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妻に愛してるって言ってみた: 小福(しょうふく)

作者: 黄昏一刻
掲載日:2026/04/03

「愛してる」


 朝の洗面所は、いつも通りのはずだった。

 ただ、その一言だけが、そこに似つかわしくなかった。


 妻の玲奈は、アイラインを引く途中で手を止め、鏡越しに夫の智紀を見た。

 ふたりの目が合う。

 驚いているような、戸惑っているような、そんな視線が交差する。


「……いま、何て?」


 玲奈は眉を少し上げて問い返す。


 智紀は、口にしてから初めて自覚が追いついたように、息を吸い直した。


「愛してるって、言ったんだと思う」


 玲奈は、鏡の中でゆっくり瞬きをした。

 そして、化粧の手を完全に止め、振り返る。


「……なるほど」


 その返事は、妙に納得したような声音だった。


 幼稚園から大学まで同じで、卒業した年に結婚した。


 家は隣同士。

 生まれた日も同じ。

 物心ついた時から、親戚からも友人からも「もう夫婦みたいだ」と言われ続け、実際そうなった。


 恋とか愛とか、考えるまでもなく、自然に隣にいた。

 恋をして愛して、結婚したというより、隣りにいる為の手段として、籍を入れる事にした。


 お互い、呼吸が続くように関係が続いていた。


 だからこそ、智紀がその言葉を口にしたのは、二人の長い時間で、もしかしたら初めてだった。


「どうしたの、いきなり」

「いきなりって言えば、まあそうなんだけど……」


 智紀は頬を掻いて、言葉を探した。


「……さっき、玲奈の顔見てたら、判ったんだよ」

「なにを?」

「玲奈のこと、愛してるんだなって。今更だけど」


 玲奈は、ぽかんとした後、小さく笑った。

 ふっと漏れた自然な息が笑みに形を変えたようだった。


「今更なんだ?」

「そう言うなよ。なんか突然?悟ったみたい。

 自覚っていうか……ああ、好きなんだなって」

「ふうん」


 玲奈は前髪を軽く払ってから、化粧を再開する。

 鏡の隅に映る表情は落ち着いているようで、でもほんのり赤い。


「じゃあ、私はどうすればいい?」

「どうすればって」

「『愛してる』って言われる側としての、正しい反応とかある?」

「いや、それは……」

「それとも、返事を求めてたり?」


 玲奈は、鏡の前で少し視線を伏せる。

 口角がわずかに引き上がっている。

 嬉しい時の顔だ。


「……愛してる、って言われてさ。なるほど、って思った」

「なるほどって何だよ」

「だって、そうなんだって思ったから」

「そうなんだって?」


 玲奈はゆっくり顔を上げ、鏡越しではなく直接智紀を見る。


「智紀のこと、私も愛してたんだよ。昔からずっと。

 私も、今、判った。

 ……だから、なるほど」


 智紀は一呼吸おいて、


「……ああ、なんか玲奈らしいな」

「あなたこそ」


 二人は同時に笑った。


 洗面所に差し込む朝の光の中、いつもの日常のまま。

 

 いつもの一日が、始まった。



 


 定時のチャイムが社内に響くと、智紀はヘッドセットを外し、開きっぱなしのログ画面をひとつずつ閉じていった。

 生成AIの調整案件は今日も山のようで、気づけば肩が固く張っている。

 それでも、退勤の準備に入る時はいつも色々と軽くなる。


「おい智紀、今日こそ飲み行こうぜ。昨日も断っただろ?」


 背後から声がかかり、振り返ると、同僚たちがすでに上着を着込み、期待するような顔を向けていた。


「悪い。家で嫁が晩飯作ってるから」


 言った途端、数人がニヤリと笑った。


「はいはい、愛妻家。毎日直帰って、新婚かよ」

「もう十年以上になるんだろ?よく飽きねぇなあ」


 智紀は苦笑して、PCの電源を落とした。


「別にそんなんじゃないって。

 ただ——外で食うより家の飯の方が美味いし、外で飲むより嫁と飲む方が楽だしなぁ……」

「出たよ、リア充の極み。はいはい、もう行け行け。惚気は聞き飽きた」


 わざとらしく手を振られ、智紀は軽く頭を下げてオフィスを出た。


 外は夕暮れで、オレンジ色の光がビルの窓に並んで揺れている。

 電車に揺られながら、ふと朝の事を思い返した。


「愛してる」


 気づけば、あれが口をついて出ていた。

 言った自分が驚き、言われた玲奈も化粧の手を止めて目をぱちくりさせ、

「……なるほど」

 と少し照れたように笑った。


 ——ああ……俺、玲奈が居ればもう十分なんだな。いま、ようやく腑に落ちた。



 家の灯りが見えた瞬間、疲れが溶けていくのがわかる。

 玄関を開けると、食欲をそそる香りが迎えてくれる。


「おかえり。もう少し待っててね」


 仕事着のブラウスの上に、エプロンを着けた玲奈が振り返った。


 いい声だなぁ…と、思いながら、


「慌てなくていいよ、俺、洗濯物片付けてるわ」


 食卓に並んだ料理を眺め、ふたりでグラスを傾ける。

 テレビでは、ニュースキャスターが硬い表情で原稿を読んでいた。


『新型ウイルス感染症が国内でも確認されました。感染者は現在、医療機関にて隔離されており——』


「また変なウイルスか」

「世界中、落ち着かないね。広がらなきゃいいけど」


 玲奈はグラスを持ったままテレビを見つめ、智紀は喉へ酒を流し込み……そこで、何かひっかかった。


「あれ……?」

「どうしたの?」

「いや……気のせいかもしれないけど、ちょっと喉が痛いかも」


 玲奈が穏やかな笑みのまま、しかし目は少し細くなる。


「ちょっと止めてよ、大丈夫?」

「うん、ただの乾燥だと思うけど……」


 翌日、智紀は発熱した。



* 


 

 智紀が隔離病棟へ運ばれたのは、その日の夕暮れだった。

 新型ウイルスは、すでに全国で散発的に確認されはじめており、厚生労働省は該当患者を即時隔離する方針を取っていた。

 智紀も例外ではなく、診察室で簡易検査の結果が出ると、医師に淡々と告げられた。


「陽性です。すぐに隔離病棟へ移動します」


 玲奈は同時に検査されたが、結果は「抗体あり」。

 感染の痕跡はあるが、発症はせず治ってしまう——不顕性感染の典型だという。

 医師は「夫婦であれば感染しても不思議ではない」と説明したが、玲奈には実感がなかった。

 ただ、夫に感染させてしまったかもしれない、という考えが頭を離れず、玲奈は震えていた。


 智紀は軽く笑い、玲奈の頭を撫でた。


「二週間だって。あっという間だよ」


 その言い方はいつもと変わらないもので、玲奈を安心させようとしているのがわかった。しかし車椅子で運ばれて行く彼の背中は、どこか頼りなく見えた。


 ——二週間の隔離生活。

 面会は全面禁止。ただし、国が導入したVR面会システムは許可されていた。病棟と自宅を仮想空間メタバースでつなぎ、互いのアバターを通して話ができる仕組みだ。


 最初の数日は、智紀はいつもとほとんど変わらなかった。

 話す声も穏やかで、玲奈の作る夕飯を羨ましがり、オンラインで仕事をさせられる愚痴をこぼしたりした。画面越しでも、いつもの夫婦の時間に近かった。


 だが、五日目の面会で、玲奈は異変に気づいた。


「ねえ、智紀……今日、声、変じゃない?」

「そう? ちょっと喉が……乾いてるだけ」


 いつもより息継ぎが多い。

 言葉の最初にかすれが混じる。

 気のせい、というには苦しさが滲みすぎていた。


 玲奈は、そっと言葉を重ねた。


「……顔、見せて?」


 沈黙が、わずかに流れた。

 智紀のアバターは笑っていたが、その表情は設定どおりで、本人の状態を反映していない。

 彼が迷っているのは、動きの止まったアバターでわかった。


「……ちょっとだけだよ。驚かないで」


 場面が切り替わり、リアル映像に変わった。


 次の瞬間、玲奈は息を飲んだ。


 智紀は病室のベッドに上体を起こし、酸素マスクをつけていた。

 肩が上下に大きく波を打ち、息を吸うたびに胸の前のチューブがかすかに鳴る。額は汗で湿り、数日前よりずっと痩せて見えた。


「……ごめん。大げさにしたくなかったんだけど……ちょっと、苦しいだけだから」


 嘘だ。

 その声は、かろうじて言葉の形を保っているだけだった。


「どうして言わなかったの……?」

「玲奈、泣かないで。ほんとに……二週間で帰るから」


 言うたびに、呼吸が途切れる。

 マスクの向こうで曇った目が揺れている。


 玲奈は胸の奥が締めつけられ、手が震え、言葉が出なかった。

 幼いころからずっと隣にいて、結婚して、ずっと一緒にいた相手が、今は画面越しに、息を奪われている。


 ただ、画面の向こうの彼を見つめ、名前を呼んだ。


「——智紀」


 その一言が、震えながら漏れた。

 彼は目を細めて笑おうとしたが、呼吸が追いつかず、言葉に変わる前に小さく咳き込んだ。


 言葉にできない衝撃が、玲奈を打った。

 智紀を失う未来など、考えたこともなかった。

 玲奈は、彼が自分の存在の一部だと気づかされた。



 


 退院の日、病院のロビーに降りていった智紀は、椅子に座って待つ玲奈の姿を見つけた。

 背筋を伸ばし、膝にそろえた手を握りしめている。

 こわばった横顔に、離れていた日々の重みが滲んでいた。


「玲奈、久しぶり、心配かけたね…」


 その声に、玲奈は顔を上げた。

 目の奥から、ふっと力が抜けるように表情がほどける。


「智紀……お疲れ様」


 二人で歩き出す。

 タクシーの窓越しに流れていく街並みは、入院前と何ひとつ変わっていない。

 家に着き、玄関の扉を開ける。


「智紀、おかえりなさい」


 玲奈は、少し涙声になっていた。

 智紀は小さく笑い、妻へ向き直る。


「……ただいま」


 やっと言えた。


 その夜。


 二人で夕食を囲んだ。

 味噌汁の湯気が上がり、「やっぱり玲奈の作ってくれたご飯は、美味しいね」と、食べながら二人で話した。


 一緒にいられるのが、嬉しかった。



 二人で風呂に入った。

 一緒に湯船に浸かり、「やっぱり二人だと、ちょっと狭いね」と、互いにくっついて笑った。


 何もしないで、ただ一緒にいたかった。



 二人でベッドに横になった。

 智紀は玲奈を抱きしめていて、玲奈は智紀に抱きついていた。

 あったかくて、いい匂いで、ひたすらに気持ちよかった。


「ねえ、智紀」

「ん?」

「呼んでみたただけ」

「うん」


「玲奈」

「なに?」

「……愛してる」

「……私も」


 ずっと、一緒には居られない。

 わかってしまったのだ。


 けれど、今日だけは一緒にいる。

 今日も一緒にいられてよかった。

 明日になったら、明日の分だけ大事にする。


 いつか、どちらが先にいっても。

 一緒のお墓に入る。


 そして、また一緒になるんだ。


 それだけで、いいんだ。

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