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第三話:【死闘】江南霧譚(こうなんむたん) ― 五通神調伏、4 七星の博打 ― 欲の深淵を釣り上げろ


五通神が咆哮した。


それは獣の叫びというより、数万枚の硬貨が巨大な石臼で挽かれるような、身の毛もよだつ金属音だった。


 怪物の背中、無数のイボから噴き出した不浄な霧が、一条の巨大な「触手」となって劉海へと襲いかかる。それは物理的な打撃ではない。触れた者の記憶を、すべて黄金の執着へと塗り替える「概念の侵食」だ。


「……食らえ、人の子よ。お前が積み上げた数字の山に、押し潰されるがいい!」


劉海の視界が、一瞬で書き換えられる。


 足元の泥は、溢れんばかりの金貨の海へと変わり、空からは火の玉のような大判小判が降り注ぐ。かつて彼が都で夢想した「完璧な国庫」がそこにあった。


一歩踏み出せば、その黄金は彼のものになる。かつて自分を嘲笑った者たちを、この財力で跪かせ、踏みにじることができる。その甘美な誘惑が、劉海の脳漿を麻痺させようと這い回る。


だが、劉海の指先は、その幻想の黄金に触れることを拒絶した。


 彼の指は、今、極限まで研ぎ澄まされた「七星の縄」の、微かな、しかし絶対的な冷涼さを掴んでいた。


「……数えるのをやめたのだ、私は。五通よ、お前がどれだけ巨大な数字を突きつけようと、今の私には、くうを流れる一筋の風ほどの価値もない」


劉海は叫び、腰の縄を解き放った。


 銀色の光が、紫の霧を真っ二つに切り裂く。縄の先端に結ばれた「罪の一文銭」が、彗星のような尾を引いて五通神の眉間へと突き進む。


 しかし、五通神はそれを嘲笑うように、中央の「第三の脚」を突き出した。その脚は、泥の中から数多の犠牲者たちの成れの果て――黄金の亡者たちを盾として引きずり上げ、劉海の縄を受け止めた。


ギチ、ギチギチッ……!


縄が亡者の体に食い込み、星の光と執念の闇が火花を散らす。


 劉海の腕に、凄まじい重圧がのしかかった。それは五通神の重さではない。この江南の地で、金のために魂を売った者たちの「絶望の総量」だ。劉海の足首まで、いつの間にか黄金の侵食が迫っている。肌が冷たく、硬く変質し、自由が奪われていく。


「老師……! 汚れを撚り合わせろと、貴方は仰ったな!」


劉海は血を吐くような思いで、あえて自らの「負の記憶」を解放した。


 かつて自分が切り捨てた民たちの恨み。自分が守れなかった者の悲鳴。それらを否定せず、己の罪として縄の芯に流し込む。


 すると、縄の銀光に血のような深紅の筋が混じり、輝きが「暴力的なまでの生命力」を帯び始めた。


聖なる光だけでは、この怪物には届かない。


 泥を、罪を、欲を、そのすべてを呑み込み、なおかつ「ことわり」として成立させる。それが、北斗老師から受け継いだ真の知恵。


「五通! お前の蔵には、まだ足りないものがあるはずだ! 私という『最後の負債』を受け取ってみせろ!」


劉海は縄を大きくしならせ、あえて五通神の巨大な口目掛けて、自身の一文銭を「投げ込んだ」。


 五通神は、その獲物を逃すまいと、巨大な顎を開いて銭を呑み込む。


 その瞬間。劉海は、縄を引かなかった。


 代わりに、指先で「一文銭の穴」を覗くように、空中を円形に薙いだ。


「――七星転換。お前の欲を、お前の重さそのもので縛る!」


五通神の腹の中で、劉海の一文銭が爆発的な輝きを放った。


 銭の穴を通じて、天から降り注ぐ北斗七星の引力が、怪物の内側に直接流れ込む。五通神がこれまで食らい尽くしてきた膨大な黄金。その「質量」が、すべて怪物自身の肉体を内側から押し潰す「枷」へと転換されたのだ。


「グガッ、ォ……ア、アァ……重い、重すぎる……!」


怪物の叫びが、湿地全体を震わせる。


 自分の蔵に貯め込んだ宝の重みに耐えきれず、五通神の巨躯が自重で泥の中に沈み込んでいく。三本目の脚が、必死に地を掻くが、もはやその欲の重さは、大地の支持力を超えていた。


劉海は一歩も引かず、指を細かく動かし、縄の結び目を虚空で「締めた」。  それはかつて算盤を弾き、冷徹に数字を確定させた時の指の動き。だが、今はその指が、狂った運命の帳尻を合わせるための聖なる「筆」となっていた。


「一を数え、万を数え、最後に零に帰せ。五通神、お前の計算はここで終了だ」


縄が、五通神の首筋から三本の脚、そしてその心臓部を一気に締め上げる。


 銀色と真紅の光が交差する格子グリッドが怪物を包み込み、その巨躯を、物理的な肉体から「概念的な存在」へと強制的に圧縮していく。


パリン、という、巨大な鏡が割れるような音がした。


次の瞬間、五通神の巨躯は霧散し、辺りを埋め尽くしていた紫の霧は、一陣の清涼な風によって吹き飛ばされた。


 黄金に変えられていた亡者たちは、その呪縛から解き放たれ、ただの泥と水へと戻っていく。


劉海の手元には、一本の縄が戻ってきた。


 その先端に結ばれた一文銭の上には、先ほどまでの怪物の威容は影も形もなく、ただ、手のひらに乗るほどの大きさの「三本足の金色のカエル」が、しょんぼりと張り付いていた。


カエルは、もう咆哮することもない。


 ただ、欲の毒を抜き取られ、純粋な「財を司る霊獣」としての形だけを残して、劉海の指先で大人しく震えていた。


「……計算、通りだな」


劉海は、膝から崩れ落ちた。


 全身の力は使い果たし、衣服は泥にまみれ、官服の面影などどこにもない。


 だが、その瞳に映る空は、数年ぶりに見る、一点の曇りもない江南の夜明けの蒼さであった。


湿地の底から、澱んでいた欲が消え去り、新しい水の匂いが立ち昇る。


 劉海は、自分の手のひらで小さく鳴いたカエルを、そっと懐に収めた。


  死闘は終わった。


 かつて数字で世界を支配しようとした男は、今、自らの罪を乗り越え、一本の縄で怪物を「釣り上げる」ことに成功したのだ。  


 遠くで、夜明けの鳥が鳴いた。


 劉海は、震える足で立ち上がり、新しい朝の光の中へと、カエルと共に歩き出した。


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