今日は、笑わなくてもいい
起
人間の第一印象は、わずか三秒で決まる。
その三秒を支配するのは、完璧な角度の口元と、淀みのない声のトーン。口角は、上唇のラインよりわずかに高く。目元には、カラスの足跡のような優しいシワをほんの少しだけ浮かべる。声は、ソプラノの「ソ」の音を意識する。
「いらっしゃいませ。本日は誠におめでとうございます」
ほら。これで、誰もが私を「親切で、優秀で、幸せなウェディングプランナー」だと信じ込んでくれる。
私の名前は浅葉千明。この結婚式場に勤めて三年目になる。同僚や上司からは、よく「鉄壁のスマイル」なんてからかわれる。どれほど気難しい顧客が来ようとも、どれほど無理難題を押し付けられようとも、私の笑顔が崩れることはないからだ。
でも、それは私が聖人君子だからでも、この仕事に命を懸けているからでもない。ただの「制服」だ。朝、会社のドアをくぐる時に、私は笑顔という名の見えない仮面を被る。傷つかないため。舐められないため。そして、仕事を円滑に進めるため。心なんて、そこになくていい。笑顔は、ただの技術だ。
バックヤードに向かう廊下で、コツコツという足音が近づいてくる。振り返らなくても、誰の足音かはわかった。
「お疲れ、千明。相変わらず、朝からまぶしいねえ、その営業スマイル」
「おはようございます、拓己先輩。今日も素晴らしい秋晴れですね。絶好の挙式日和です」
私は間髪入れず、完璧な角度で口角を上げてみせる。だが拓己は、呆れたように肩をすくめた。
「うわ、ロボットみたい。俺、同期だから敬語いらないっていつも言ってるじゃん。それにさ……お前、疲れてない? 最近、目が笑ってないっていうか、なんていうか。鏡、ちゃんと見てる?」
一瞬、喉の奥がぴくりと動きかけたが、私はそれを表情に出さなかった。
「何をおっしゃるんですか。私はいつでも元気いっぱいです。本日担当する高橋様ご夫妻の式も、私の完璧なアテンドで、一生の思い出にしてみせます」
「……まあ、お前がそう言うならいいんだけどさ。高橋様の新婦さん、結構繊細そうな方だったろ? 打ち合わせの時も、ちょっと緊張してたみたいだし。あんまりお前の『完璧スマイル』で圧をかけるなよ?」
「圧だなんて心外です。笑顔はマナー、そしてお客様を安心させるための最大の武器ですよ。それでは、私は最終チェックに行ってまいります」
一礼して、拓己に背を向ける。歩き出しながら、胸の内でひとりごちた。
拓己は、いつも余計な口を挟んでくる。心がどうの、人間らしさがどうの。そんな泥臭いもので仕事が回るなら、誰も苦労はしない。お客様が求めているのは、美しく、滞りなく進行する「完璧な一日」だ。そのためには、不安そうな花嫁を私の笑顔で包み込み、「大丈夫ですよ」と導いてあげるだけでいい。
そう、いつも通り。いつも通りにやれば、今日も何の問題もなく、素晴らしい一日が終わるはずだった。
――そのはずだった。
挙式開始、四十五分前。バックヤードの空気が、一瞬で凍りついた。
耳につけたインカムから、ノイズ混じりの声が飛び込んでくる。
『浅葉! 浅葉、聞こえるか!? 今どこにいる?』
いつも飄々としている拓己の声が、明らかに上ずっていた。私は披露宴会場でテーブルセッティングを確認していた手を止め、口元に手をやる。
「はい、披露宴会場のテーブルセッティングの確認を終えたところです。どうしましたか、拓己先輩。そんなに慌てて」
『高橋様の新婦が……ブライズルーム(控室)から、出てこないんだ。鍵を閉めちまって、新郎が呼びかけても、ヘアメイクがノックしても、一歩も出てこない。挙式リハーサルの開始時間がもう過ぎてる!』
「……え?」
頭の中で、カンカンと警報機が鳴り響く。ドレスのトラブルだろうか。体調不良だろうか。それとも――マリッジブルー。
考えるよりも先に、私は動いていた。パンフレットを小脇に抱え、廊下を走る。ヒールの音がホールに響くのも構わず、息を切らしながらブライズルームの前に着く。
だが、ドアに手をかける直前、私は立ち止まった。
スッ、ハァー。
深く息を吸って、吐く。両手の指先で、口角をぐっと上に引き上げる。
よし。完璧。
トントントン、と三回ノックする。
「高橋様。担当の浅葉です。失礼いたしますね」
ドアノブを回すが、カチャカチャと音がするだけで開かない。中から鍵がかかっている。
「……高橋様? お体の具合でも悪いですか? もしよろしければ、お水をお持ちしましょうか?」
しばらくの沈黙のあと、部屋の奥から、低く、消え入りそうな声が返ってきた。
「……開けないでください。誰の顔も、見たくないんです」
「どうされたんですか? 何か、お気に召さない点がありましたか? ドレスのフィッティングでしょうか、それともお化粧が……」
「違います。そうじゃないんです……」
「では、何が……」
「……笑えないんです」
「え?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
「今日は、笑えません。どうしても、顔が動かないんです。こんな顔のまま、みんなの前に出られません。だから……今日の結婚式、やめます」
やめる? 今日この日に?
ゲストはもう受付を済ませて待合室にいる。親族の紹介だって始まる。何百万というお金と、何ヶ月もの時間が、この瞬間にすべて泡になって消える。そんなこと、絶対に許されない。プロとして、私はこの花嫁を外へ連れ出さなければならない。
扉一枚隔てた向こうから、誰かの笑い声が聞こえた。今日という日を楽しみにしている人たちの、明るい声だった。その声が今だけは、ひどく遠く感じられた。
私は声のトーンをもう一段優しく、包み込むような「ソ」の音にチューニングした。仮面を、さらに強固に張り付ける。
「高橋様、大丈夫です。一生に一度の舞台ですから、緊張してしまうのは当然のことですよ。誰だって最初は不安なんです。でも、扉を開けて、ゲストの皆様の顔を見れば、自然と笑顔になれます。大丈夫です。笑顔になれるよう、この私が、最後まで全力でお手伝いしますから。ですから、どうか私を信じて、ドアを開けてください」
長い沈黙。廊下の時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。
――やがて、ガチャリと鍵の開く音がした。
開いた。私の勝ちだ。私の笑顔が、彼女の不安を溶かしたんだ。
満足感とともに、私はゆっくりとドアを押し開けた。
部屋の隅に、ウェディングドレスを着たまま、小さく身を縮めている新婦がいた。その顔には、メイクも涙もぐちゃぐちゃになった、ひどく怯えた表情が浮かんでいる。
彼女は、私をじっと見つめた。私の、完璧な、一ミリも揺るがないビジネススマイルを。
「……浅葉さん」
「はい、高橋様。お直しを急ぎましょう。まだ間に合いま……」
「浅葉さんは、笑いたくない日でも、そうやって笑えるんですか?」
「……え?」
「心の中が真っ暗で、一歩も動きたくなくて、消えてしまいたい日でも……あなたみたいに、完璧に、綺麗に、笑わなきゃいけないんですか? 結婚式って、そこまでして笑顔を義務づけられる場所なんですか……?」
喉の奥が、カラリと張り付いた。差し伸べようとした私の手が、空間でピタリと止まる。新婦の瞳の奥には、深い絶望と、私への拒絶が浮かんでいた。
「笑いたくない日でも、笑えるんですか?」
いつものように口角を上げようとした。けれど、頬の筋肉がいうことをきかなかった。三年間、一度も失敗したことのない動作だったのに。
その言葉が、私の張り付けた仮面に、ピキリと小さな亀裂を入れた。
承
重苦しい沈黙が、控室の空気を冷え切らせていた。私は引きつった口角を戻せないまま、新婦を見つめていた。
息が、うまく吸えない。新婦――美咲さんの言葉が、鋭い針のように私の胸の真ん中に突き刺さっていた。
『笑いたくない日でも、そうやって笑えるんですか?』
答えなんて、決まっている。笑える。笑わなければならない。それがプロだ。それがこの仕事の、私の「制服」だから。
なのに、喉が固まって、いつもの滑らかなセリフが出てこない。口元が、わずかに震えているのが自分でも分かった。
カチャリとドアが僅かに開き、バックヤードから拓己が声を潜めて話しかけてくる。
「おい、浅葉……! 状況はどうだ? 進行から連絡が来て、これ以上は本当に後ろが詰まるって。新郎くんも、外で今にも泣きそうな顔して待ってる」
私は拓己の方を振り返らず、硬い声で答えた。
「……拓己先輩。外のドアを閉めて、誰も入れないようにしてください。あと……五分、時間をください」
「え? でも……」
「お願いします!」
声を絞り出すように言うと、拓己は少しの間を置いて、小さく息を吐いた。
「……分かった。五分だけだぞ。外は俺が食い止める」
パタン、とドアが静かに閉まる。再び二人だけの密室になった。
私は、ゆっくりと美咲さんに向き直った。はがれかけた仮面をもう一度必死に接着しようと、深呼吸をする。プロ失格だ。私自身の感情なんてどうでもいい。今はただ、この目の前の花嫁を説得して、バージンロードへ歩かせることが私の義務。
「美咲さん。……申し訳ありません。私の態度が、あなたを追い詰めてしまったのなら、謝ります。でも、どうか聞いてください。結婚式は、人生で最も幸せな瞬間をお披露目する場所です。ご両親も、ご友人も、皆様あなたの輝くような笑顔を楽しみにしていらっしゃいます。だから……」
「ほら、やっぱり。みんな、私の『笑顔』を見に来るんですよね」
「それは、皆様があなたを愛していらっしゃるからで……」
「違うんです。愛されているからこそ、怖いんです。……私、本当は、この数ヶ月ずっと苦しかった。式の準備中も、翔太――新郎と何度も喧嘩して、仕事も忙しくて、自分が何をしたいのか分からなくなって……。でも、プランナーの浅葉さんはいつも完璧な笑顔で『素敵です!』『絶対幸せになれます!』って言うから。私、弱音を吐いちゃいけないんだって、ずっと自分に言い聞かせてきたんです」
「私は、ただあなたを励ましたくて……」
「分かっています。浅葉さんに悪気がないことくらい、分かってます。でも、その完璧な笑顔を見るたびに、責められているような気がしてた。――『ほら、あなたも私みたいに幸せそうに笑いなさい』って、強要されているみたいで。……今日、鏡で自分の顔を見た時、ゾッとしたんです。ちっとも幸せじゃない、今にも泣きそうな女がウェディングドレスを着て、引きつった顔で笑おうとしてる。……そんな嘘の私を、みんなに見せて、何が『一生の思い出』なんですか!?」
美咲さんは感情を爆発させ、ドレスの裾を強く握りしめた。
ガツン、と頭を殴られたような衝撃だった。良かれと思って、プロとして徹底していた私の「笑顔」が、彼女にとっては逃げ場をなくす凶器になっていた。
それだけじゃない。美咲さんの言葉は、私自身の奥底に眠っていた「何か」の蓋を、容赦なくこじ開けていく。
――嘘の私。
――笑いたくない日でも、笑わなきゃいけないの?
思い出した。私がこの仕事を始めて間もない頃の、冬の日。大好きだった祖母が亡くなった、まさにその日。私はどうしても仕事を休めず、告別式にも出られないまま、この式場に立っていた。心の中は涙で土砂降りだった。叫び出したいほど悲しかった。だけど、私はその日も、今日と同じ完璧な「ビジネス笑顔」を顔に貼り付けて、何組もの新郎新婦を「おめでとうございます!」と笑顔で見送った。
先輩には褒められた。「浅葉さんはプロだね、どんな時も笑顔を絶やさない」って。あの時、私は誇らしかった。でも、同時に、私の心の一部は確実に死んだんだ。
悲しい時に悲しいと言えず、笑いたくない時に無理やり口角を上げる。それを繰り返すうちに、私は、自分が本当はどんな顔で笑っていたのか、どんな時に心が動いていたのか、いつの間にか全部忘れてしまった。
祖母は、私が子どもの頃から『千明は笑うと目がなくなるねえ』と言っていた。
あの人が好きだった私の笑顔を、私はいつから忘れてしまったんだろう。
私の笑顔は、ただの技術。ただの制服。中身なんて、何もない空っぽの箱。
「……浅葉さん?」
美咲さんの声で、我に返る。気付くと、私の両手は小刻みに震えていた。口角を維持しようとする顔の筋肉が、悲鳴を上げている。
もう、無理だ。これ以上、この仮面を被ったまま、彼女の前に立っていられない。
私は、ゆっくりと頭を下げた。その拍子に、張り詰めていた声のトーンが、低く、掠れた「地声」に変わっていくのが、自分でも分かった。
「……美咲さんの、言う通りです」
「え……?」
「私は……笑いたくない日でも、笑っています。大切な人が死んだ日も、心がすり減って一歩も動きたくない朝も、このドアをくぐる時は、いつも機械みたいに、完璧な笑顔を作ってきました」
「浅葉、さん……?」
「プロだから、それが正しいと思っていました。お客様に余計な気を遣わせず、完璧な式を提供するのが私の役割だと。でも……違いましたね。私は、自分が傷つかないために、笑顔を盾にしていただけです。美咲さんの本当の不安や苦しみから目を背けて、私の笑顔を押し付けて、逃げていただけでした。……本当に、申し訳ありません」
私は深く頭を下げた。その表情からは、完全に「営業スマイル」が消え失せ、一人の、傷ついた二十五歳の女性の素顔が露わになっていたと思う。
仮面が、粉々に砕け散った。プランナー失格。大失態だ。お客様の前で自分の内面を吐露するなんて、最低の対応。
でも、不思議と胸の奥のつかえが、すっと軽くなるのを感じていた。
私は初めて、浅葉千明という「自分自身の声」で、目の前の人と向き合っていた。
転
静寂が控室を満たしていた。完璧なプランナーとしての姿を失い、ただ一人の人間として立ち尽くす私を、美咲さんは呆然と見つめていた。
「あ、浅葉さん……。顔、すごく怖くなってますよ。……そんな顔、初めて見ました」
「……すみません。これが、私の本当の顔です。笑っていない私は、こんなに可愛げがなくて、無愛想で……プランナーとして、最低ですよね」
「最低なんかじゃ……。ただ、びっくりしただけです。あなたも、ちゃんと、一人の人間だったんだなって」
美咲さんの言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。ずっと「完璧なロボット」であることを求められていると思い込んでいたのは、他ならぬ自分自身だった。
私はゆっくりと膝をつき、ドレスが汚れないよう気をつけながら、美咲さんの目線に高さを合わせた。もうソプラノの「ソ」の音は出ない。少し低くて、不器用な、私の地声で言葉を紡ぐ。
「美咲さん……さっき私は、笑顔になれるようお手伝いしますと言いました。あの言葉は、撤回させてください」
「え……?」
「今日の結婚式、美咲さんは、無理に笑わなくていいです」
「笑わなくて、いい……?」
「はい。ゲストの皆様の前に出る時も、入場する時も、写真を撮る時も、ずっと真顔のままでいいです。心が動かないなら、悲しいなら、不安なら、その顔のままでバージンロードを歩いてください」
「でも、そんなの……! 周りのみんなに心配をかけちゃうし、翔太だって……」
「新郎の高橋様は、きっと大丈夫です。美咲さんが閉じこもった時、外で今にも泣きそうな顔をして待っていらっしゃいました。彼が愛しているのは、美咲さんの『笑顔という記号』じゃなくて、美咲さんという『人間そのもの』のはずです。それに、今日集まってくださったゲストの皆様も同じです。嘘の笑顔で取り繕ったあなたよりも、悩んで、苦しんで、それでも今日ここに立つことを選んだ、本物のあなたを応援しに来てくれているんです」
「本物の……私……」
「笑顔はマナーでも、義務でもありません。笑いたい時に、心が動いた時に、自然と溢れてしまうもの。それが本当の笑顔です。自分を偽ってまで笑う必要なんて、どこにもありません。もし、外に出て誰もあなたの味方がいないと思ったら、私を見てください。私は今日、この『可愛げのない真顔』のままで、あなたの後ろを全力でサポートしますから」
私の言葉が、控室の空気をゆっくりと、温かく変えていくのが分かった。
美咲さんが、小さく息を吐き出した。その肩から、何ヶ月も背負い続けていた「花嫁は幸せそうに笑わなければならない」というあまりにも重いプレッシャーが、すっと転がり落ちていくのが分かった。彼女の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。それは、引きつった作り笑顔の裏に隠されていた、本当の感情の決壊だった。
「う、うああん……っ。苦しかった……! ずっと、苦しかったの……っ。みんなに、幸せな私を見せなきゃいけないって思ったら、息ができなくて……っ」
「はい。苦しかったですね。たくさん頑張りましたね、美咲さん」
私は美咲さんの背中にそっと手を当て、彼女が泣き止むまで、ただ静かに寄り添った。ハンカチで涙を拭い、メイクを直す時間は、もうほとんど残されていない。でも、不思議と焦りはなかった。完璧なタイムスケジュールよりも、もっと大切なものが、いまこの部屋の中で満たされていくのを感じていたから。
やがて、美咲さんは大きく鼻をすすると、顔を上げた。涙で少し腫れたその目は、さっきまでの怯えた花嫁のものではなく、自分の足で一歩を踏み出そうとする、強い意志を持った女性の瞳だった。
美咲さんはしばらく黙っていた。それから、震える指でドレスの裾を撫でた。
「……まだ、怖いです」
「はい。怖くて当然です」
「でも、怖いままでも、行っていいんですよね」
「もちろんです」
「……浅葉さん。メイク、直してもらえますか」
「はい。喜んで」
「私、やっぱり外に行きます。……笑顔は作れないかもしれないけれど、翔太の隣に立ちたい。みんなに、ありがとうって言いたい」
「素敵な決意です。……真顔のままで、堂々と胸を張っていきましょう」
ドアの外から、拓己の焦った声が聞こえてきた。
「おい、浅葉! 五分、とっくに過ぎてるぞ! 進行がもう限界だって……」
私は立ち上がり、迷いのない足取りでドアを開けた。
「拓己先輩。お待たせしました。新婦、ご準備が整いました」
「え……? あ、高橋様! ……あ、あれ? 浅葉、お前……なんか、顔……」
「何でもありません。さあ、先輩、最高の式を始めましょう。――新婦、入場です!」
結
華やかなウェディングマーチの余韻と、祝福の拍手の音が遠くから響いていた。披露宴がめでたくお開きとなり、ゲストの皆様が笑顔で会場を後にされる。その様子を、私は会場の隅から静かに見守っていた。
今日という一日は、私のプランナー人生の中で、最も「完璧」から遠い一日だった。スケジュールは大幅に遅れ、新婦のメイクは直前でやり直され、進行チームには多大な負担をかけることになった。始末書の一枚や二枚、覚悟しなければならないだろう。
けれど、胸の奥にあるこの確かな高揚感は、一体何だろう。
足音が近づき、新郎新婦が私のもとへ歩み寄ってくる。
「浅葉さん……!」
「美咲さん。……本当にお疲れ様でした。素晴らしいお式でしたね」
「ありがとうございました。……私、入場する時、本当にすっごく怖い真顔のまま歩いちゃったんです。翔太の手を握る時も、手が震えてて……」
「はい。インカムの無線越しに、進行スタッフから『新婦の緊張がものすごい』と報告が入っていました」
「でもね、不思議なんです。バージンロードの途中で、ゲストのみんなが『美咲、おめでとう』『綺麗だよ』って声をかけてくれた時……私、笑おうなんて一ミリも思っていなかったのに、涙と一緒に、なんだかおかしくて、嬉しくて、気づいたら勝手に口元が緩んじゃってたんです。お色直しの時には、もういつもの自分に戻れていました」
「……ええ。お色直しの入場を扉の陰から拝見していましたが、美咲さん、とっても輝いていらっしゃいましたよ。世界で一番、美しい花嫁でした」
「浅葉さんが、あの時控室で『無理に笑わなくていい』って言ってくれたから、私、自分の心から溢れてくるお祝いの気持ちを、そのまま受け止めることができました。……私の、不器用な、でも本物の笑顔を引っ張り出してくれて、本当にありがとうございました」
美咲さんが、深々と頭を下げる。私はそれを、営業スマイルではない、穏やかで真摯な表情で見つめた。
「いいえ。私は何もしていません。美咲さん自身が、自分の足で一歩を踏み出されたんです。……お二人のこれからの歩みが、飾らない、素直な幸せで満ちたものであることを、心から祈っています」
新郎新婦は、笑顔で手を振りながら去っていく。私は、それを見送った。
笑いたくなければ、笑わなくてもいい。その言葉は、美咲さんを救うと同時に、私自身にかけられていた呪いを解く鍵でもあった。結婚式は、笑顔を義務づけられる場所じゃない。ただ、その人がその人らしく生きることを、大切な人たちと祝福し合う場所なのだ。
「笑顔はマナー、そして最大の武器」だなんて、私はどれだけ傲慢だったのだろう。
ドサッと、重い書類ファイルを抱えた拓己がやってくる。
「おーい、浅葉! 片付け、あそこのテーブルの分は終わったか? ……って、うわ、なんだその顔。魂が抜けたような顔しやがって。やっぱり、相当無理してたろ、お前」
「……拓己先輩。今日はいろいろとご迷惑をおかけしました。進行を止めてしまって、本当にすみません」
いつもの営業トーンではなく、普通の声で言った。
「ん? ああ、スケジュールのこと? 気にすんなよ。終わり良ければすべて良し、だろ。新郎新婦も、あんなに喜んでくれてたんだからさ。それより俺、今日のお前を見て、ちょっと感動しちゃったよ」
「感動、ですか?」
「そうだよ。お前が控室から出てきた時、今までに見たことないくらい必死でさ。いつもみたいにへらへらした『完璧スマイル』じゃなくて、なんかこう……人間、浅葉千明! って感じの、ものすごい気迫だった。俺さ、そっちのお前の方が、何百倍も信用できるし、格好いいと思うぞ」
「……格好いい、ですか。目が据わってて、怖かったって美咲さんにも言われましたよ。可愛げのカケラもなかったって、自分でも思います」
「はは、確かにちょっと怖かったかもな! お前、真顔になると急に凛々しくなるっていうか、怒ってるみたいに見えるんだよ。ほら、眉間にうっすらシワ寄ってるし」
「えっ、本当ですか?」
思わず自分の眉間に手を当ててしまう。
「嘘嘘。でもさ、お前がロボットじゃないって分かって、俺はなんか嬉しいよ。これからは、社内でもその『可愛げのない真顔』、たまには解禁しろよな」
「……ふふっ。なんですか、それ」
あ。声が、漏れた。拓己の、いつもの気の抜けた、でもどこか温かい言葉を聞いた瞬間。私の口元が、ふっと緩んでいた。口角の角度なんて計算していない。声のトーンを「ソ」に合わせてもいない。ただ、胸の奥がくすぐったくなって、お腹の底から、温かいものが込み上げてきた。
「……あはは! 先輩、それ、全然褒めてないですよ」
「お、笑った。……なんだ、お前、そうやって笑うんだな」
「え?」
私は思わず拓己を見返した。
「いや、いつもの作ったような綺麗なお人形さんの笑顔じゃなくてさ。目が細くなって、鼻の頭にちょっとシワが寄って。……そっちの方が、ずっといいじゃん。人間らしくてさ」
言われて、ハッとする。私は、カバンから小さな手鏡を取り出し、自分の顔を映してみた。
そこにあったのは、完璧な角度の口元でも、作られたカラスの足跡でもない。少し崩れていて、不器用で、でも、心から楽しそうに緩んでいる、浅葉千明の「本当の笑顔」だった。
悲しい時には泣けばいい。苦しい時には、真顔で立ち止まればいい。その先に、いつか自然と溢れてくるものこそが、私を、そして誰かを幸せにする光なのだ。
私は手鏡をそっと閉じて、胸に抱きしめた。そして、空を見上げた。
「……はい。明日からは、この顔で、仕事を始めます」
私は、笑顔という名の制服を、静かに脱ぎ捨てた。夕暮れ時の優しい風が、私のありのままの頬を、そっと撫でて通り過ぎていった。
(了)




