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橙乃ままれ先生の『ログ・ホライズン』のスピンオフ作品、松モトヤ先生の『ログ・ホライズン外伝 ハネムーン・ログズ」の二次創作です。
※前編は誤って短編小説で投稿してしまったため、後編とは別個になっています。
前編 http://ncode.syosetu.com/n7954bt/
――本当は分かっているんだ。
「……なるほど。だからあのレベルの高い魔術師の方にモンスターの攻撃が集中してしまうんだね」
「うん。激しい攻撃を仕掛ける相手を、モンスター達は一番脅威に思って、そこに集中して攻撃を仕掛けてくるんだ」
「……すごいね。あいつらが知らないことも、君はよく分かっているんだね」
「いや、別に俺がすげぇんじゃないよ。ものすげぇ優しくて頼りになるプレイヤーがいろいろ教えてくれたんだ。シロエって名前の兄ちゃんなんだけど、ほんとにすげぇ人なんだぜ。前にミノリと一緒に……」
――僕の言う「特別なケーキ」なんてできはしないことを。
「……ここも、ひどい状況なんだね。こんな部屋に何人も閉じ込められて……」
「あっ、あの、いいんですか? いつもよりパンの量が……。それに、果物まで……」
「今日は見張りの人間が怠けてくれているからね。ほらっ、見つかる前に皆に配ってしまって。特に、体調不良で倒れてしまったっていう<料理人>の子にはしっかり食べさせてあげて。
湿気った煎餅みたいな味しかしないパンと僅かな量の果物で申し訳ないけどね。本当はもっと美味しいものを食べさせてあげられたらいいんだけど……」
――もしも、そんなものができるのであれば、それはお伽話に出てくる都合のいい魔法のようなものだ。ありはしない。できはしない。空想上のものに他ならない。
「すっげー。リオンさんてケーキ屋さんなんだ」
「ははっ。僕は雇われている身だから、お店は持っていないけどね。でも、十年以上ケーキを作り続けていたから、大抵のケーキは作れるよ。……ここが元の世界ならば、君たちにも作って食べてもらいたいんだけど……。ここではケーキを作っても、みんなあの味になってしまうからね」
「いや、それでもいいから、俺、リオンさんが作ったケーキを食べてみたい!」
「うん。ありがとう。もしもこんなギルドから自由になることができたら、ご馳走するよ。君たち二人のためのケーキを……」
――なぜなら僕は、それができることを信じていない。
「リオンさん……どうして、どうしてそんなことを言うんだよ……」
「…………」
――いや、それができない事を望んでいるのだから……。
まだ早朝であるにもかかわらず、<三日月同盟>のギルドホールは騒然としていた。
アシュリンも騒ぎで目が覚めて、何があったのだろうと思い、皆が集まっている所――ヘンリエッタの部屋の前に駆けつける。
「……あっ、あの、一体なにが……」
近くに居たリリアナに尋ねると、彼女は説明する前にアシュリンを抱きしめた。
「あっ、あの、リリアナさん……」
抱きしめられて、アシュリンはリリアナの身体が震えていることに気づく。
「あっ、アシュリン。ヘンリエッタさんが大怪我をして運ばれてきたの……。何故かは分からないけれど、一人で街の外に出て行ったらしくて……」
涙を必死にこらえながら、リリアナは事情を説明してくれたが、アシュリンはしばらくその意味が理解できなかった。
「……みんな、心配かけてゴメンな」
不意にヘンリエッタの部屋のドアが開き、そこからマリエールとにゃん太の二人が出てきた。
「マリエさん、ヘンリエッタさんは?」
集まったみんなは異口同音にヘンリエッタのことを尋ねる。
「大丈夫や。怪我はここに運んでくる前に、にゃん太班長が手当してくれとったからなんともない。今はただ疲れて眠っているだけやから、安心してや」
マリエールの言葉に、みんなは安堵する。それはもちろんアシュリンも同様だった。
「大事に至らなくて幸いでしたにゃ。それでは、そろそろ家のみんながお腹を空かせて起きてくる頃ですので、吾輩はこれで失礼致しますにゃ。
みなさんも心配なのはわかりますが、とりあえずお腹を満たした方がいいですにゃ。朝食を食べないと頭がうまく回りませんのにゃ」
にゃん太はそう言い、マリエールとみんなの感謝の言葉を背に帰って行った。
「……うん。にゃん太班長の言うとおりやな。とりあえず朝ごはんにしよか。ギーロフ、セコンド。すまんけど朝ごはんの用意を頼むで」
マリエールはそう言って微笑む。
「そうですね。ほらほら、みんな。ここで騒いでいたら、休んでいるヘンリエッタさんの迷惑になるわ。とりあえず朝ごはんを食べましょう」
明日架がそれに同意し、みんなを半ば強制的に食堂へと追いやる。
「マリエさん……」
アシュリンはその場に残り、マリエールに声を掛けた。
「大丈夫やよ、アシュリン。梅子にはうちがついとるから。朝ごはん、食べてきいや」
マリエールは笑顔で言うが、無理をしているのは明らかだ。
ヘンリエッタが大怪我をした理由は分からない。しかし、それにリオンとの事が関わっているであろうことは、アシュリンにも容易に想像がついた。
だが、繋がらない。ケーキのお店を開くかどうかで口論になったことと、ヘンリエッタが大怪我をした理由が繋がらない。
「……大丈夫や。後のことはうちにまかしときや」
「マリエさん……」
アシュリンに、そして自分自身に言い聞かせるようにマリエールは言う。だが、その言葉にアシュリンは違和感を覚え、そして察した。
マリエさんは自分に任せておくようにと言った。それは、マリエさんが自分の知らない何かを知っていて、それは自分には教えたくないことなのだろう。そして、それがおそらくヘンリエッタさんが大怪我をしたことと関係している。
「あっ、やっぱりまだここにいたのね、アシュリン。ヘンリエッタさんのことが心配なのは分かるけれど、とりあえず朝ごはんを食べましょう。ねっ?」
食堂にアシュリンが来ないことを心配したのだろう。リリアナがアシュリンを迎えに来た。
「ほら、アシュリン。とりあえず腹ごしらえや。うちももう一回梅子の様子を確認したら食堂に行くから、先に食べとってや。リリアナ、アシュリンのこと頼むで」
「まっ、待ってくだ……」
アシュリンの静止の言葉よりも早く、マリエールはヘンリエッタの部屋に入っていってしまった。
「ほらっ、マリエさんの言うとおりにしよう、アシュリン」
「……はっ、はい……」
うしろ髪を引かれながら、アシュリンはリリアナの言葉に従って食堂に足を運ぶことにした。
だが、席につき、美味しそうな食事を目の前にしても食欲が湧いてこない。もっとも、それは他のみんなも同様のようで、楽しい食事風景とはとても呼べない状況だった。
誰もが食事もそこそこに、ヘンリエッタを心配し、また何故彼女が大怪我をしたのか様々な憶測を述べ合う。それが詮なきことだと分かっていながらも、思いを吐露しなければいられないのだろう。
「……でも、リオンさんは関係ないだろう?」
アシュリンは周りの声を聞くとはなしに聞いていたが、不意に思いがけない単語を耳にして、席を立ち、その単語を、「リオン」の名を口にした人物のもとに駆け寄った。
「あっ、あの、今、リオンさんて……」
「なっ、どうしたんだよ、突然……」
普段は物静かなアシュリンが走り寄ってきたことに、男――ビリーは驚く。
「すっ、すみません。でも、いまリオンさんの事を話していませんでしたか?」
「ああ。だけど大した話じゃないぜ。昨日、ヘンリエッタさんが俺にリオンって人のことを教えて欲しいって言ってきたんだ」
「そうそう。私も聞かれた。リオンさんのことを」
ビリーの他に、何人もがそう口にする。そんな彼らの共通点はアシュリンにも直ぐに理解できた。それは以前<ハーメルン>に所属していたという事。
「それで、あの人がヘンリエッタさんが怪我をしたことに何か関係しているんじゃないか、って思ったんだけど、やっぱりあんまり関係はなさそうだなって話していたんだ。もう結構前にギルドホールを出て行った人だしさ」
「その、立ち入ったことを聞いてすみませんが、みなさんはヘンリエッタさんにどんなことを話したんですか?」
アシュリンは少しでも情報が得たいと思って尋ねたが、誰もが同じように「大したことは話していない」との答えだった。
だが、得るものもあった。ヘンリエッタも<三日月同盟>の中だけでは有力な情報が得られなかったのか、<ハーメルン>から<三日月同盟>以外のギルドに移った人の現在の所属先をみんなに尋ねていたことが分かったのだ。
アシュリンはヘンリエッタがそうしたように、<三日月同盟>以外のギルドに移った人達の現在の所属先を教えてもらった。
「アシュリン、いったいどうしたの?」
自分の行動を理解できないリリアナの問いかけに、アシュリンは「ごめんなさい」と謝り、席に戻り朝食を食べることにした。空腹のままではこれからの行動に差し支えが生じる。幸いなことに、ギーロフとセコンドの作る料理の美味しさも手伝って、何口か口に運ぶと食欲が目覚め、アシュリンは朝食を綺麗に完食することができた。
「うん。お腹いっぱい。後は部屋に戻って準備をして、さっき聞いた別のギルドに入会した人達に会いに行こう」
アシュリンは居ても立ってもいられず、リリアナにお詫びの言葉を残して食堂を後にした。
「う~ん。悪いけれど、俺もそれ以上のことは分からないなぁ」
ようやく辿り着いた、<三日月同盟>のギルドホールから最も距離の離れた場所に住む人物の元を訪ねたというのに、帰ってきたのはそんなつれない言葉だった。
「……そうですか。すみません。お忙しい中、ありがとうございました」
がっかりしながらも、アシュリンは話を聞いてくれた男の人に頭を下げて礼を言い、直ぐに別の人物の元に向かうことにする。
「……あと、二人。かなり遠いけど、頑張らないと……」
時折休憩を挟んだとはいえ、アシュリンの疲労の色は濃い。
この<エルダー・テイル>の世界に閉じ込められてしまった人間は、誰もが自分が作成したキャラクターに成り代わってしまっており、幸か不幸かは分からないが、自分が作成したキャラクターの能力をそのまま有している。そのため、現実世界以上に多かれ少なかれ身体的にも強化がなされているのだが、まだ低レベルのアシュリンにはその恩恵が薄い。
足の裏やかかとも痛い。かなり無茶をして歩き続けたのだから無理も無い。
それでも懸命にアシュリンは歩き続け、なんとか昼になる前に目的の人物のもとまで辿り着くことが出来た。だが、早朝から<アキバ>の街を歩き続けたアシュリンの体力はもう限界に近かった。
「お~い、ハミル、お前にお客さんだぞ」
雑貨屋の店員の男の人に事情を説明すると、そう目的の人物を呼んでくれた。
「あっ、はい。……って、え~と、あんたは……」
呼ばれて店の奥から現れたのは、三白眼の目つきの良くない男だった。
「はっ、初めまして。私、<三日月同盟>のアシュリンと言います。その、少し教えて頂きたいことが有りまして……」
「<三日月同盟>? ああっ、またか。……それで、教えてもらいたいことって何? リオンの事だって言うんなら、俺が知っていることは昨日、全部ヘンリエッタって人に話したんだけど」
さも面倒そうにハミルは言う。
「あの、申し訳ありませんが、そのヘンリエッタさんに話した事を私にも教えて頂けませんか?」
ようやく手がかりが見つかった事にアシュリンは少し安堵し、そう頼み込む。
「いや、だから、昨日話したんだから、ヘンリエッタって人に聞けばいいだろうが」
「お願いします!」
アシュリンは頭を下げて、もう一度話を聞かせてくれるように懇願した。
「……ったく、分かったよ。正直、何度も思い出したくねぇことなんだけどな……。それに、子供に聞かせて良い話じゃねぇんだけど……」
アシュリンがいつまでも頭を下げ続けることに根負けしたハミルは、最後にそう念を押してから話してくれた。リオンに何が起こったのかを。
「……うん。気にしないで。うん。良かったらまた連絡をしてよ、マリ姉」
長い念話での会話――というよりは、マリエールが一方的に話すのを聞き終え、シロエは念話の回線を閉じると、ふぅ、と嘆息する。
他に誰にも話せる相手がいないからとマリエールから相談を受けた話は、シロエが考えていた以上に重い話で、そして彼の苦手とする分野の話だった。
「その上、マリ姉も一番大事なことを話してくれないから、話の全容が見えてこない……」
にゃん太から、「一応、概要だけはシロエちの耳に入れておきますにゃ」と、今朝、ヘンリエッタが大怪我をし、<帰還呪文>でこの街に戻ってくるとすぐに倒れたという話は聞いていた。だが、マリエールから相談を受けた事柄は、リオンという人の事で、その人がうちの<記録の地平線>のギルドメンバーと浅からぬ関係があるという内容の話だった。
「ヘンリエッタさんが大怪我をした理由。マリ姉も分からないと言っていたけど、心当りがないわけではなさそうだったし……」
ヘンリエッタが、<三日月同盟>の要の人物が大怪我をした日にしてくる相談が、その事柄に関係していないはずはない。だが、その関連が何なのかは情報が少なすぎてシロエにも見当がつかない。
「……話を聞いてくれるだけでいいとは言われたけど、うちのギルドメンバーが関係している以上、何もしないって訳にはいかないよな、やっぱり……」
もう一度嘆息し、シロエは椅子の背もたれに体を預けて頭を抱える。
「……でも、そこまで介入してもいい事なのか、これは……」
ギルドの長として、ギルドメンバーから要望、意見が上がってきたのであれば、それらを考慮し、何かしらの対応をするのは当たり前のことだとシロエも思っている。しかし、今回の件はほとんど身内に近いところからではあるが、他所から入ってきた情報であり、それはもう過去のことだ。今更そんな事柄を掘り起こしてもろくな事にならないだろう。
「気が乗らないな、やっぱり。……今まであの二人からそんな話を聞いたことがないし、きっと思い出したくないことなんだろう……。
それに、二人は今、楽しそうに日々を過ごしているんだ。それなのに……。って、だめだな。あの二人のせいにしているだけだ、これじゃあ……」
ギルドメンバーであるとはいえ、その構成メンバーを、シロエは頑なに縛り付けるつもりはない。無論、ギルドメンバー総がかりで取り組まなければいけないことや、今後のことを考えての方針には従ってもらわなければならないが、それ以上のことまで求めるのは間違いだと思う。ギルドメンバーなのだからどんな事でもギルドマスターのいうことに従えなどというのはあまりにも馬鹿げている。
そしてそれは、シロエ自身も嫌う組織のあり方だ。
だが、今回は逆のケースなのだ。「ギルドメンバーがどの程度ギルドという組織に縛られるか?」ではなく、「ギルドという組織がどの程度までそのギルドメンバーのために事をなすべきなのか?」という問題。
「……余計なお世話どころか、治りかけていた傷口を開いてしまう可能性だってある……」
どうしたものかと途方に暮れていたが、
「失礼しますにゃ、シロエち」
ノックの音とともに聞こえてきた声に、シロエは「どうぞ」と部屋にはいるように促す。声からそれが誰かは明らかだった。
「お客様もご一緒なんですが、よろしいですかにゃ?」
そう続いた言葉に、シロエは椅子に持たれかけるのをやめ、姿勢を正してから再度、部屋に入るように言う。少数ギルドのギルドマスターとはいえ、いや、少数ギルドのギルドマスターであるからこそ体面というものは大事だ。
もっとも、声の主とともに入ってきたのは、予想外ではあったものの、そのような配慮が必要のない人物だった。
そろそろ昼食の時間になろうかという頃。マリエールが見守る中、ヘンリエッタはようやく目を覚ました。
「梅子! 気がついたんか!」
大事ないとは分かっていても、やはり意識が戻るまでは心配で仕方がなかったマリエールは、「よかった」と安堵の溜息をつく。
「……マリエ? ……ああっ、そうですの。迷惑をかけてしまったみたいですわね……」
自室に寝かされている事から、ヘンリエッタは自分に何があったのかを察したのだろう。そう言ってどこか空虚な謝罪の言葉を口にする。
「迷惑をかけてしまったやない! 一体何があったんや! というか、何をしとったんや! にゃん太班長が偶然通りかかってくれたからよかったけど、せやなかったらもっと大変なことになっとったかもしれんのやよ!」
無事を確認すると、今度は怒りがこみ上げてきて、マリエールはヘンリエッタを問い詰める。しかしヘンリエッタは、
「……ああ、にゃん太様が助けてくださったんですの。今度、お礼とお詫びをしておかないといけませんわね……」
そう他人事のように言い、ぼんやりと虚空を見つめる。
ヘンリエッタのその姿に、マリエールは怒りよりも不安が込み上げてきた。
「梅子……。本当にいったい何があったんや?」
「……分かりたいと思っただけですわ。自分が同じような状況に置かれれば、心ない私でも少しは人の気持ちが分かるのではないかと……思っ…て……」
マリエールもすぐにはヘンリエッタが何を言っているのか分からなかった。だが、彼女が不意に震えだし、それを必死に抑えこもうと自らを抱きしめる姿を見て、マリエールは悟った。ヘンリエッタが何をしていたのか。そして、何をしようとしていたのかを。
「梅子!」
マリエールは母親が幼子にするように、ベッドに座るヘンリエッタの体を抱きしめる。その身体はひどく震えていた。
「ふふっ、情けないですわね。本当はみんなに迷惑をかけるつもりはなかったんですわよ。一人で複数のモンスターと闘うということがどんなことなのかを知りたかっただけで。ですが、予想以上の数のモンスターに襲い掛かられてしまって……。
そして、たったそれだけの事で、私は恐怖で身が竦んでしまい、逃げるという選択さえなかなか取れませんでしたわ。……まったく思ったようには行きませんでしたわ。私の置かれた状況など、あの人とは比較にならないほど楽なのに。それなのに……」
ヘンリエッタは震えながら自嘲する。
「……無茶するんやない。そんなことを、そんなことをする必要はないやんか……」
マリエールの言葉に、しかしヘンリエッタはそれを否定する。
「私は、『分かる』と言ったんですわ。あの人に、『不安な気持ちも分かる』と。一人で闘うという事さえ経験したことがなかったのに、その程度の怖ささえも理解していなかったくせに……。知ったようなことを言って、あの人の傷をえぐって……」
ヘンリエッタの声に含まれるのは、悲しみと後悔と自身への怒り。それが分かるがゆえにマリエールの心は痛む。
「人の気持ちがわからない。理解しようともしない。自分がどれほど……冷たい、心ない人間なのかがよく分かりましたわ……」
「馬鹿なこと言うんやない! 梅子がそないな人間やないことは、うちが一番良く分かっとる。……今は疲れとるんや。もうすぐお昼や。昼食はうちが運んでくるから、それを食べて、今はゆっくり休んどきや」
外見上は涙を浮かべていないが、ヘンリエッタが心の中でどれほど涙を流しているのかが分かり、マリエールは釣られて泣いてしまいそうになるのを堪え、優しく、けれど力強く彼女を抱きしめて諭す。
「……ごめんな、梅子。こんなことしか言えんうちを許してや……」
マリエールは心のうちで詫びながらも、それを声には出さなかった。そんな謝罪の言葉を口に出しても、涙を流さないヘンリエッタの代わりに泣くことは出来ても、それはなんの解決にもならないと分かっていたから。
何をすればいいのかは分からない。だが、どうにかしなければならない。ヘンリエッタを諭しながらも、マリエールは懸命に考える。打開策を。みんなを救う方法を。
しかし、些細なすれ違いから始まったこの一連の事柄は、もはやマリエール一人の手に負えるものではなくなってしまっていた。
それはひどく陰惨な行為だった。
「おいおい、どうしたんだ、リオン! まだ一匹も仕留められていないぞ!」
「あいつらの分までお前が稼ぐんだろう? せっかくチャンスをやったんだ、もう少し踏ん張れよ!」
リオンの背中からかけられるそんな言葉は、決して彼を鼓舞するものではない。何故なら、言葉とは裏腹に、声をかける者達の顔に浮かんでいるのは下卑た笑みなのだから。
「くっ、くそっ……」
リオンのレベルは二十五。ハミルより五レベル高い。まともに戦えば、この辺りのモンスターとも善戦できるレベルのはずだ。しかし……。
「ぐっ!」
リオンの右太ももに矢が突き刺さる。だが、モンスターの攻撃ではない。それは、パーティメンバーからの意図的な誤射だった。
「ああっ、すまん、すまん。また手元が狂っちまった」
嗜虐的な笑みを浮かべながら、心にもない謝罪の言葉を男が口にすると、その男の仲間たちは皆声を上げて嘲笑った。
一人でモンスターの群れに突っ込ませて、彼を袋叩きにさせるだけでは飽きたらず、<ハーメルン>の上層部の連中は、そうやってリオンを徹底的に嬲り続けた。
「おい、ハミル! あいつが音を上げたら、次はお前の番だからな。用意しておけよ」
その言葉は、ハミルに対する死刑宣告に他ならなかった。そして、ハミルは悟った。圧倒的な力量の差を持つものを敵に回してしまった愚かさを。そして、それに逆らう無謀で考えなしな行動をとった人間の末路を。
リオンは、少しでも皆の待遇を改善してほしいと、率先して、この<ハーメルン>のギルドの上層部に訴え続けていた。皆で力を合わせて戦闘を行ったほうが明らかに効率も上がると主張し続けてきた。
リオン自身も、初心者救済の謳い文句に騙されてこの<ハーメルン>に入会してきた人間だったが、その中ではレベルが高く、またサブ職業の<料理人>を極めていることも有り、<ハーメルン>の上層部としても使い勝手のいい人間だとそれなりに重宝していた。
だが、彼がギルドの運営方針に口をはさみ始め、また、<EXPポット>を得るために集めた低レベルのプレイヤーたちが彼を中心にまとまる兆しが現れはじめると、彼は<ハーメルン>上層部の人間たちにとって邪魔者に変わっていった。
もっとも、邪魔になったのであれば、ギルドを辞めさせることが一番簡単な方法だったはずだ。しかし、陰険で狡猾なこのギルドの上層部の取った行動は、リオンを徹底的に嬲り殺し、その心をへし折ることで、彼と彼に同調する人間を黙らせる事だった。
連日の疲労でトウヤという子供が倒れ、リオンがその子供を休ませてほしいと言ってきた際に、彼らはそれを実行した。
「リオン。お前の意見を聞いてやるよ。今日だけはそのガキと低レベルな連中は休ませてやる。だが、その分、お前と……そうだな、レベルの高いお前には他の奴らの分まで働いてもらうぞ」
そう告げられ、リオンとハミルの二人は普段より高レベルのモンスターが出現するエリアに連れて行かれた。そこで、リオンはモンスターの集団に一人で突っ込まさせられ、その上パーティメンバーから攻撃をされるというリンチを、私刑を受けることとなった。
こちらの命を奪おうとする者と相対する事など、平和な国で暮らしている人間には、まず起こりえない話だ。ゆえに、その緊張感やストレス、精神的な苦痛は並のものではない。ましてや、相手の数が多いのであればなおさらだ。
リオンは何とかモンスターを仕留めようとするが、数が多い上に普段の敵よりも数段強い。そして、一匹を倒す僅かな勝機さえも同じパーティメンバーの攻撃に邪魔されてしまう。……そんな戦闘の行き着く結末は一つしかない。
だが不運な事に、なまじ相手のモンスター単体とのレベル差が少ないために、リオンと彼が嬲り殺される姿を見せつけられるハミルの苦行の時間は長かった。
そして、この<エルダー・テイル>の世界のプレイヤー達は、死んでも<大神殿>で復活する。復活してしまう。
ハミルは早々に心が折れて、許し乞いをしたため殺されずに済んだ。だが、リオンはなかなか音を上げず嬲り殺しにされ続けた。彼の心が折れるまで、二度と歯向かおうという気が起きなくなるまで、何度も、何度も、何度も……。
「……馬鹿だったんだよ、俺もリオンも。仕方がなかったんだ。俺達には力がなかったんだ。長い物には巻かれるしかなかったんだ。それなのに、分をわきまえずに逆らったりして……」
ハミルはそういい、かつての自分とリオンを嘲笑う。
「結局、無駄な努力を続けただけで、リオンも最後にはあいつらに屈服したんだぜ。「もう、許してくれ……」って情けない声を上げてさ。そして、それからはみんな上の連中の言いなりさ」
「…………」
アシュリンはあまりにも酷い話に言葉も出ない。
「……俺も一枚噛んだから同罪だけど、今思うと、リオンのやったことは残酷だぜ。周りの奴らに希望を持たせるだけ持たせておいて、それを絶望させたんだからさ。
特にあいつを慕っていた子供――たしか、トウヤだったかな? あの子供はひどくショックを受けていた。そりゃそうだよなぁ。つい昨日まで仲良く話をしていたのに、突然「もう僕には構わないでくれって」って言って裏切ったんだぜ、あいつは……」
呆れたような物言いをするハミルに、アシュリンはぎゅっと小さな手を握りしめて、
「……そんなの、そんなのおかしいです! リオンさんも被害者です! 悪いのはその<ハーメルン>の人達じゃないですか!」
そう抗議する。
「なっ、なんだよ、いきなり怒りだして。話を聞かせてくれって言うから話してやったのに、怒られる筋合いはねぇぞ、まったく。……とりあえずこれで話は終わりだ。それと、これはもう終わった話なんだ。そんなことを言っても、今更何も変わらねぇよ」
ハミルはそう言い捨てると、アシュリンに背を向けて店の奥に戻っていこうとする。
「……あっ! ごっ、ごめんなさい。ハミルさんも被害者なのに……。お話を聞かせてくれて、ありがとうございました!」
その背中に謝罪と礼を言い、アシュリンは頭を下げる。リオンを悪く言われてついカッとなってしまったが、この人も被害者なのだと気づいたのだ。
アシュリンの謝罪に、ハミルは複雑な顔をして振り返ったが、
「……いいよ。もう終わったことだ……」
そう言い残し、今度は振り返らずに仕事に戻って行った。
やがてハミルの姿が見えなくなると、目的を果たしたアシュリンは帰路に就くことにした。
「……リオンさんの中では、まだ<ハーメルン>での事は終わっていない……。だから、あんなに……」
ようやく、いつもリオンが悲しげな顔をしている理由がわかった。リオンはトウヤに、いや、以前リオンが「あの子達」と言っていたから、きっとトウヤと彼の姉のミノリのためにケーキを作ろうとしていたのだ。特別なケーキを。二人に対する謝罪のためのケーキを……。
「だから、勇気がなかったって言っていたんだ。二人を裏切ってしまった事を、リオンさんはずっと後悔し続けていて、苦しんでいて……。だから、ヘンリエッタさんに「勇気」をだしてと言われて、その傷に触れられてしまったから、あんな……」
アシュリンは自分たちのギルドホールに帰るために、痛くて重い足を何とか動かし続ける。けれど、そんな足の重さとは比較にならないほど心が重かった。少しでも気を抜いてしまったら、この足を止めてしまったら、泣き崩れて動けなってしまうであろうほどに。
「……どうしたら……いいんだろう……」
無力だった。どうしようもなくて泣きたくなるほどに無力だった。何とかリオンさんに笑ってほしいと、ヘンリエッタさんと仲直りしてほしいと思って、懸命に足が棒になるまで歩き続けて得た情報が絶望的なものだった。知らなければよかったとさえ思うほどに。
今ならアシュリンにも理解できた。マリエールがこのことを知っていて、あえてアシュリンに話さなかったであろうことを。そして、おそらく、ヘンリエッタもこのことを知って何かをした結果、大怪我をしたのだと。
「…………」
何もできない。何をすればいいのかさえわからない。そんな八方塞がりな中、アシュリンは顔を俯けながらも重い足を動かし歩き続ける。けれど、一歩進む度に、足は痛く、重くなり、心はそれ以上に痛み、重くなっていく。
だが、懸命に歩き続けるアシュリンに、
「下ばかり向いて歩いていると危険ですにゃ、アシュリン」
不意に誰かがそう話しかけてきた。
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには見覚えのある猫顔の男が立っていた。
にゃん太がどうしてこんなところに居るのか、アシュリンには分からない。だが、疲労困憊の身体と重く沈んだ心は、見知った人との出会いにより限界を迎えてしまった。
「……けて……」
アシュリンの瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
突然アシュリンが泣きだしたことに、しかし、にゃん太は慌てずに片膝を着き、アシュリンと目線の高さを合わせて、
「どうしましたにゃ? 我輩で良ければ力になりますのにゃ」
そう優しい声をかけてくれた。
「……助けて……下さい。リオンさんと、ヘンリエッタさんを……助けて……下さい……」
溢れ出る涙をこらえて、アシュリンは訴える。抽象的で、まるで内容が伝わらないだろうが、それでも懸命に訴えた。
「分かりましたにゃ。まずは場所を変えて詳しい話を伺いますのにゃ。なに、悪いようにはいたしませんから、安心して下さいにゃ」
にゃん太はそう言って微笑むと、泣き止まないアシュリンを抱きしめて、優しくあやしてくれた。