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(3)

「…………」

 アシュリンは酷く憂鬱な気分だった。


 どうして、こう物事が悪い方に悪い方に転がって行ってしまうのだろう。


 シロエが発案した、ケーキコンテストを開催してリオンとヘンリエッタを助けるという計画は、リオンの参加拒否により失敗してしまった。だが、それはただの失敗では終わらず、更なる問題を生み出すこととなってしまったのだ。


「それで、僕に話したいことというのは?」

 リオンはアシュリンとマリエールに椅子を勧め、お茶を淹れてくれると、自分は以前と同じように手近な壁に背中を預けてそう尋ねる。


「……説明する前に、これを食べてみて欲しいんやけど……」

 神妙な面持ちでマリエールは持参した小さな箱を開け、それをリオンの前に差し出す。


「これは……チーズケーキですね。ケーキコンテストに出すケーキですか?」

 きっと<三日月同盟>の代表が作ったケーキを試食して欲しいという事だと思ったのだろう。リオンは苦笑交じりにそう言うと、ケーキを皿に取り、そしてそれを口にして大きく目を見開いた。


「……すっ、すごい……。このチーズケーキは……完璧だ……。マリエールさん。これなら、きっとコンテストでもかなり上位に、いや、優勝も狙えると思いますよ」

 リオンはそうケーキを絶賛したが、マリエールの顔色はすぐれない。それは事情を知るアシュリンも同様だった。


「そうか。やっぱり、リオンさんもそう思うんか。せやけど、生憎そのケーキを作ったのは、うっとこの<料理人>やないんよ。……そんでな、リオンさんに頼みたいこと言うんは、そのケーキを超えるケーキを作れるように、うちの<料理人>の子達に指導をして貰いたいってことなんや……」


 マリエールらしからぬ元気の無い声。それは、できることならばリオンを巻き込みたくなかった気持ちの現れ。アシュリンにはそれが分かる。自分も同じ気持ちだから。


「ケーキ作りの指導ですか……。でも、僕は……」

 リオンがそう拒絶の言葉を口にしようとしたが、マリエールはそれを遮り、話を続ける。


「リオンさんが忙しいのも分かっとる。できれば、うちもこんな無茶なお願いをしてリオンさんを困らせたくはなかったんや。せやけど、もう他に頼れる人がいないんよ。

 どうしても、最低限、うちのギルドだけでもこのケーキよりも優れたケーキを作らなあかんくなってしもうたんや。ほんまに図々しい、無茶な頼み事をしとるのは分かっとる。せやけど……。このとおりや、力を貸してや」

 マリエールに倣い、アシュリンも一緒に頭を下げてリオンに頼み込む。


「いや、その、頭を上げて下さい。それと、とりあえずもう少し詳しく話を聞かせて下さい。どうしてそこまで勝つことに拘る必要があるんですか? 僕は、あのコンテストはただのお祭りイベントだと思っていたんですが……」

 リオンの問に、マリエールは静かに口を開く。


「今、リオンさんに食べてもらったケーキは、今回のケーキコンテストにエントリーした人が、<三日月同盟>に自ら届けてきたものなんよ。うちらに対するあてつけと仕返しの意味で……」

「仕返し? そんな、いったい何処の誰が!」

 リオンは驚きの声を上げる。それに一瞬躊躇したが、マリエールはその名前を口にする。


「名前はシュレイダ。所属ギルドは<ハーメルン>や……」

「……なっ、なんで! <ハーメルン>はすでに解散したはずでは……。そっ、それに、このケーキをあんな男が作ったなんて、信じられない……」

 リオンは酷く狼狽する。その顔は血の気を失った様に真っ白だ。


「リオンさん……」

 きっと、リオンさんにとっては、<ハーメルン>の名を聞くだけでも辛いはずなのに、こんな無茶なお願いを持ちかけざるを得なかった、無力な自分がアシュリンには恨めしくて仕方がなかった。


「うちも信じられんことやけど、事実なんや。そしてそのケーキの味は今食べてもらったとおりや。正直、リオンさんの作るケーキにも劣らんとうちは思う。そして、<記録の地平線>の凄腕の料理人――にゃん太という人にも相談してみたんやけど、そのケーキを超えるものは作れんと言われてもうたんよ……」

「……そうでしょうね。あまりにもこのケーキの完成度は高すぎる……」

 リオンは苦虫を噛み潰したような顔で、眼前のケーキを評する。


「ギルドに所属していて、<料理人>のサブ職業を持った人なら誰でも参加できると謳った以上、参加を取りやめさせることはできん。そんなことをしたら、必ずそれをネタにしてまた何かしらの嫌がらせをしてくるのは目に見えとる。

 せやけどこのままやったら、おそらく、このケーキを作った人間が優勝してまう。……ケーキコンテストは一般には非公開や。せやけど、宣伝した手前、その結果はみんなに伝えなあかん。そうすると最悪の場合、優勝者のギルド名を、<ハーメルン>の名を広めなあかん事になってまうんよ……」

「…………」


 マリエールの悲痛な表情に、どれほど彼女が悩みぬいた末に相談に来たのかが伝わったのか、リオンは顔に憂いを浮かべながらも、


「マリエさん。ギーロフさんとセコンドさんのケーキ作りの経験はどれくらいのものです?」


 そうマリエールに尋ねた。


「アップルパイのパイ生地を上手に作ったりすることもできるから、筋はかなりええとは思う。せやけど、さすがに本格的な修行まではしたことはないんよ」


 <三日月同盟>の料理人の腕は彼らの料理を普段食べている自分たちが一番良く知っている。ギーロフとセコンドの料理の腕もかなりのものなのは間違いない。

ことケーキに関しても、アシュリンは彼らが作るアップルパイなどを食べた事があるので、その腕前を知っている。彼らの作るケーキも十分に美味しい。ただ、専門家であるリオンのそれと比べては、さすがに勝負にならない。


「……コンテストの本番はいつですか?」

「……九日後……。一週間とちょっとや……」


 マリエールの答えに、リオンは額に手を当て、「そうですか」と呟いて嘆息し、


「マリエさん、明日まで考える時間を下さい」


 そう返答した。


「……ありがとな、リオンさん。せやけど、無茶なお願いをしとるのは分かっとる。無理なら無理でも構わんよ。今のところは打開策が見つからんけど、うちらだけでなく、シロ坊も、<記録の地平線>のギルマスも知恵を絞ってくれとるんや。もしかしたら、何か他のええ方法も見つかるかもしれんしな……」

 マリエールはそうリオンに優しい言葉をかけたが、それがただの気遣いに過ぎないことは明らかだった。シロエ達に相談を持ちかけた際に、シロエとにゃん太も、「現状では打つ手が無い」とこぼしていたのをアシュリンも聞いていたのだから。


 ……助けたいと思った。リオンさんの事を。でも、自分がリオンさんの事をみんなに話していなかったせいで、リオンさんを助けるどころか、ヘンリエッタさんと喧嘩をさせる原因を作ってしまった。二人に辛い思いをさせてしまった。


 そして、今度はシロエさん達が協力してくれたのに、自分の力不足でリオンさんにケーキコンテストへ参加してもらうことが出来ず、その協力を無駄にしてしまった。そればかりか、結果としてこんな事態を起こすきっかけとなってしまった。その上、こんな頼み事を持ちかけざるを得なくなってしてしまい、またリオンさんに辛い思いをさせて……。


「……なさい。ごめんなさい……。リオンさん、マリエさん……」

 堪えようとしたが我慢ができず、アシュリンの瞳から涙がこぼれ落ちる。


 どうしてやることなすこと全てが空回りしてしまうのだろう。どうして迷惑をかける結果になってしまうのだろう。アシュリンはみんなに申し訳がなくて、ただ謝罪の言葉を口にする。


「あっ、アシュリン……」

「どっ、どないしたんや、アシュリン?」

 突然泣きだしたアシュリンに、リオンとマリエールは驚きの声を上げる。


「……私の、私のせいで、リオンさんに、マリエさんに、みんなに迷惑をかけてしまって……。私が、余計なことを……したから、みんなが辛い思いをすることになってしまって……。ごめんなさい、ごめんなさい……」


 うまく言葉にならない。思考がまとまらない。ただただ申し訳がない気持ちだけがあふれでてきて、アシュリンは謝罪の言葉を繰り返す。


「そっ、そんなことない。アシュリンのせいなんかやないんよ。こんな事態誰にも予想出来んことや。アシュリンが悪いことなんか何一つないんよ」

 マリエールはそう言ってくれたが、それは事実を知らないためだとアシュリンは思う。


 今回のケーキコンテストは、リオンさんとヘンリエッタさんを助ける目的でシロエさんが考えてくれたもの。シロエさんに自分が無茶なお願いをして考えてもらったもの。だからその原因はやはり自分なのだ。


「……ごめんなさい。ごめんなさい……」


 ただただ謝ることしか出来ない。事態を混乱させて、みんなに迷惑をかけて、それなのに自分ではそれをどうにかすることは出来ない。そんな自分が情けなくて、恨めしくて、アシュリンは謝罪の言葉を繰り返す。だが、


「……アシュリン。大丈夫だから、もう泣かないで……」

 自分の名を呼ぶ優しい声と、頭を撫でる大きな手の温もりに、アシュリンは涙を懸命にこらえて、その声の主を見上げる。


「うん。そう、泣かないでアシュリン。……僕が、僕が何とかするから……」

 リオンはそう言って微笑んだ。


「マリエさん、コンテストの参加者の変更はできますか?」

「えっ、あっ、うん。可能や。というか、まだ参加申し込み期限になっとらんし、ギーロフ達もどちらが参加するかは決めかねとるとこやったから。……せやけど、リオンさん……」


 心配そうなマリエールとは対称的に、リオンははっきりと、


「僕が出ます。正直、何日か練習した程度では、いくらギーロフさんとセコンドさん達でもあのレベルのケーキを作ることは不可能でしょうから」


 そう告げた。


「……リオンさん……」

 頭に置かれた手がかすかに震えているのがわかり、アシュリンはリオンが無理をしていることが分かった。


「大丈夫。後は僕にまかせて……。だから、もう泣かないで」

 優しい気遣いが辛くて、申し訳がなくて、再び涙が込み上げてきそうになってしまったが、リオンの願いにアシュリンは涙を堪える。


「ありがとう」

 お礼を言わなければいけないのは、謝らなければいけないのは自分の方なのに、リオンはアシュリンに礼を言った。


「……ごめんな。それと、本当にありがとうな、リオンさん」

 マリエールの謝罪と感謝に、リオンは「いえ、僕が決めたことです。気にしないでください」と答えて、静かに拳を握りしめた。

 こうして、アシュリンの思いとはかけ離れた理由で、リオンのケーキコンテストへの参加が決定することとなった。 





 大規模ではないにしろ、他のギルドを巻き込んでのイベントである以上、失敗は許されない。本番まで後二日と差し迫った中、<三日月同盟>のメンバー達は懸命に働いていた。


 会場の準備はもちろん、当日の進行の打ち合わせや、それに伴う必要な機材の調達と整備等を執り行うのは、多少人数が増えたとはいっても、未だに小さなギルドに過ぎない<三日月同盟>にとっては大仕事だ。


 誰もが大忙しでイベントの準備をしながら、不安と期待が入り混じった思いを抱いている。それは、<三日月同盟>の女性陣を取りまとめる、明日架も例外ではなかった。


「まったく。まさか、こんなことになるなんて……」

 彼女達が抱える不安とは、このコンテストの成否だけではない。それは、先日、臆面もなく自分たちのギルドに乗り込んできて、悪態をついて言った男、<ハーメルン>のシュレイダの存在。


 ケーキを持参し、「お前たちに吠え面をかかせてやる」と、昨今、小悪党でも言わないような台詞を残していった。しかし、信じられないことにシュレイダが持って来たケーキは思わず唸ってしまうほどの美味だった。このままではケーキコンテストの優勝者があの男になってしまう可能性が高い。


 そんなことになれば、<三日月同盟>があの男とそのギルドを、<ハーメルン>を讃えなければいけないことになってしまう。あの悪徳ギルドが健在であると知らしめなくてはならなくなってしまう。そんな事態はなんとしても阻止しなければならない。


 だが、期待もある。『アシュリンのケーキ』と<三日月同盟>の女性陣に呼ばれていたケーキを作っていた人物が、同ギルドに所属しているリオンだということが明らかになり、彼が<三日月同盟>の代表としてコンテストに参加することとなったのだ。


 それに、他のギルドからも腕自慢の<料理人>が参加する。どのような作品が出てくるのか期待しないでいろというのが無理だろう。


 そんな大きな不安と期待を胸に抱きながら、明日架達は全員一丸となってその準備にとりかかり、多忙な日々を送っていた。……とある男を除いて。


 コンテスト会場での今日の午前中の指示を終えて、息つく暇もなく急いでギルドホールに戻ってきた際に、厨房のあたりをこそこそと動き回るその男の姿が目に入ると、明日架は考えるよりも先に怒鳴り声をあげていた。


「こらぁ! みんなが大忙しで働いているのに、サボっているんじゃないわよ、このバカ狐! とっとと会場設営に行きなさい!」

「へん。こっちとら、ようやく<アキバ>の街に帰ってきたばかりで疲れきっているんだよ。少しくらい休ませてくれたっていいだろうがよ」

 明日架に見つかった狐耳を頭につけた男――飛燕は、一瞬まずい、といった表情になったものの、すぐにいつものニヤけた顔でそんなふざけた言い訳をする。


「そんなのもう先週のことでしょうが! 馬鹿なこと言っている暇があったら、小竜を見習ってまじめに働きなさい!」

 軽快な動きで逃げていく飛燕を、明日架はギルドホールの外まで追いかけまわしたが、レベル九十の<暗殺者>のスピードには結局追いつくことは出来なかった。


「もう! 後で覚えていなさいよ!」

 時間の無駄だということに気づいて、小さくなっていく飛燕の背中にそう負け惜しみを言い、やむを得ず明日架は仕事に戻ることにする。この忙しい中、無駄に時を浪費してしまった。


 次の仕事――ギルマス達の書類仕事を手伝うために、マリエールの部屋に向かう途中、明日架はこちらに向かってくるアシュリンに気づき、彼女に声を掛ける。


「あらっ、アシュリン。これからリオンさんのところに行くの?」

「あっ、はい。リオンさんになにか差し入れを持って行こうと思いまして……」


 今回のケーキコンテストの<三日月同盟>の代表をリオンにする旨の報告があった際に、マリエールがみんなに伝えたため、『アシュリンのケーキ』を作っていたのがリオンであることが周知の事実となった。そして、アシュリンが毎週彼の家に通っていたということもみんなが知ることとなった。


 もっとも、アシュリンには話していないが、明日架はマリエールから、今回のリオンとアシュリン、そしてヘンリエッタの一連の事柄を教えてもらっている。他のみんなとは異なり、アシュリンがリオンの言う『特別なケーキ』を作るために協力していた事実を知っている。


 それは、ギルドメンバーの不信感を和らげるためにも、女性陣のまとめ役である明日架には事情を話しておいたほうがいいとマリエールが判断したためだった。


 そして事情を知った明日架が、みんなを懐柔する側に回ってくれたおかげで、<三日月同盟>に大きな亀裂が生じることはなかった。マリエールの判断が英断だったことは間違いない。


「そうなんだ。……優しいわね、アシュリンは。うん。いい子いい子」


 コンテストの開催が迫り、人数が少ない現状では一人でも重要な戦力であるため、アシュリンも頑張って働いている。それでも少ない休憩時間を割いて、こうして足繁くリオンの元に通っているのだ。それがあまりにも健気で、明日架は思わずアシュリンの頭を撫でる。


「いいえ。その、私にはこれくらいのことしか出来ませんから……」

 だが、アシュリンの顔色は優れない。リオンの事がよほど心配なのだろうと明日架は察した。


「そんなことないわ。なかなかできることじゃないわよ。まったく、あのサボり魔にアシュリンの爪の垢を煎じて飲ませて……」

 明日架はふと妙案が思いつき、にっこりと満面の笑みを浮かべる。


「アシュリン。差し入れって、どこかで買って行くつもりなのよね?」

「はい。マリエさんも心配して、何か元気が出るものを買っていってあげなさいってお金をくれましたから。……でも、何を買って行ったら喜んでくれるのか分からなくて……」


 予想通りの返答に、明日架は「大丈夫。私に任せておいて」と、アシュリンに自分についてくるように言い、二人で厨房に向かう。


「あっ、ギーロフ。もう昼食の準備は終わっている?」

「んっ? ああ。ちょうど今終わった所」

 声をかけられ、ギーロフはそう答えて安堵の溜息をつく。


 ケーキコンテストに向けて全員が懸命に働いているが、食事担当のギーロフ達の負担は大きい。様々な雑務をこなしながらも、食事時に間に合うように料理を作らなければいけないのだから。セコンドと二人で交代しながら仕事をしているとは言っても、その苦労は並大抵のことではない。


「今回はシチューだけど、ただのシチューじゃないぜ。結構工夫してみたから、楽しみにしていてくれよ。疲れなんて吹っ飛ぶからさ」

 ギーロフはそう言って得意げな笑みを浮かべる。


 マリエールとヘンリエッタも、ギーロフとセコンドを気遣い、コンテストの準備期間中はどこかの店からお弁当でも取ることにしようとしていたのだが、二人の反対によって取りやめとなった。<三日月同盟>の食卓を預かるものとしての矜持がそれをよしとしなかったのだろう。


 お陰で温かくて美味しい食事を食べられるのだから、明日架も二人にはとても感謝している。


「へぇ、自信満々ね。ふふっ。お昼、楽しみにしているわね。……それで少しお願いなんだけど、そのシチューを一人分だけ先に貰えない? リオンさんに差し入れとして持っていってあげたいの」

 明日架の頼みに、しかしギーロフは困った顔をする。


「……ああ、そうか。リオンさんへの差し入れも考えて作るべきだった……。でも、悪い。今回は人数分しか作ってないから、余分な量は……」

「ああっ、大丈夫。飛燕の分はいらないから」

 爽やかな笑顔で、きっぱりと明日架は言い切った。


「えっ、あの、あっ、明日架さん?」


 アシュリンが何故か心配そうに言うが、明日架は笑顔を微塵も崩さず、


「どこのお店でも美味しいものは買えるだろうけど、リオンさんはきっとそういうものは食べ飽きているんじゃないかと思うの。その点、ギーロフが作ってくれた料理は、<三日月同盟>の料理は、久しぶりの、懐かしい味なんじゃないかしら」


 そう彼女を諭す。


「でっ、でも、飛燕さんの……」

「『働かざるもの食うべからず』よ。料理だって頑張っている人に食べてもらう方が嬉しいはずよ」

 明日架は無茶な理屈を平然と言い、戸棚から容器を取り出すと、ギーロフに「お願いね」とそれを手渡す。


「……ああ、それもそうだ。作った側としても、頑張っている人に食べて貰いたい」

 明日架の言葉で飛燕がまたサボっていた事を知り、ギーロフも思うところがあるのか、その提案を受け入れて熱々のシチューを容器に盛りつけてくれた。


「あっ、あの……」

 明日架は魔法の鞄を取り出し、そこにシチューを入れた容器を詰め込んで、「はい。熱いから、取り出すときは気をつけてね」と言い、心配そうなアシュリンに手渡す。


「あっ、その、ありがとうございます」

 アシュリンは少し戸惑いながらも、シチューの入った魔法の鞄を受け取る。


「それと、マリエさんからもらったお金はお小遣いにしていいわよ。私からマリエさんに言っておくから。お金を返そうとしても、マリエさんもきっと同じことを言うでしょうしね」

「えっ、でも……」

 申し訳無さそうな顔をするアシュリンの頭を、明日架は優しく撫でる。


「それと、もしもリオンさんの邪魔にならないようなら、ゆっくりしてきてもいいわ。午後の仕事は気にしなくてもいいから。リオンさんの力になってあげて。ねっ?」

 ここ数日は忙しくてリオンの家に行けなかった事を知る明日架の気遣いに、アシュリンは頭を下げて「あっ、ありがとうございます」と嬉しそうに礼を言う。


「ちょっと待った。リオンさんのところでゆっくりしてくるかもしれないのなら、アシュリンの分も別の容器に入れておくから一緒に持って行くといい。リオンさんが忙しいようなら持って帰ってくればいいだけだしさ。

 それと、今度からは少し多めに作るようにするから、リオンさんのとこに行くときには、俺かセコンドに教えてくれよ。おいしい料理を持たせるからさ」


 ギーロフもそう言って微笑み、


「それと、これは俺の我儘だけど、また美味しいケーキを食べさせて欲しいってリオンさんに伝えてくれると嬉しいな。うちの男連中のほとんどが、あの人のケーキを食べていないからさ」


 更にそう続けて、明日架に意味ありげな視線を向ける。


「しっ、仕方ないでしょう。いつも二、三個くらいしかなかったんだから」

 明日架はそう言い訳をするが、やはり後ろめたいものがあるため、その言葉に勢いはない。


「ははっ、冗談だよ、冗談。そこまで意地汚くないよ、俺は。まぁ、リオンさんのケーキをまた食べたいっていうのは本当だけどさ」


 ギーロフとセコンドにケーキ作りを指導してほしいというマリエールの頼みに、リオンが二人に代わってケーキコンテストに出ると告げた翌日。律儀な彼はこの<三日月同盟>のギルドホールを訪れ、ギーロフとセコンドに、二人の代わりに代表にさせてほしいと頼みに来たのだ。


 その際に、リオンは自分の作ったケーキを持参し、それを食べてもらい、結果二人を納得させて<三日月同盟>の代表となった。


 しかし、その時に、毎週アシュリンにケーキをおみやげに持たせていたことをリオンが二人に話してしまったため、何ヶ月も前から『アシュリンのケーキ』という名称で、<三日月同盟>の女性陣だけが美味しいケーキを食べていたという事実が、男性陣にも明らかとなってしまった。


 もっとも、フェミニストの多いこのギルドではそのことに対してどうこういうものはいなかった。


 ――約一名、「ずるい」だのなんだと言っていた狐耳の男の顔が浮かんだが、明日架はそれを忘却の彼方へと追いやる。


「ありがとうございます、ギーロフさん!」

 アシュリンの感謝の笑顔につられ、ギーロフも嬉しそうに微笑む。


「ほらっ、もう少しでお昼になるから、その前に持って行ってあげて。リオンさん、きっと喜んでくれるわ」

「はい!」

 アシュリンは元気にそう答えると、「行ってきます」と言って小走りでギルドホールを出て行った。


 それを見送りながら明日架は微笑む。


 不安はある。ケーキコンテストの成否はもちろんのこと、<ハーメルン>のシュレイダのこと、そして、ヘンリエッタさんとリオンさんのことも。けれど、小さな身体で懸命に頑張っているアシュリンの姿に、その思いはきっと無駄にはならない。きっと報われる。そう明日架は願い、信じる事にした。


「ギーロフ。いろいろ余計な仕事をさせてしまって、ごめんなさいね」

「なに、大したことはしてないさ。それに、アシュリンに少しでも協力できて嬉しかったよ。……頑張っているもんな、アシュリンも」

 明日架の謝罪に、しかしギーロフは笑顔でそう答えた。


「ええ。私達も負けていられないわよね」


 明日架は思いを口に出して自分に気合を入れると、


「……大丈夫。うん、そうに決っている。私達も頑張るからね、アシュリン。みんなで頑張ればきっと上手く行くわ」


 もうこの場にいないアシュリンと自分自身にそう言い聞かせ、仕事に戻ることにした。





 試作のケーキを切って皿の上に盛り付けると、リオンはしばらくその形を確認し、その後試食を始める。


「うん。悪くはないけれど、やはりチョコレートは使わないほうがいいかな。あまりにも種類が少なすぎて、味が単調になってしまう。一日置いてもこの味では……」

 リオン自身何度目かも分からない駄目出しをすると、また次のケーキの試食を試みる。


「……これは駄目だな。自家製のリキュールではどうにも深みが出ない。寝かせる時間が少ないから仕方がないか……。きちんとしたリキュールやブランデーが手に入ればもう少し作れるケーキの幅が広がるんだけど。まぁ、ないものねだりをしても始まらない……」

 正しい調理法の伝達によって、食という人間の欲求に基づくものの進歩は驚くほどの早さで進んだ。人類の歴史上どこにでも登場する酒類も、当然のことながら研究が進んでいる。だが、いくら研究が進んでも、時間だけはどうにもならない。長い時間を掛けて熟成された奥深い味わいを短時間でつくり上げることは出来ないのだ。


「……どうすればいい。何を作ればいい……。コンテストまでは後二日。ケーキはその場で調理するわけではないから、今日には何を作るのかを決めて、明日には完成させないとケーキの味をなじませる時間がなくなってしまう……」

 リオンは焦りながらも懸命に考える。どうすればあのチーズケーキに勝てるケーキを作れるのかと。

「でも、あのチーズケーキがあの男の渾身の作とは限らない。もっとすごい何かを作ってくる可能性もある。いや、きっとそうに違いない……」


 もしもケーキ作りで、あの男に、シュレイダに負けてしまったら、自分の全てが否定されてしまう。<エルダー・テイル>のプレイヤーとして敗北しただけではなく、これまで長い時を費やし、努力を重ねて懸命に取り組んできたケーキ職人としても、奴らに、<ハーメルン>に膝を折るような事になってしまえば、自分は無価値な人間になってしまう。それを考えると、リオンは不安で仕方がなかった。逃げ出してしまいたいと思うほど、怖くてたまらなかった。


「……怖い、怖いな。本当に嫌になる。どうして僕はこんなに臆病なんだ……。でも、もう逃げる訳にはいかない。あんな幼い子ども達を、トウヤとミノリを悲しませた上に、アシュリンまで悲しませてしまった。泣かせてしまったのだから……」


 いい年をした大人が、年端もいかない子どもを悲しませて、これ以上逃げる訳にはいかない。トウヤとミノリだけでなく、ずっと自分の心を癒してくれたアシュリンまでも、これ以上悲しませる訳にはいかない。

 それは小さな決意だったが、それがリオンに<ハーメルン>との戦いを決断させ、今こうして彼を踏みとどまらせているものだった。


「……もう時間はない。でも、自分さえ納得ができないケーキをコンテストに出すわけには行かない。そんな気合の入っていないケーキでは……」


 リオンがそう堂々巡りのケーキ選びを続けていると、コンコンとノックの音が彼の耳に入ってきた。「リオンさん」と呼ぶ声に、ノックの主がアシュリンだと分かり、リオンは急いでドアの前に行き、それを開ける。


「やぁ、いらっしゃい、アシュリン」


 いつもと同じ笑顔でリオンは出迎えたつもりだったが、アシュリンは目を大きく見開き、


「りっ、リオンさん! だっ、大丈夫ですか? その、ものすごく疲れているみたいですけど……」


 そう心配そうに気づかいの言葉を口にする。


 <三日月同盟>の代表としてコンテストにでる事が決まってからと言うもの、リオンはほとんど眠っていなかった。アシュリンに心配されるのも仕方ないほどに、彼の顔は疲労の色が濃かった。


「あっ、ああ。コンテストに出すケーキを何にしようか考えていると、なかなか休めなくてね」

 リオンはそう言って苦笑する。


「あの、差し入れを持って来たんですけど……。その、お邪魔になりそうなので、それだけ置いて帰りますね」

 申し訳無さそうに言うアシュリンに、リオンは微笑み、首を横に振った。


「いや、よかったら上がっていってくれないかな。考えがまとまらなくて気分転換をしたいところだったんだ。それに、ぜひアシュリンに飲んで欲しいお茶があるんだ。きっと気に入ってくれると思うよ」


 多少アシュリンを気遣った部分もあるが、リオン自身、少し気分転換がしたかったのは事実だった。


「はい!」

 嬉しそうに微笑むアシュリンを見ると、リオンもなんだか嬉しくなり、少しだけ心が軽くなった気がした。


「えっと、これが差し入れです。ギーロフさん特製のシチューなんですよ。ギーロフさんは、食べたら疲れが吹っ飛んでしまうって言っていました」


 アシュリンは自分の分と食事道具も持参してきたようで、テーブルの上にカバンから取り出した容器を置き、それと木製のスプーンとフォークを添えてリオンの前に配膳してくれた。いつもとは逆のその行動が不思議で、何故か可笑しくて、リオンは笑みを浮かべる。


 アシュリンが自分の分もテーブルに並べ終えるのを確認し、リオンはアシュリンと一緒に「いただきます」と挨拶の言葉を口にし、ギーロフ特製のシチューを口に運ぶ。


「……うん、うん。すごく美味しいよ……」

 鶏肉がメインのシチューのようだが、何種類もの野菜が一緒に柔らかく、けれどその形を崩さずに煮込まれているので食感も楽しめる。メインの鶏肉もぶつ切りにされたものだけではなく、ひき肉を団子状にしたものも含まれていて、それが何とも奥深い味わいを醸し出していた。


「よかったです。リオンさんに喜んでもらえて」

 アシュリンは心から嬉しそうに微笑み、自分もシチューを口に運ぶ。


 鶏肉がメインのシチューはどちらかと言えばあっさりとした味のはずなのに、このシチューは奥深い味わいで、かといってくどさもない。他にも賛辞する言葉はいくつもリオンの頭に浮かんできたが、それを言葉に出すことはなく、彼の口はシチューを食べることにのみ費やされる。


 思い返してみると、ケーキの試食を軽くするだけでろくなものを食べていなかったことにリオンが気づいたのは、綺麗にシチューを完食した後だった。


「すごい、リオンさん……」

「あっ、ああ、ごめん。夢中で食べてしまった」

 アシュリンが半分も食べ終わらない内に、あっという間にシチューを平らげてしまい、リオンは恥ずかしそうに頬を掻く。


「いいえ。そんなに一生懸命食べてくれた事を知ったら、きっとギーロフさんも喜んでくれると思います」

 アシュリンのその言葉に余計気恥ずかしくなって、リオンは「はははっ」と照れくさそうに笑うことしか出来なかった。



「よし、それじゃあ、食後のお茶を淹れよう」

 アシュリンがシチューを食べ終える頃合いを見計らって、リオンはお茶の準備を始める。


「いい香り。それに、とても綺麗な色ですね」

 さわやかな香りとガラス製のティーポット越しに見える綺麗な淡い青紫色に、アシュリンはそんな感想を口にする。


「特製のハーブティーなんだ。ケーキ作りの合間にいろいろなブレンドを試してみて、ようやく納得のいく配合を見つけたんだ」

 アシュリンの言葉にリオンは僅かに笑みを浮かべ、透明なガラスのカップにハーブティーを注ぐ。


「さぁ、どうぞ」

「いただきます」

 アシュリンはそのハーブティーを口にし、「美味しいです」と可愛らしい笑みを浮かべる。


「よかった。なるべく癖が強く出過ぎないように試行錯誤したかいがあったよ。でもね、このハーブティーにはもう少し仕掛けがあるんだ。ちょっとそのカップを借りるよ」


 リオンはそう言って悪戯っぽく微笑み、冷蔵庫からレモンを取り出すと、それをナイフで半分にカットして、その果汁を一、二滴アシュリンのカップに絞り落とす。


「えっ!」

 すると、淡い青紫色だったハーブティーが、瞬く間に淡い桃色に変わった。


「すっ、すごい! 色が一瞬で……」

「このハーブティーにはブルーマロウというハーブをブレンドしてあるんだ。それは不思議なハーブでね、こうやってレモン汁を入れると色が変わるんだよ」

 予想以上に驚くアシュリンに、リオンは嬉しそうに色が変わる理由を分かりやすく説明する。


 アシュリンはその説明を聞き、満面の笑みを浮かべると、


「すごいです。やっぱり、リオンさんの作るものには魔法がかかっているんですね」


 そう言った。


「えっ……、魔法? いや、これは……」

 色が変わる理由を説明したのに、何故そんなことを言うのか分からず困惑するリオンに、アシュリンは恥ずかしそうに頬を染めて言葉を続ける。


「あっ、ごめんなさい。私が勝手にそう思っているんです。リオンさんの作るケーキ、それと淹れてくれるお茶にも、みんな魔法が掛かっているって」

「僕の作るものに……魔法が?」

 思いもかけない言葉に、リオンはどんな反応をしていいのか分からず呆然とするしかなかった。


「はい。でも、その魔法は、<エルダー・テイル>の魔法とは違う魔法なんです。それは、みんなを幸せにする魔法で、みんなに幸せを運ぶ魔法。お伽話に出てくるような素敵な魔法なんです」

 アシュリンは恥ずかしそうに、けれど笑顔でそう言い切る。


「リオンさんの作るケーキを食べた人はみんな笑顔になるんです。美味しいって言って、笑顔に。そして、それを見ていると、私まで嬉しくなってしまうんです」

 呆然とするリオンに、アシュリンは熱のこもった言葉で訴える。


「リオンさんは、食べる人に喜んでもらいたいからケーキを作っていると言っていましたよね? 私はきっとその思いがケーキに、いえ、きっとリオンさんの作る全てのものに魔法をかけていると思っているんです。

 もちろん、このハーブティーもそうです。美味しいだけじゃなくて、とても不思議で面白くて、私を笑顔にしてくれました。だから、このハーブティーも魔法のハーブティーなんです……」

 そこまで熱弁を振るったアシュリンだったが、リオンが呆然と固まったままだった事に気づき、顔を一掃赤くして俯いてしまった。


「あっ、あの、ごめんなさい。変なことを言ってしまって……」

 か細い声で謝罪の言葉を述べるアシュリンに、リオンは首を横に振る。


「いや、ありがとう、アシュリン。それなら、僕の作るケーキは、『魔法のケーキ』なのかな?」

 リオンはそう呟き、微笑む。今にもこぼれ落ちてしまいそうな涙をこらえて。


「はい。リオンさんの作るケーキは『魔法のケーキ』です!」

 アシュリンは無邪気に笑顔で同意する。そこには世辞でも何でもない、心からの思いが込められていた。


「……うん。そうか、僕の作るケーキが『魔法のケーキ』か……。ありがとう、アシュリン」

 リオンはもう一度感謝の言葉を述べると、袖で顔を拭って笑顔を浮かべた。


 リオン自身が思い描き、あるはずがないと否定した『魔法のケーキ』。魔法の内容は違っていたが、アシュリンのその言葉は、リオンにとって何よりもの励ましになった。


 リオンのそんな思いはわからないだろうが、リオンが笑顔を浮かべたことにアシュリンも嬉しそうに微笑む。


 そんなアシュリンに、リオンは一つだけ頼み事をする。


「アシュリン。僕が作ったケーキを今まで何種類も食べてもらったけれど、君が一番美味しいと思ったケーキは何か教えてくれないかな?」

「えっ、一番美味しかったケーキですか? えっ、えっと、リオンさんのケーキはどれも美味しいから難しいです……」


 突然の質問にアシュリンは慌てる。だが、リオンは苦笑し、


「いや、そんなに難しく考えなくてもいいよ。軽い気持ちで答えてもらいたいんだ。君が一番好きなケーキを上げてくれればいいから」


 そう優しい口調でアシュリンに答えを求める。


 アシュリンはしばらく考えていたが、やがて一つの答えを出した。


「その、イチゴのショートケーキです。一番初めに食べたからというのもあると思いますけど、あのケーキが一番私は好きです」

「……そうか。ありがとう」


 リオンはアシュリンが答えてくれたことに礼を言う。そしてこれが、リオンがコンテストに出すケーキを決定した瞬間だった。






 <三日月同盟>主催のケーキコンテストの準備もようやく峠を超え、ヘンリエッタはマリエールと相談し、明日は自分とマリエール、そして明日架と小竜の四人で午前中に最終打ち合わせを行うことにして、他のギルドメンバーにはゆっくり休んでもらうことにした。


「……元はといえば、私の失言が全ての原因。みんなには本当に迷惑をかけてしまいましたわね」

 明日が休みということで緊張の糸が緩んだためだろう。今日の夕食は昨日までとは違うのんびりとしたものだった。


 しかし、ヘンリエッタは仲間たちとの談笑もそこそこに、夕食を済ませると直ぐに一人自室に戻り、机に向かって明日以降の事を考え続けていた。

「……ここまでは順調。みんなの頑張りのお陰で、コンテスト開催までは問題なさそうですわね」


 そう思いながらも、ヘンリエッタの心は落ち着かない。いや、それどころか、釈然としない気持ちが日増しに強くなっていくのを感じていた。

「コンテストはリオンさん次第。私にできる事は、コンテストを無事に終わらせることだけ。その後のことは全て……」

 最良ではない。けれど、そこが一つの落とし所であることは間違いない。だが、その一方で、それでは不足だと思う、納得出来ない自分がいる。


「……これは、私のエゴ以外の何物でもないですわ……。でも……」


 ヘンリエッタは机に置かれた小さな布袋に目をやる。それは、つい何時間か前にアシュリンから贈られたものだった。




 食堂から自室前まで戻り、きっとまた今晩も眠れない夜になるだろうと思い、ヘンリエッタがため息混じりに部屋のドアを開けようとした時だった。嘆息する彼女の背中に、不意に声がかけられたのは。


「あの、ヘンリエッタさん……」

 突然の声に少し驚きはしたものの、それがアシュリンのものだと分かり、ヘンリエッタは何とか笑顔を作って振り向く。


「あらっ、アシュリン。どうしたんですの?」

「あっ、あの、すみません。一人分しかないので、みんなの前では渡せなくて……。これ、貰って下さい」

 アシュリンはそう言い、ヘンリエッタに小さな布の袋を手渡す。可愛らしい花の刺繍が施されたそれは、ヘンリエッタの手に収まると、彼女の鼻に優しい香りを届けた。


「これは、ポプリですわね。でも、どうして私に?」

 突然のアシュリンからの贈り物に、嬉しいとは思いながらも何故自分にこれをくれるのか分からず、ヘンリエッタは尋ねる。


「あの、ヘンリエッタさんに少しでも元気になってもらいたくて……。それに、最近は特に忙しくてあまり眠っていないように思えたので、店の人にお願いをして安眠できるハーブを入れてもらいました。眠るときに枕元においておくと良いって、そのお店の人が言っていましたから、試してみてください」

 そう笑顔で答えるアシュリンがあまりにも愛おしくて、ヘンリエッタは思わず彼女を抱きしめてしまった。


「あっ、あの、ヘンリエッタさん?」

「……ありがとう、アシュリン。さっそく今晩試してみますわね」


 ヘンリエッタは震えた声でアシュリンに礼を言う。少しでも気を抜くと泣いてしまいそうで、ヘンリエッタは自分の気持ちが落ち着くまでの間、しばらくアシュリンを抱きしめ続けた。


「ふふっ、ごめんなさい。あんまりにも嬉しくて抱きしめてしまいましたわ。本当にありがとう、アシュリン。大切にしますわ」


 やがてアシュリンを開放し、ヘンリエッタがもう一度礼を言うと、アシュリンは、


「良かったです。ヘンリエッタさんに喜んでもらえて」


 そう言ってまた無邪気な笑顔を浮かべる。


 その笑顔は、ヘンリエッタに再び抱きしめたいという衝動に駆らせると同時に、彼女の胸に強い痛みを与えた。


「お仕事の邪魔をしてすみませんでした。でも、今日はゆっくり休んで下さい」

 アシュリンはヘンリエッタの思いに気づくこともなく、そう言い残して食堂に戻っていった。


 きっとまだ食事中であったのに、自分が食堂を後にしたために慌てて追いかけてきたであろうことが分かり、ヘンリエッタは再び胸に痛みを覚え、思わず言葉が漏れた。


「……ごめんなさい、アシュリン」

 アシュリンから贈られたポプリを、彼女の気持ちの篭った贈り物を見ていると、心の内に留めておくことが出来なくなり、ヘンリエッタはこれをアシュリンが渡してくれた時に漏らした言葉を、謝罪の言葉を再び口にし、ポプリを優しく両手で包み込む。


「……駄目ですわね。やはり納得がいきませんわ……。この優しい思いを裏切ってまでの結末が、そんな終わり方でいいはずがないですわよね……」

 そしてそう呟くと、ヘンリエッタは一つの決意を固めた。





 何故か妙に目が冴えてしまい、アシュリンはベッドで眠れぬ時間を過ごしていた。

 仕方なく、アシュリンは目をつぶりながら、ぼんやりと今日の出来事を思い出す。


「……明日架さんがお休みをくれたから、今日はリオンさんとゆっくりお話ができて、そして、ギーロフさんが美味しいシチューを持たせてくれたから、リオンさんにも喜んでもらえて……」

 心のうちで呟き、アシュリンは嬉しい思いとともに湧き上がってくる、もう一つの気持ちを抑えることが出来なかった。


「このギルドの、<三日月同盟>のみんなはとても優しくて、そして立派な人達ばかりで。……結局、私にできることなんてほとんどなくて……」


 その気持ちは、自身の無力さに対する罪悪感。この<エルダー・テイル>の世界に閉じ込められて、マリエール達に助けてもらってから、ずっと抱いていたもの。けれど、リオンがヘンリエッタに怒り、怒声を上げるのを目の当たりにした、あの日から、それが一層大きくなっていた。


「このままでは駄目だと思って、頑張ろうとしたけれど、結局それは他の人に、にゃん太さんやシロエさん達に迷惑をかけることになってしまって……」

 アシュリンは小さくため息をつく。


「……本当に私は何も出来ないな。今日だってそう。リオンさんへの差し入れも明日架さんが考えてくれて、そしてギーロフさんが作ってくれた料理を届けて、リオンさんと一緒にお昼を食べただけ。その上、変なことまで言ってしまって……」

 アシュリンはもう一度ため息をついたが、何とかその暗い考えを振り払う。


「でも、リオンさんは私の話をきちんと聞いてくれた。何故かはわからないけれど、コンテストに出すケーキも決まったと言っていた……。それに、ヘンリエッタさんも……」

 ヘンリエッタの喜んだ顔を思い出して、アシュリンは微笑む。


「リオンさんの淹れてくれたハーブティーからの簡単な思いつきだったけれど、ヘンリエッタさんは喜んでくれた。ありがとうって言ってくれた」


 明日架にお小遣いにしてもいいと言われたものの、リオンのためにとマリエールから渡されたお金を自分のために使うことを心苦しく思い、アシュリンはそのお金でヘンリエッタへのプレゼントを買うことにした。ヘンリエッタも、リオンの事やコンテストの事であまり眠っていないように、疲れているように思えたから。


「……でも、もう少し、私にも何かできないのかな? こんな当たり前のことじゃなくて、もっとみんなのために何かしたいのに……」

 アシュリンは懸命に自分を励ましたものの、すぐにそれは悲しい気持ちに塗りつぶされてしまう。


「私が子供だから、こんなに何も出来ないの? それなら、私は早く大人になりたい……」


 子供の自分には分からないことがいっぱいで、出来ないことばかりが多くて。もしも、自分が大人ならば、こんな思いをしなくてもすむのではないかと、もう少しみんなのために何かできるのではないかとアシュリンは思う。


 だが、現実は変わらない。自分は子供であり、何の力も知識もない駆け出しの<冒険者>の一人に過ぎないのだから。


「……早く、大人になりたいな……」

 詮無きことだと理解しながらも、アシュリンはもう一度そう呟いた。

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