カカオは甘くない
【第11回フリーワンライ】
お題:こんにちは、チョコレート
フリーワンライ企画概要
http://privatter.net/p/271257
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
――その時、彼はいつものように、事務所の奥、マホガニー製デスクの上に座り、タイムズ紙をつまらなさそうに読んでいた。
壁に掛かった時計は午後二時を指していて、健全な人間ならばあくせく働いている時間帯である。
――その時、彼は朝から数えて十回目の欠伸をかみ殺したところだった。
厳密に言うならば彼もまた働いていると言える。なぜなら「営業中」だからだ……単に客がいないだけで。
――その時、彼は安っぽい再生紙の上に印字された昨日の死亡者記事に目を移そうとしていた。
事務所のドアが控えめに叩かれたのは、ちょうどそんな時だった。
彼の名はカカオ。
無論本名ではない。この世界では、自分の名前など名乗ろうものなら、その日のうちに養豚場に出荷される飼料の中に投げ込まれていても不思議ではない。だから決まって偽名を用いる。
カカオと言えば、甘い食べ物というイメージがつきまとう。実際にはそうではない。カカオは本来甘いものではなく、むしろコーヒーと同等かそれ以上に苦い代物だ。そこへ甘味だの凝固剤だのをぶち込むことで、ようやくチョコレートとして口に入れることが出来るようになる。
カカオはその名の通り甘くない。
彼、カカオは表沙汰にならない問題を解決して回る人種――所謂私立探偵だった。
私立探偵と言えば華やかなアクション映画のイメージか、あるいは事務所の椅子に座ったまま気の向いた仕事しかしないディレッタントな印象が強いだろう。
しかし、本物の私立探偵はそんな軟派では務まらない。この国で合法的に私立探偵を標榜するには、数千時間にも及ぶ警察での実務経験と、豊富な知識に裏付けされた難関筆記試験をパスして、PIライセンスを取得しなければいけない。
そうすることでようやく、靴底を磨り減らして裏社会を渡り歩き、あらゆる情報に精通することが出来るようになるのである。
なぜこの道を選んだのか、カカオにももう思い出せなかった。摩耗したのは靴底だけでなく、過去の記憶も同様であるらしかった。
とにかく彼は私立探偵で、それも名の通った凄腕だった。どんな経歴の依頼人の頼みも断らず、受けた依頼は必ずこなす。
ただし、彼に依頼するためにはたった一つだけ条件があった。
それは「彼自身を見付けること」。
彼を見付けることが出来た者からならば、彼はどんな依頼も必ず引き受けた。
「ママを探して欲しいの」
今日、彼を見付けることの出来た依頼者は、開口一番そう言い放った。
彼はただひたすら困惑しきった渋面で、
「えー……ミス――?」
「シュガー。シュガー・トリタニよ」
シュガー・トリタニ。
“ミス”シュガー。
なんて馬鹿馬鹿しい響きだろうか。
「ミス・シュガー。あなたがここを見付けられた以上、ご依頼は必ず遂行しますが、えー……」
カカオは名うての私立探偵だ。踏んだ場数は数え切れない。
三十路をとうに過ぎてはいるが、ラテン・アメリカ系特有の浅黒く大柄な体躯は、そこいらのチンピラが束になってもびくともしそうにない。叩き上げの警官らしい苦み走った顔には、年齢に相応しい筋が少し見られるが、まだまだ精力的で若々しい。
その彼が弱り切っていた。こんな経験は初めてだった。
応接テーブルを挟んで、カカオが先程コーヒーメーカーで淹れたミルクたっぷりのカップを大儀そうにすする依頼人は――まだ十歳そこそこの少女だった。
ミルク・砂糖抜きのエスプレッソを飲んでもこうはならないというぐらい渋い顔をしたカカオは、その少女、シュガー・トリタニを観察した。
幼さはあるものの目鼻立ちははっきりとしていて、ラテンの血が混じっているのか少しばかり色黒だった。名前から察するに日系なのだろう。そのせいか、着古したオーバーオールの上から見たところ、アメリカでよく見かける同年代の子どもよりは発育はよくなかった。
丁寧に梳かれた長い金髪を後頭部で結って、背中に垂らしている。カップの縁に口を近づけて息を吹く度、ポニーテイルがぴょんぴょん跳ねた。
次いでその足下に視線を落とすと、白い毛玉のような子犬が灰皿――カカオ自身は吸わないが一応用意だけしておいて、一度も使っていない物――に注がれたミルクをなめ回していた。
「この子はね、ミルクっていうの」
ミルクがミルクを飲むか。
「はあ……」
普段の彼からは考えられないような気の抜けた返事。
完全にペースを乱されている。
カカオは気付かれないように深呼吸し、気持ちを落ち着けた。
「ミス・シュガー。ご依頼は失踪人の捜索、ということでよろしいかな?」
「ええ、その通り」
シュガーは上唇についたラテを袖で拭いながら首肯した。
「ではすぐにご依頼の件に取りかかることにして……」
と、カカオは腰を浮かしかけるが、よく見れば少女はまだ飲みかけのカップを傾けようとしているところだし、その右足に寄り添うミルクはミルクと格闘中のままだった。
彼は咳払いをしてから、
「いや、ごゆっくりどうぞ」
自分のためにもう一杯淹れるため、コーヒーメーカーに体を向けた。
失踪人の捜索はあっという間に終わった。
捜査に手を付けてから約半日。
調べはそれだけで充分事足りたが、裏付けのために方々手を尽くして走り回り、確証を得るまでさらに二日を要した。
シュガーから失踪人の捜索依頼を受けたが、その当の失踪人の名前を告げられることはなかった。様々な事情から、この業界では依頼人や捜索対象の名前が告げられないことは別に珍しくもなかった。
だから、カカオはそのことを気にも留めなかった。
ショーコ・トリタニ。それがシュガーの母親で、失踪人の名前だった。
その名前は白亜の石に刻まれていた。それは郊外にある、広々とした草原のような墓地の一角にあった。
ショーコ……
その名前は胸の疼きと共に記憶の彼方に眠っていた。
十年前、彼が愛した女。
十年前、突然彼の前から姿を消した女。
その頃はまだ駆け出しの警官だった彼は、職務に縛られ激務に揉まれて、消えた彼女を探すこともままならなかった。
そうだ。
カカオは心臓を抉る痛みと共に思い出した。
だから彼は、私立探偵になったのだと。
その後、カカオが依頼の完了報告と共にシュガーを問い詰めたところ、母親捜索の依頼をしたのは、彼の人となり――父親としての資質や仕事ぶりを見たかったから、ということだった。
カカオ――本名ラステロ・アリバは、シュガー・トリタニを引き取って育てることにした。
ある朝、家を出て事務所へ赴くと、いつの間にか手描きの看板がかかっていることに、カカオは気付いた。
「おい、シュガー! 表のあれはどういうつもりだ!」
慌てて事務所に乗り込むと、朝から姿の見えなかったシュガーが我が物顔で事務所の整理を行っていた。
「え? いいじゃない。私も学校へ行きながらここで働くし、ミルクだって家にいたら寂しいだろうからここに置いてね。
家族みんながここにいる。
だから、表札もない陰気な事務所よりずっと気が利いてていいでしょ」
うらぶれた事務所の、真新しくそして拙い看板。
『ようこそチョコレート事務所へ』
そして今日、その門戸を訪ねる人物があった。
開けっ放しのドアをノックした依頼者は、こう言った。
「こんにちは、ミスター……えーと、チョコレートでいいのかしら?」
『カカオは甘くない』・了
最後ちょーっと時間足らんかった。一時間で書くのはやっぱり難しい。
尚、お気付きのこととは思いますが、登場人物(カカオの本名も含めて)は全てチョコレートに由来しております。