その4
それは朝、着替えたときに気がついた。着替えた、と言っても寝るときに脱いでいたシャツとズボンを着るだけなのだが。記憶を失う前はわからないが、今の俺は剣以外の持ち物はない。
とにかく、シャツを着るとき何気なく見た襟の内側。そこに何か書いてあった。
「・・ん?」
目を凝らして見てみるが、汚れと一体になっていて読めない。
「昨日洗ったんだけどなぁ・・・」
それほどまでに汚かったのか、この服は。
数分、凝視して諦めた。しかし一体何が書いてあったのか。何故か異様に気になる。
「そうだ!上着に書いてあるならズボンにも何か書いてあるかも・・!」
思い付きだが良い案な気がする。早速既に穿いていたズボンを脱いで裏返す。どうでもいいが、パンツ一丁で色褪せたズボンを必死で見る男なんて、この上なく怪しくないか?誰もいない室内でよかった。
場違いな考えを脇に置いて、ズボンを上から下まで見る。問題の文字、だと思われるそれはすぐに見つかった。ズボンの後ろ、尻部分の上、つまり腰が当たる部分に書いてあったのだ。
「お、あった。え~と・・ん~、ア?・・・ア、・・ア・・・・・駄目だ、後はよくわからない」
どうやら3文字で、アから始まる言葉だということしかわからなかった。
上着とズボン。その2つをベッドに並べて、文字を見比べてみる。一緒・・・のような気がする。少なくとも、どちらも3文字前後の短い単語だ。
何だろうか。もしかしたら、俺の記憶を呼び覚ますものかもしれない。
俄然やる気が出てきて、自分の服の上に身を乗り出す。そこで部屋の扉が音をたてた・・ような気がした。いや、扉が勝手に鳴るわけないのだから誰かがノックした音だろう。あまりに小さい音だったので勘違いかと思ったが、再び聞こえた。さらに、「勇者様?」という声も。
シュナイゼルだ。慌ててドアノブを掴むが、そこで今の自分を思い出す。パンツ一丁のままだった。さすがにこれで人前に出るわけにはいかない。3回目のノック。
「どうしたの、勇者様?まさか刺客に殺されてたりするのかな」
「さらっと酷いことを言うな!・・・あー、今まだちょっと出られる格好じゃなくって・・。すぐに行くから下で待っててくれないか?」
まさか、パンツしか穿いていません、とは大声で言えない。どんなことを忘れていても、羞恥心はちゃんと備わっているようで安心した。そんなことを考えていると、扉の向こうで笑ったような音がした。
「なんとなく声掛けただけだから、まだゆっくりしていて良いよ」
という声がして、足音が去っていく。音が聞こえなくなってから、手早く服を着る。
シュナイゼルはゆっくりしていて良いと言っていたが、待たせるのは悪い。謎の文字は気になるが、考えてもわからないなら、今は後回しだ。そう決めて、『シュトラウス』を手に取る。一度刀身を確かめてから身に着けようとする。
「・・・あれ?これって」
不意に見た鞘に何か、引っかき傷のようなものがあるのを見つけた。まるで意図して付けたみたいに綺麗な傷跡だ。指でなぞってみる。
「・・・・なんか、文字、みたいだ・・!もしかして『シュトラウス』にも何か書いてあるのか?」
もう一度なぞってみる。確かに、何か文字が書かれている。3文字の言葉だ。俺はそれを読んでみた。
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「ふーん、で、何が書いてあったんだい?」
昨日と同じテーブルで食事を摂りつつ、先ほどわかったことを報告する。俺としては、かなり重大な発見をしたと思っているのに、シュナイゼルは興味がなさそうな態度だった。別にそれが不満というわけではないが、ちょっと悔しくて発見するまでを事細かに話してしまった。おかげで、どうでもいいことまで暴露してしまった気もするが・・まあいいだろう。
「とにかく!そこに彫られていたのは、人の名前だったんだ!それってひょっとしなくても、俺の名前ってことだと?!」
この重大さを共有したくて、つい大声を出してしまった。しかし、相変わらず彼は目の前の食事を、消化することを優先している。
「へえ~」
返事も生返事だ。
「・・・ちゃんと聞いてるのかよ?」
「聞いてますよ、勇者様。・・でも、温かいものは温かい内に食べたいじゃないですか」
「それはそうだけど・・。・・・で、書いてあった名前のことだが」
「うんうん、ついに勇者様の名前がわかるんだね。皆お待ちかねだよ、きっと」
ようやくこちらを見て、にこりと笑った。でも、『皆』って誰のことだ?このテーブルには俺達しかいないが・・・。
・・・・・まあ、いいか。そんなことより、俺の名前だ。
「そう、『シュトラウス』には、『アリト』って書いてあったんだ!」
つまり、俺の名はアリトってことだ。そうやって自覚すると、なんだかしっくりくる。「これが俺の名前だ」って確信をもって言える。そのことが、どうしようもなく嬉しい。やっと俺の外観が見えてきた気がする。
「ふんふん、アリト、ね。そういえばそんな名前だったっけ」
「・・・・は?」
今こいつ何て言った?
「・・どういうことだ?まさかお前、俺の名前を知ってて隠してたのか?」
「隠してはいないよ。噂で聞いたことあったかな、ってレベルだったんだ。といってもうろ覚えだったし、本当かどうかわからないから黙ってたけどね」
「だとしても、言ってくれればよかったのに・・。何か思い出したかもしれないだろ?そうすれば、こんな、「何て書いてあるんだ、これは」なんて考えなくてもよかっただろうし・・・」
ぶつぶつと文句を並べ立ててみるも、シュナイゼルはどこ吹く風でテーブルの上を片付けている。
「さ、そんなことより、もう出発しよう」
食器をテーブルの片隅にまとめて、席を立った。いつの間にかその手には荷物が握られている。
「出発って・・・どこにだよ?てか、「そんなこと」とか一言で話で片付けるなよっ」
先ほどのこともあり、拗ねたような口振りになってしまった。しかしシュナイゼルは、そのすべてを無視して意味深な笑みを浮かべるだけだった。そして何も言わないまま、外へ向かう。俺を待つつもりもないようで、振り向きもせずに歩いて行く。
仕方ない。いろいろ言いたいことはあるが、とりあえずついて行くことにする。
「で、どこに行くかぐらい教えてくれてもいいんじゃないか?」
追いついた先で訊く。シュナイゼルは隣を歩く俺を見て頷いた。
「そうだね。行き先ぐらい知りたいよね。・・・ところで勇者様?勇者様は魔王がどこにいるか知ってる?」
「は?魔王?・・・・知ってるわけないだろ」
何て言ったって俺は記憶喪失中だからな。とか、胸を張れることじゃないけど。
「うん、もちろん今の勇者様も知らないだろうけど、多分、記憶を失う前の勇者様も知らなかったんじゃないかな」
「ん?そんなことはないだろ?だって俺は魔王を倒すために旅してたはずなんだから」
「それがさ、魔王がいるって世間一般に言われているのは『第三大陸』なんだけど、僕、実はそこに行ったことがあるんだ。あそこには魔王の居城なんてないよ」
・・・『第三大陸』?なんだそれは。というか、俺は今いるところもよくわかってないんだが・・・。
質問しようと口を開くが、先にシュナイゼルが話し出してしまった。
「魔王は今、『第一大陸』の近くにある、名もない孤島に住んでいるんだ。考えてごらんよ。君の、その聖剣が創られた聖国家と、目と鼻の先に魔王がいるんだよ?面白いよね」
何が面白いのかわからない。だが先に、地理の確認がしたい。根本がわかっていないからか、話の大部分が頭を素通りしてしまった。
今度こそ、とシュナイゼルの顔を見るが、またしても先を取られてしまった。
「まあ、魔王云々は今はどうでもいいよ。君には、先にやるべきことがあるからね。まず、」
「いやいや、ちょっと待てっ・・!今の俺には地理の記憶もないんだ。名前だけ言われても全然想像できない!」
さらに何か言おうとするのを無理矢理遮った。シュナイゼルは、何か言いたげな顔をしたが、諦めたように溜息をついた。
「仕方ないな。じゃあ、まずは簡単に地理について説明するよ」