その3
「ん・・」
瞼に光を感じて、意識が浮上する。だが、ここはどこだ?
一瞬、記憶を失った初日を思い出した。また、記憶が無くなったのかと、頭が変な妄想をしだす。いや、そんなはずはない。記憶を失ったことを覚えているじゃないか。まだ眠気が残っているようだ。・・・・えっと、昨日は確か・・。
「ああ、魔王の・・・。はあ・・」
一気に目が覚めた。思い出すまでもなかった。俺は魔王の城に居るのだ。朝から溜息を吐いてしまうほど憂鬱なことだが、事実だ。
いつまでも悲観に暮れているわけにはいかない。俺はベッドから降りた。
さて、着替えは、と。
「あれ?」
昨日脱ぎ捨てたはずの服がどこにも見当たらない。
「そういえば・・」
この部屋まで案内してきた羊、名前は確か・・バラシオン。とことん見た目とちぐはぐな羊だ。その羊、もといバラシオンが、洗濯をしてくれるとか何とか言ってたような・・。
『魔王様の御前に、このような汚らしい恰好で現れるとは・・!万死に値するぞ!恥を知れ!!・・・とにかく、この服は明日洗濯してやろう。例え豚のような恰好がお似合いな貴様であっても、魔王様の御前で二度とこのような姿を晒させるわけにはいかん』
・・・思い出さなければよかった。と、とにかく、バラシオンが洗濯してくれているってことだな!でも、じゃあ、今日俺は、何を着ればいいんだ?
替えの服は見当たらない。途方に暮れていると、寝室から更に奥に続く扉があることに気付いた。
「何だろうな、ここ」
昨日は疲れていたこともあって、部屋の説明は右から左に聞き流してしまっていた。まあ、開けてみればわかるのだが。特に何も考えないで開けた。
「うわぁ・・」
服服服、服が至るところに下がっていた。どうやら衣裳部屋らしい。それにしても、無駄にスペースを持たせた部屋だ。寝室とほぼ同じ大きさじゃないか?ただでさえ広い部屋が、服だらけで余計に奥行きがあるように見えてしまう。だが、これは着てもいいもの、だよな。さすがに下着一枚で出歩かせるわけはないから、大丈夫だろう。そう判断して、手近な服を物色してみる。やたらとキラキラした、悪趣味、いや、俺の感性とは合わないデザインの服ばかりだった。
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それから数十分かけて服を探して、どうにか無難なものを見つけた。鏡の前でチェックしてみる。下手なものを着ると、あの羊もどきに何を言われるかわからないからな。
上は白のワイシャツと深緑のベスト、下は黒のスラックス、に着替えた俺が映る。入念にチェックして、顔を上げる。すぐに、ぴかぴかの服が目に入る。こんな一般的な服があるなんて、入口からは想像できなかった。諦めず、何十分も探した甲斐があったというものだ。自分の頑張りを褒めてやりたい。
うんうんと頷きながら、無駄にバリエーションの多い衣裳部屋を後にしする。寝室に戻り、ベッドに立て掛けていた剣を身につける。そして、寝室から客間を通じて廊下へ出る。
昨日バラシオンが、朝起きたら食堂に来るように言っていたな。確か、部屋を出てから右手に歩いて、階段を通り過ぎた最初の部屋、だったはず。疲れ切った人間に対する気遣いを、欠片も感じられない口調で一気に言われたから、少し自信がない。だが、とにかく行かなければ。また怒鳴られでもしたら、面倒だ。そんなことを考えつつ、どこを見ても豪華な廊下を歩きだす。
「うわ、これ、細かいなぁ。・・・しかもこんなところに置いとくにしては、やたらと高そうな壺が飾ってあるし」
しばらくは、素晴らしい意匠が彫られた壁や天井、所々に置かれた高価そうな置物を見ながら歩いていた。が、結構歩いているのに、一向に階段が見えない。ちょっと焦って、早足になる。
まだ見えない。少し戻ったほうがいいかも?と思い、振り返る。似たような廊下が続いている。そこで気がついた。そもそもここは何処なのか、全くわからなくなっていることに。自分が出てきた部屋の扉は、一体どれだったか。
「えっと・・・」
行こうとしていた先を見る。階段は、なさそうだ。そして、誰もいない。城というくらいなのだから、使用人もたくさんいるはずなのに、気配すらない。もう一度、振り返る。やっぱり誰もいない。
嫌な汗が背中を伝う。訳のわからない衝動に駆られて、とにかく歩きだそうと足を上げる。しかし、そこで問題が発生した。
どっちへ行けばいいんだ?
行くか戻るか、の2択しかないが、重要だ。行くとすれば、階段を見つけるまで歩き続けなけれならない。では、戻るか?いや、駄目だ。俺が休んでいた部屋が、どこだったか、もうわからないじゃないか。・・・と、いうことは。
「行くしかない、か」
心が挫けないよう呟いて、再び歩き出す。しかし、どんなに歩いても、変化は見られない。焦りを通り越して、得体の知れない恐怖が湧きあがってくる。歩調が速くなり、とうとう走り出してしまった。それでも階段どころか、廊下の端にすら着かない。ばたばたと、足音を立てて走り続ける。段々、何で走っているのかわからなくなってきた。こんなことなら部屋から出なければよかった。そんな後悔が胸を占める。
「ばたばたとうるさいぞ!!廊下を走るでない!!」
「!!うわっ!?」
後ろからいきなり怒鳴り声を浴びせられ、つんのめる。危うく転びそうになった体勢を整えて、振り向く。
何の変化もなかった廊下に、バラシオンが出現していた。
「あ・・、よかった・・」
安堵のあまり座りこみそうになる。そんな俺に、バラシオンは不審そうな眼を向けている。
「何が「よかった・・」じゃ!朝起きたら食堂へ来るように言うたであろうが!全く・・、人間はそんな常識すらも解さんのか?」
ぷりぷりと怒るバラシオンを見て、ようやく立ち直れた。途端に、バラシオンへの怒りが沸き起こった。こいつの言うとおりに歩いても、階段なんて見当たらなかったのだ。当然と言えば当然のことだった。
「お前、俺に嘘を教えただろ。右に行っても、食堂どころか階段すら見つからなかったぞ」
「何を言っておる。階段なら、ほれ、そこにあるではないか」
とバラシオンが短い腕で指した先、俺が進んでいた方に目を向ける。
階段があった。そんなわけがない。俺がバラシオンに呼び止められるまでは、階段なんて影も形もなかったのだ。そのことは、神にだって誓える。
「そんな、馬鹿な・・!」
「訳のわからぬ奴じゃ。・・・そんなことより、早く食堂に入れ。恐れ多いことに、魔王陛下が朝食を共に摂ってくださるそうじゃ。こんな良い機会はまたとないじゃろう。失礼のないようにするのじゃぞ」
それだけ言って、俺を追い抜かす。口を開いたままの俺を無視して、バラシオンは階段を横切った先の部屋の扉をノックし、中へ入ってしまった。
少しして、俺も歩きだす。階段の手すりに触れてみる。その質感が、幻でもなく確かにそこにあることを示していた。ここで立ち止まっていても仕方ない。納得できない気持ちを抱えたまま階段の前を通り過ぎ、部屋の扉に手をかける。と、さっきのバラシオンを思い出す。
ノックは・・必要だろうな、多分。しておくに越したことはないだろう。後でぐちぐち言われたくはない。
ノックする。扉が厚いからか、籠った音がした。すぐに、扉が内側に開かれる。開いたのは、バラシオンだった。無言で中へ入る。
「遅かったな」
声をかけてきたのは、既にテーブルについていた魔王だった。部屋の奥から俺を見ている。相変わらず冷たい目だ。しかし、今朝はどこか愉しそうな表情をしている。一体なんだというのか。
魔王の相手をする気も起きず、やはり無言でバラシオンの引く椅子に腰かける。俺が来るのを待っていたのか、すぐに料理が運ばれてくる。
どれもおいしそうだ。朝から運動したこともあって、腹はかなり空いている。怒っていたことも忘れて、並べられる料理を見ていたら、魔王が低く嗤った。それがひどく気に障る。
「何だよ、さっきから」
「さっき?何のことだ?」
「・・俺が入って来た時も、やたらと愉しそうだっただろ」
「ああ、そのことか。それは仕方のないことだ。思った以上に、簡単に引っかかってくれたからな。あれで笑うな、という方が無理な話だ」
思い出したのか、また小さく笑いを零した。そんな魔王を見て、一体何を言われているのか、すぐにはわからなかった。だが、一瞬後、閃いた。厭な想像が頭の中に構築される。
「お前、まさか・・」
「ふっ・・、とりあえず貴様の最初の課題は、魔法に対する耐性をつけることだな」
それは、ある意味明確な答えだった。しかし、ここで怒りを爆発させてはいけない。冷静に、まずは事実確認だ。
「ちょっと待て。一つ確認させてくれ。・・・階段が見えなかったのは、お前が魔法で消したから、とか、そういうことか?」
「いや、消したわけではない。ただ単に一定の距離を繰り返し歩かせるだけの、つまらない魔法だ。まあ、その魔法に掛った者には、その限定された空間外の物は見えなくなるがな」
「・・・・・おい」
「何だ?」
ふてぶてしいとは、正にこのことだろう。どう怒ってやればいいだろうか。怒りが強すぎて、適切な言葉が出てこない。とりあえず、ありったけの怒りを込めて犯人を睨んでやる。
「そう睨むな。稽古をつけてやるとは言ったが、やはり取っ掛かりのようなものは必要だろう?そのためだったと思っていれば、そんなに悪くはないはずだ」
「そんなわけあるか!」
「ふん。さあ、食べろ。食べたらすぐに稽古をするぞ」
俺の怒りなど意に介さず、食事を始めてしまった。そんな奴相手に、怒鳴っても仕方ない。しぶしぶ俺も食器を手に取る。というか、本当にこいつは勇者である俺を鍛えるというのか。昨日奪われた『シュトラウス』も返してきたし、こんなの魔王らしくない。・・・勝手に想像した魔王像と比べて、だが。
この魔王を見ていると、言いようのない違和感を感じてしまう。本当に、本物の魔王なのだろうか。そんな突拍子もない疑問を抱いてしまうのだ。
「ああ、そうだ」
「ん?」
デザートを食べていた俺に、魔王が声をかける。関係ないが、魔族でも普通に食事というものを摂るんだな。意外というか、なんというか。血肉を啜るイメージがあるわけではないが、食事なんてしないもんなのだと思っていた。
そんなどうでもいいことを考えていたので、次のセリフに少なからず驚いた。
「俺の名は、ベリアスフロゥだ。これからは名前で呼べ」
「は?」
「代わりと言っては何だが、俺も貴様のことは名前で呼ぼう。名は何だ?」
デザートがスプーンから皿に落ちた。何を言っているんだ、こいつは?勇者と魔王が、倒すべき者と倒されるべき者が、名前で呼び合う、とか・・。ないだろ、普通。それとも失った記憶には、それが普通だとされているんだろうか?
しばしの間、正気を疑ったり、相手の本意を探ったりしてみたが、答えは出なかった。そのうち、名前で呼び合ったから何だというのか、という考えが浮かびあがってきた。まさか、友達になったりはしないだろうし、どうせ名前の方が呼びやすい、とかそんな理由だろう。
深く考えるのが辛くなってきた。考えてもわからないのだから、しょうがない。ここは、逆らわずにいるべきだろう。返事を待つ魔王へ目を向ける。
「俺は、アリトだ。とりあえず、これからよろしく。えーっと、ベリアス、って呼んでいいかな?」
「構わん。・・・これから、か。さて、よろしくできるか否かは、保障せんぞ」
不敵に笑うベリアスを前に早くも、間違ったかも知れない、と思ってしまったことは、まあ、秘密にしておこう。