妻に愛してるって言ってみた: 小福(しょうふく)
「愛してる」
朝の洗面所は、いつも通りのはずだった。
ただ、その一言だけが、そこに似つかわしくなかった。
妻の玲奈は、アイラインを引く途中で手を止め、鏡越しに夫の智紀を見た。
ふたりの目が合う。
驚いているような、戸惑っているような、そんな視線が交差する。
「……いま、何て?」
玲奈は眉を少し上げて問い返す。
智紀は、口にしてから初めて自覚が追いついたように、息を吸い直した。
「愛してるって、言ったんだと思う」
玲奈は、鏡の中でゆっくり瞬きをした。
そして、化粧の手を完全に止め、振り返る。
「……なるほど」
その返事は、妙に納得したような声音だった。
幼稚園から大学まで同じで、卒業した年に結婚した。
家は隣同士。
生まれた日も同じ。
物心ついた時から、親戚からも友人からも「もう夫婦みたいだ」と言われ続け、実際そうなった。
恋とか愛とか、考えるまでもなく、自然に隣にいた。
恋をして愛して、結婚したというより、隣りにいる為の手段として、籍を入れる事にした。
お互い、呼吸が続くように関係が続いていた。
だからこそ、智紀がその言葉を口にしたのは、二人の長い時間で、もしかしたら初めてだった。
「どうしたの、いきなり」
「いきなりって言えば、まあそうなんだけど……」
智紀は頬を掻いて、言葉を探した。
「……さっき、玲奈の顔見てたら、判ったんだよ」
「なにを?」
「玲奈のこと、愛してるんだなって。今更だけど」
玲奈は、ぽかんとした後、小さく笑った。
ふっと漏れた自然な息が笑みに形を変えたようだった。
「今更なんだ?」
「そう言うなよ。なんか突然?悟ったみたい。
自覚っていうか……ああ、好きなんだなって」
「ふうん」
玲奈は前髪を軽く払ってから、化粧を再開する。
鏡の隅に映る表情は落ち着いているようで、でもほんのり赤い。
「じゃあ、私はどうすればいい?」
「どうすればって」
「『愛してる』って言われる側としての、正しい反応とかある?」
「いや、それは……」
「それとも、返事を求めてたり?」
玲奈は、鏡の前で少し視線を伏せる。
口角がわずかに引き上がっている。
嬉しい時の顔だ。
「……愛してる、って言われてさ。なるほど、って思った」
「なるほどって何だよ」
「だって、そうなんだって思ったから」
「そうなんだって?」
玲奈はゆっくり顔を上げ、鏡越しではなく直接智紀を見る。
「智紀のこと、私も愛してたんだよ。昔からずっと。
私も、今、判った。
……だから、なるほど」
智紀は一呼吸おいて、
「……ああ、なんか玲奈らしいな」
「あなたこそ」
二人は同時に笑った。
洗面所に差し込む朝の光の中、いつもの日常のまま。
いつもの一日が、始まった。
*
定時のチャイムが社内に響くと、智紀はヘッドセットを外し、開きっぱなしのログ画面をひとつずつ閉じていった。
生成AIの調整案件は今日も山のようで、気づけば肩が固く張っている。
それでも、退勤の準備に入る時はいつも色々と軽くなる。
「おい智紀、今日こそ飲み行こうぜ。昨日も断っただろ?」
背後から声がかかり、振り返ると、同僚たちがすでに上着を着込み、期待するような顔を向けていた。
「悪い。家で嫁が晩飯作ってるから」
言った途端、数人がニヤリと笑った。
「はいはい、愛妻家。毎日直帰って、新婚かよ」
「もう十年以上になるんだろ?よく飽きねぇなあ」
智紀は苦笑して、PCの電源を落とした。
「別にそんなんじゃないって。
ただ——外で食うより家の飯の方が美味いし、外で飲むより嫁と飲む方が楽だしなぁ……」
「出たよ、リア充の極み。はいはい、もう行け行け。惚気は聞き飽きた」
わざとらしく手を振られ、智紀は軽く頭を下げてオフィスを出た。
外は夕暮れで、オレンジ色の光がビルの窓に並んで揺れている。
電車に揺られながら、ふと朝の事を思い返した。
「愛してる」
気づけば、あれが口をついて出ていた。
言った自分が驚き、言われた玲奈も化粧の手を止めて目をぱちくりさせ、
「……なるほど」
と少し照れたように笑った。
——ああ……俺、玲奈が居ればもう十分なんだな。いま、ようやく腑に落ちた。
家の灯りが見えた瞬間、疲れが溶けていくのがわかる。
玄関を開けると、食欲をそそる香りが迎えてくれる。
「おかえり。もう少し待っててね」
仕事着のブラウスの上に、エプロンを着けた玲奈が振り返った。
いい声だなぁ…と、思いながら、
「慌てなくていいよ、俺、洗濯物片付けてるわ」
食卓に並んだ料理を眺め、ふたりでグラスを傾ける。
テレビでは、ニュースキャスターが硬い表情で原稿を読んでいた。
『新型ウイルス感染症が国内でも確認されました。感染者は現在、医療機関にて隔離されており——』
「また変なウイルスか」
「世界中、落ち着かないね。広がらなきゃいいけど」
玲奈はグラスを持ったままテレビを見つめ、智紀は喉へ酒を流し込み……そこで、何かひっかかった。
「あれ……?」
「どうしたの?」
「いや……気のせいかもしれないけど、ちょっと喉が痛いかも」
玲奈が穏やかな笑みのまま、しかし目は少し細くなる。
「ちょっと止めてよ、大丈夫?」
「うん、ただの乾燥だと思うけど……」
翌日、智紀は発熱した。
*
智紀が隔離病棟へ運ばれたのは、その日の夕暮れだった。
新型ウイルスは、すでに全国で散発的に確認されはじめており、厚生労働省は該当患者を即時隔離する方針を取っていた。
智紀も例外ではなく、診察室で簡易検査の結果が出ると、医師に淡々と告げられた。
「陽性です。すぐに隔離病棟へ移動します」
玲奈は同時に検査されたが、結果は「抗体あり」。
感染の痕跡はあるが、発症はせず治ってしまう——不顕性感染の典型だという。
医師は「夫婦であれば感染しても不思議ではない」と説明したが、玲奈には実感がなかった。
ただ、夫に感染させてしまったかもしれない、という考えが頭を離れず、玲奈は震えていた。
智紀は軽く笑い、玲奈の頭を撫でた。
「二週間だって。あっという間だよ」
その言い方はいつもと変わらないもので、玲奈を安心させようとしているのがわかった。しかし車椅子で運ばれて行く彼の背中は、どこか頼りなく見えた。
——二週間の隔離生活。
面会は全面禁止。ただし、国が導入したVR面会システムは許可されていた。病棟と自宅を仮想空間メタバースでつなぎ、互いのアバターを通して話ができる仕組みだ。
最初の数日は、智紀はいつもとほとんど変わらなかった。
話す声も穏やかで、玲奈の作る夕飯を羨ましがり、オンラインで仕事をさせられる愚痴をこぼしたりした。画面越しでも、いつもの夫婦の時間に近かった。
だが、五日目の面会で、玲奈は異変に気づいた。
「ねえ、智紀……今日、声、変じゃない?」
「そう? ちょっと喉が……乾いてるだけ」
いつもより息継ぎが多い。
言葉の最初にかすれが混じる。
気のせい、というには苦しさが滲みすぎていた。
玲奈は、そっと言葉を重ねた。
「……顔、見せて?」
沈黙が、わずかに流れた。
智紀のアバターは笑っていたが、その表情は設定どおりで、本人の状態を反映していない。
彼が迷っているのは、動きの止まったアバターでわかった。
「……ちょっとだけだよ。驚かないで」
場面が切り替わり、リアル映像に変わった。
次の瞬間、玲奈は息を飲んだ。
智紀は病室のベッドに上体を起こし、酸素マスクをつけていた。
肩が上下に大きく波を打ち、息を吸うたびに胸の前のチューブがかすかに鳴る。額は汗で湿り、数日前よりずっと痩せて見えた。
「……ごめん。大げさにしたくなかったんだけど……ちょっと、苦しいだけだから」
嘘だ。
その声は、かろうじて言葉の形を保っているだけだった。
「どうして言わなかったの……?」
「玲奈、泣かないで。ほんとに……二週間で帰るから」
言うたびに、呼吸が途切れる。
マスクの向こうで曇った目が揺れている。
玲奈は胸の奥が締めつけられ、手が震え、言葉が出なかった。
幼いころからずっと隣にいて、結婚して、ずっと一緒にいた相手が、今は画面越しに、息を奪われている。
ただ、画面の向こうの彼を見つめ、名前を呼んだ。
「——智紀」
その一言が、震えながら漏れた。
彼は目を細めて笑おうとしたが、呼吸が追いつかず、言葉に変わる前に小さく咳き込んだ。
言葉にできない衝撃が、玲奈を打った。
智紀を失う未来など、考えたこともなかった。
玲奈は、彼が自分の存在の一部だと気づかされた。
*
退院の日、病院のロビーに降りていった智紀は、椅子に座って待つ玲奈の姿を見つけた。
背筋を伸ばし、膝にそろえた手を握りしめている。
こわばった横顔に、離れていた日々の重みが滲んでいた。
「玲奈、久しぶり、心配かけたね…」
その声に、玲奈は顔を上げた。
目の奥から、ふっと力が抜けるように表情がほどける。
「智紀……お疲れ様」
二人で歩き出す。
タクシーの窓越しに流れていく街並みは、入院前と何ひとつ変わっていない。
家に着き、玄関の扉を開ける。
「智紀、おかえりなさい」
玲奈は、少し涙声になっていた。
智紀は小さく笑い、妻へ向き直る。
「……ただいま」
やっと言えた。
その夜。
二人で夕食を囲んだ。
味噌汁の湯気が上がり、「やっぱり玲奈の作ってくれたご飯は、美味しいね」と、食べながら二人で話した。
一緒にいられるのが、嬉しかった。
二人で風呂に入った。
一緒に湯船に浸かり、「やっぱり二人だと、ちょっと狭いね」と、互いにくっついて笑った。
何もしないで、ただ一緒にいたかった。
二人でベッドに横になった。
智紀は玲奈を抱きしめていて、玲奈は智紀に抱きついていた。
あったかくて、いい匂いで、ひたすらに気持ちよかった。
「ねえ、智紀」
「ん?」
「呼んでみたただけ」
「うん」
「玲奈」
「なに?」
「……愛してる」
「……私も」
ずっと、一緒には居られない。
わかってしまったのだ。
けれど、今日だけは一緒にいる。
今日も一緒にいられてよかった。
明日になったら、明日の分だけ大事にする。
いつか、どちらが先にいっても。
一緒のお墓に入る。
そして、また一緒になるんだ。
それだけで、いいんだ。




