人類は敗北してました
荒涼とした平原を歩き続けて一時間が過ぎていた。
風は相変わらず乾燥していて、肌に触れるたびに水分を奪っていくような感覚がある。
空気には生命の息吹が感じられず、まるで枯れた世界を歩いているかのようだ。
森で嗅ぎ慣れた緑の香り、湿った土の匂い、花々の甘い香りは、ここには微塵もない。
そのとき、小高い丘の向こうに、かすかな人工物の影が見えた。
遠目からでも、それが自然のものではないことは明らかで、家屋の連なりが、規則正しく並んでいる。
「お、村だ」
リクトの声には、十年ぶりに人間の文明を目にする興奮が滲んでいた。
懐かしさにも似た感情が胸の奥で温かく灯る。
「本当だ……でも……」
シシリアの声は不安に震えていた。
獣人特有の鋭い嗅覚が、何か異常な匂いを捉えているのだろう。
小さな鼻をひくひくと動かしながら、心配そうに眉をひそめている。
「どうしたの?」
「なんだか……変な匂いがする」
シシリアは言葉を詰まらせた。
表現しきれない不安が顔に浮かんでいる。
「とりあえず、行ってみよう。何かっても俺がいるから大丈夫だよ」
二人は慎重を歩を進めた。
しかし村に近づくにつれて、違和感は一層強くなっていった。
村の入り口に差し掛かると、リクトは足を止めた。
目の前に広がる光景は、想像を遥かに超えた荒廃ぶりだった。
家々の壁は黒ずんで剥がれ落ち、まるで何年も手入れをされていないかのようだ。
窓ガラスは割れているか、または完全に失われて、暗い空洞を晒していた。
屋根瓦の多くが剥がれ落ち、下地の木材が露出している部分も多い。
道端には、錆びついた農具が無造作に転がっていた。
鍬の木製の柄は朽ち果てて半分に折れ、金属部分は赤茶けた錆に覆われている。
かつては美しかったであろう花壇は完全に枯れ果てていた。
井戸の周りには、干からびた緑色の苔が張り付いて、まるで何年も水が湧いていないかのように見えた。
井戸の縁に手をかけて中を覗いてみると、底の方からかすかに水の匂いはするものの、表面には枯れ葉や埃が浮いていて、とても飲み水にできる状態ではない。
そして何より異様だったのは、音の完全な不在だ。
人の足音も、話し声も、家畜の鳴き声も、子供の笑い声も、何一つ聞こえない。
生活の営みを示すあらゆる音が、まるで消し去られたかのように静まり返っている。
あるのは風が廃墟の隙間を抜ける時の低いうなり声と、どこかで軋む木材の音だけ。
空気には、かすかに腐敗した匂いが混じっていた。
何の腐敗なのかは定かではないが、生命が失われて久しい時間の経過を物語る、重い匂いだった。
シシリアが顔をしかめるのも無理はない。
「人が全然いない……」
不安に駆られた彼女は、無意識にリクトの袖をそっと掴んだ。
リクトは深呼吸をして、村の中央に向かって声を張り上げた。
「だれかー! いませんかー!」
声は廃墟の間に響いて、建物の壁に跳ね返りながら何度もこだまとなって響いた。しかし返事はなく、ただ、どこかで古い戸が風に揺れる音がカタカタと響くだけだった。
「人はいませんかー!」
今度はより大きな声で叫んだ。
すると、かすかに何かが動く気配があった。
村の奥の方、茶色い屋根の向こう側から、戸を開ける軋む音が響いてくる。
ギィ……と長く引きずるような音は、蝶番が錆びついて久しいことを物語っていた。
やがて、一人の老人が姿を現した。
腰は大きく曲がり、服装はみすぼらしく、まるで何年も洗っていないかのように汚れていた。
しかし何より印象的だったのは、深く刻まれた皺と、生気を失った濁った瞳だ。
老人はリクトとシシリアを見るなり、警戒するように身を縮めた。
「何の用じゃ。ここにはもう奪う物などないぞ」
老人の声は枯れていて、まるで長い間誰とも話していなかったかのように、ところどころでかすれていた。
「おじいさん、こんにちは!」
リクトは快活に挨拶をする。
十年ぶりに人を見た感動が胸に湧き上がるのを感じていた。
「……なんじゃ、人間か、それに、獣人族も」
老人はリクトとシシリアを交互に見比べながらつぶやいた。
シシリアはビクッと肩を振るわせる。
人間に向けられる視線に、昔の恐怖が蘇ったのだろう。
慌ててリクトの陰に隠れるように身を寄せる。
「わしはこの村の村長だったものじゃ」
老人は疲れきったような表情で自己紹介した。
「だった」という過去形の使い方に、この村の現状が如実に表れていた。
もはや村長として治める村民もいなければ、統治すべき共同体も存在しない。
その事実を受け入れている老人の表情には、深い諦観があった。
「魔神の手から逃れている者がいるとはな……おぬしら、どこから来たのじゃ?」
老人の問いに、リクトは森の方を指差した。
遥か彼方に見える緑の境界線を指し示す。
「あっちの森からだよ。ずっと山暮らしだったんだ」
その瞬間、老人の目が見開かれた。
杖を握る手が震え、口が小さく開いたまま固まってしまった。
「ま、まさか、あの森じゃと……」
村長の声は震えていた。
まるで信じられない奇跡を目の当たりにしたかのような反応だった。
「誰も立ち入ることの出来なかった、あの森に……生存者がおったのか」
村長の言葉に、リクトは首をかしげた。
誰も立ち入れない? 一体どういうことだろうか。
「ああ、そういえば……」
そこでリクトは思い出した。
シシリアを助けた日、奴隷商たちがいなくなった後、二度と同じような侵入者が現れないよう森の周囲に防護を施していたことを。
「外敵から守るために、自分で特殊な結界を貼ってたんだった。あの奴隷商みたいなのが来ないように……すっかり忘れていた」
シシリアと山で暮らし始めて三か月目くらいのころ、丁度そんな魔法を覚えたので、試しに使ったのだ。
結界は無意識のうちにリクトの地属性魔法によって強化され、維持されていたのかもしれない。
アブソーションを日常的に使い続けることで蓄積された膨大な魔力が、森全体を包む強固な結界となっていたのだ。
それが森を外界から隔離し、二人の平穏な生活を守っていたのだろう。
この十年間、なぜか誰とも山で遭遇しなかったのは決して偶然ではなかった。
自分の魔法が、意図せずして完璧な聖域を作り上げていたのだ。
「ところで、何でこの村はじいさんしかいないんだ? この村だけじゃない、どこを歩いても人が居ないんだ」
リクトの素朴な質問に、老人の表情深いしわが刻まれた。
「おぬし、本当に何も知らんのか?」
「うん。十年、山に籠ってたからね」
村長は口を半開きにしたまま、リクトの顔を見つめている。
その表情には、信じられないという驚きと、同時にどこか羨望にも似た感情が混じっていた。
十年間も平穏に過ごせたということが、この老人にとってはどれほど信じ難い幸運に思えることだろうか。
長い沈黙の後、老人はゆっくりと口を開いた。
村長の声は小さく、まるで秘密を打ち明けるかのようだった。
「人類は……魔神に敗北したのじゃ」
その言葉が耳に入った瞬間、リクトは心臓が止まったような感覚を覚えた。
まさか、と思った。
勇者として召喚された三人がいた。
強力な魔法と剣技を持つ彼らが、魔神討伐の旅に出たはずだ。
きっと彼らが世界は救ってくれたと、そう信じて疑わなかった。
シシリアも「そんな……」と小さく呟いた。
声は息を呑むような驚きに満ちていて、リクトの袖を握る手に力がこもった。
「勇者三人は……魔神に負けた。いまや、生きてるかどうかも分からん」
「まじか……」
コウ、ユウセイ、アキラ。
あの自信に満ちていた三人の勇者たちは、死んでしまったのだろうか。
「現在、世界の六割は魔神軍に支配されているという噂じゃ。完全に世界を征服されるのは時間の問題だろうのぉ」
村長の声には絶望しか込められていなかった。
希望という言葉を忘れてしまったかのような、諦めきった口調だった。
「力ある者は処刑され、力無き者は隷属し、奴隷のように働かされている。この村の民もな……」
村長は村を見回した。
かつては賑やかだったであろう村の面影を懐かしむように、一軒一軒の家に視線を向けている。
記憶の中で蘇る、活気に満ちた日々への郷愁が込められていた。
「みんな連れて行かれた。働ける者は労働力として、働けない者は……」
村長は言葉を詰まらせた。
想像するだけで恐ろしい運命が待っていたのだろう。
働けない者、つまり老人や病人、幼い子供たちがどのような扱いを受けたのか、それはあえて口にする必要はなかった。
「そっかぁ。負けちゃったのか」
リクトの言葉は力なく響いた。
平和な森で暮らしていた十年間に、人間の世界では絶望的な戦いが繰り広げられていたのだ。
自分だけが幸せな時間を過ごしている間に、世界は地獄と化していた。
シシリアと共に笑い合い、温泉に浸かり、美味しい料理を食べ、遊具で遊んでいる間にも、どこかで人々が苦しみ、絶望し、命を失っていたのだ。
罪悪感が、胸の奥に重くのしかかった。
「わしももう余命幾ばくもない老いぼれじゃ。せめて死ぬ時くらい、生まれ故郷で死にたいと思ってな。ここに居るのはそんな理由じゃ」
村長は自分の手を見つめた。
血管が浮き上がり、皮膚は薄く透けるようになり、骨ばった手だった。
指先は細く、爪も黄色く変色している。
明らかに栄養失調の症状が現れている。
「魔神は生命力を奪うとされておってな」
「生命力を?」
村長の言葉に、リクトは周囲の荒廃の理由を理解した。
ただ単に戦争の被害というだけではなく、もっと根本的な、生命そのものに対するダメージを受けていたのだ。
「あらゆる自然が腐って死に絶えた。魔神が一度、王都を通る前にこの村に来てな。奴が来てから、作物がうまく育たんようになった」
それは、リクトが【構造把握】で感じ取った土壌の異常と一致していた。
特別な魔力による汚染。
生命力そのものを奪い取る邪悪な力の残滓が、大地に深く染み込んでいるのだ。
土の分子レベルで何かが変質し、植物が根を張れない状態になってしまっている。
「信じられんことじゃが、土が腐ってしまったのじゃ。もう永らく花が咲いてるところも見たことないのう」
村長の言葉には、かつてこの村が美しい花々に彩られていたことへの郷愁があった。
今では変色した大地しかないが、記憶の中にはまだ、色とりどりの花が咲き誇る美しい村があるのだ。
リクトの心に、ある考えが浮かんだ。
自分の地属性魔法なら、この荒廃した土地を蘇らせることができるかもしれない。
「じいさん、何か野菜の種はない? 花の種でもいいよ」
リクトの突然の提案に、村長は困惑した表情を浮かべた。
「あるが……どうするのじゃ? この土地では何を蒔いても育たんぞ」
村長の声には深い諦めが滲んでいる。
これまで何度も試して、その度に失敗を重ねてきたのだろう。
芽吹くことのない種、枯れ果てる若葉、実ることのない花……そうした絶望を何度も味わってきたに違いない。
「まあ、見てなって」
リクトは自身に満ちた表情を浮かべた。
絶望に沈んだ老人の瞳に、久しぶりに希望の光を灯してみせよう。
この荒廃した土地に、小さな奇跡を起こしてみせよう。




