02
背中が寒い。コルセットがきつい。上げ底された胸が窮屈。不躾に寄せられる視線が不愉快。どれもこれもすべてあの胡散臭い神官さまのせいに違いない。
わたしとは天と地とも違う人たちがおほほほ、といくつもの猫をかぶっている姿をみてげんなりする。貴族って怖い! いえいえ、デューイとどこかのご令嬢が柱の陰で口に言えないことをしていたなんて言えるわけがない。いえいえ、わたしなにも見てませんとも。
エスコート役を名乗り出た、というか勝手にわたしを引きずってきたともいう、神官さまはこの大広間に入るなり姿を消した。今度は比喩的な表現ですとも。声を潜めていても、それが幾人もの声になれば耳に届く。
あたりは見知らぬ貴族さま。唯一の神官さまは頼りにならず、というか頼りになるのが神官さまってことろがいや。誰か誰か! と見回しても客として見る貴族さまはいるものの進んで輪に入れるほど図々しくもない。
予想通り、わたしは壁の花となるしかない。時折目の前を通るボーイからワイングラスを拝借し、のどを潤す。
やや、これはガルツ産のシャンパーニュ? さすが王城、こんな一品が無造作に配られるなんて。
「今宵は一段と美しくいらっしゃる」
ワイン漁りでもしようかとボーイを探すわたしに聞きなれない声が届く。振り向いても見知らぬ顔。無駄にキラキラしところが元婚約者に似ていると思った。
「えっと、どこかでお会いしました?」
店の客なら忘れもしない。このような場にでるということは貴族さまだろうし、金づる……失礼、いいカモ……失礼、上客の身分とご尊顔は忘れません。
「貴方の美しさに僕は一目で恋に落ちてしまいました、どうか僕と一曲踊っていただけませんか」
きっとこの笑顔はこの男の最大の武器に違いない。けれど、見目麗しい人間にどうやら縁のあるわたしにとっては無意味なもの。この軽い男はなんだ、とわたしは顔をゆがませていたに違いない。それが伝わったのか、目の前のキラキラした貴人は腕を組んだ。
「んーおかしいな? これで落ちない女の子はいないはずなのに」
そんな発言、女性の前ですべきではないと思いますけれど。人を不愉快にさせるのが上手だわ、と立ち去ろうとしたけれど。
「ロ~~イ~~」
どこかで聞いた名前だ、と足音を立て、怒りあらわにドレスの裾を持ち上げて駆け寄るヨシュカさんを見つけて気づく。
「あぁ、節操なしの」
聞くに違わず、タラシな人だ。納得した。確かにこの顔で甘い言葉を囁かれればその気になる令嬢もいるだろう。ただでさえアバンチュールは恋のスパイスというもの。
「あなたがロイの申し出を受けるかとひやひやしましたよ」
ヨシュカさんのやっぱり聞くに堪えない言葉の応酬にたじたじになる貴人をみる。どうやらロイと呼ばれる節操なしの貴人はデューイと同じ人種のようで、違うのはその立ち回りのようである。バチバチと火花を飛ばす娘たちが多数いる。中には人妻であろう、女性もいる。
関わり合いになりたくない。と首を振ってその場を離れようとしたけれど、目と鼻の先に立ち尽くす神官さま。いや、礼装をしている。これじゃあ神官だと思えない、どこかの貴族さまのようだ。
鋭い目つきに怯む。本能で一歩二歩と後ずさる。その数歩の隙間さえ埋めて近づく神官さま。ぞくりと背筋に走る違和感、なんだかおかしい雰囲気を出していらっしゃるけど――?
「どうして逃げるんです? サラ様」
「近いですし、マルイさまが近付くからですわ」
「いえ、先に下ったのはあなたのほうでしょう。それに、」
本能が危機を訴えているからよ! と叫んでみたい。しかし常に冷静であれ、とのお父様の教えに忠実に一つ深呼吸をする。
さきほどまで行われていたヨシュカさんとロイさまの痴話喧嘩は収まり――! 見てはいけないものを見てしまった気がする。一つの男と女の愛憎劇が終わり、新しい見世物に興味津々の紳士淑女のみなさまがいる。あたらしいとは、すなわち。
「逃げられると、追いたくなるでしょう?」
ひっ、と喉の奥で小さく悲鳴があがる。その目に映るわたしの顔を見てさらに青ざめる。
これってまさしく貞操の危機ってやつかしら。
冷や汗が垂れるし、背筋がぞわりと泡立つ。
「え、あ、や、き、きき気分が悪いので」
ゆっくりと後ずさり、その距離を埋める様子のない神官さまをみて、わたしは脱兎のごとく逃げだした。
この城に逃げ場などないことは冷静ではいられないいまのわたしにとって思い至るはずもなかった。
その背後で神官さまはきっとぺろりと舌なめずりをしているに違いない(笑)