喪失
照りつける日差しと透き通る青い海。
僕たちは夏の長い余暇を楽しんでいた。
それから4年後、僕はキミと結婚した。
夢を追いかけながら不器用に生きる僕は平凡な暮らしとは縁遠かった。
遊ぶ時間はもちろん、眠る時間を惜しんで働いた。
妻も働いた。
朝は朝日が昇る前から仕事をし、夜は仕事を終えた人間を相手に仕事をした。
それでようやく不自由のない暮らしができた。
苦しかったけれど幸せだった。
「贅沢なんていらない。余分なお金なんかいらないわ。あなたと生きていける。それが幸せなの」
妻の口癖だった。
月日は流れ、僕は30になっていた。
夢を追いかけるのは今年で最後にしようと決めていた。
こんな風にして不自由のない暮らしを続けていけるのも、
今の内がせいぜいだと分かっていた。
いつまでも体に鞭を打ちながら、無理な労働に耐えられるわけではない。
ちょうどその頃のことだ。
妻の病気が見つかった。
長年の無理が祟ったらしい。
もっと早くに明らかになっていれば、命に関わるような病ではなかったらしい。
僕は初め、妻を責めた。
なぜ、そんな風になるまで放っておいたのだと。
しかしそんな考えはすぐに捨てた。
僕たちのどこに、病院で検査を受けるなんていう時間と金の余裕があっただろうか。
そして僕は妻と過ごす時間をも犠牲にして働いた。
善悪や道徳ではなく、何をすれば金になるかを考え、働いた。
あらゆることをやった。そしてその中から最も金になりそうな仕事を選び、信用をつくり、
僕は変わっていった。金は十分にあったし、それでコネもつくった。
これまでには僕の存在など知りもしなかったであろう人間たちの何人かは僕の顔色をうかがいながら、
頭を下げるようになってすらいた。
その甲斐あって、妻は大病院で診てもらえることになった。
妻の病状は傍目には分からなかった。
僕が思うほどにはまだ悪くなっていなかったのかも知れないし、
あるいは僕を心配させまいと、僕たちには想像し得ない痛みを人の前では隠し続けていたのかも知れない。
僕の仕事は順調だった。
仕事の仲間には頼りにされ、信用され、期待された。
けれど、その一方で恨みも買っていた。
僕の懐が肥えるということは、誰かがそれだけの財を失うということだった。
やがて僕は鬼にもなっていた。やらなくてもいいことを他への見せしめとして表情一つ変えずにやってのけた。
僕への恨みを募らせる人間が出てくるのは当然だった。
しかし、そんなことは気にも留めなかった。
僕がそうするのは何よりも妻のためだし、そうしなければ膨大な手術費用、入院費用を維持することはできない。
それに、僕がそうしなくなることは僕が今ここまでになるために関わってくれた周りの人たちを失望させることになる。
僕が止まることは周りへの迷惑を産むことと同義だった。
一度転がり出した石は坂道が続く限りいつまでも転がり落ちていく。
そんなことは分かっていた。
けれど、それが何だというのだ。
すべては妻のためであり、周りのためだった。
僕は仕事の付き合いで知り合った年の若い女を抱きながら、
いつからかキミの口癖になっていた科白を思い出していた。
「贅沢なんていらない。余分なお金なんかいらないわ。あなたと生きていける。それが幸せなの」
その時、ホテルの電話が鳴った。
妻を誘拐したと。
まさか。妻は重病だ。運び出せるはずがない。
しかし受話器から聞こえる声は紛れもなく最愛の妻のものだった。
要求は簡単だった。
会社で一つの不正を行うことだった。
そうすることは僕自身が痛手を被るだけでは済まない。
そうすることは僕がここ数年間世話になった会社に致命的なダメージを与え、
会社生命を奪うことを意味する。
妻の命を取るか、会社の命を取るか。
一人の命を取るか、二万人の命を取るか。
答えは簡単だった。僕は妻の命を選んだ。
妻は既に絶命していた。
そうなるだろうと分かっていた。
しかし、僕はこうするよりなかった。
何もせずにいることはできなかった。
妻は常日頃から言っていた。
「贅沢なんていらない。余分なお金なんかいらないわ。あなたと生きていける。それが幸せなの」
僕はそんな幸せすらも失ってしまった。