?」
エノクがステンドグラスをもっと良くみようとホールの中央に移動したとき、微かな声がきこえてきた。
「……気のせい、かな」
周りを見渡しても声を発した人物は見当たらず。他に声に反応している者もいない。
――たすけ……さ……。
気のせいだと結論付けたエノクが再びステンドグラスに視線を戻すと、またしても声がきこえてくる。
しかも、さきほどより鮮明に。
「助け?」
ききとれたのはそれだけだったが、声の調子からそれがとても切羽詰ったものなのだと言うことだけは分かった。
「分かった、助けてやるから出て来いよ」
分かったから、エノクは反射的にそう答えてしまう。
その瞬間だった。何処かから澄んだ鐘の音がきこえてきて、まるで雲が晴れて太陽が顔を出したかのようにステンドグラスに眩い光が灯り。その光がエノクを包み込んだ。
「な、なん――」
眩い光に思わず目を瞑り。そのままエノクは――。