10年が経ちました
森の朝は心地の良いハーモニーから始まる。
鳥たちのさえずりが木々の間を縫って響き渡る。
リクトは身体を起こすと、隣で眠るシシリアの寝顔を見つめた。
十年という月日は、あの小さな獣人の少女を美しい女性へと変貌させていた。
短かった髪は今や腰まで届く長さとなり、寝息と共に上下する胸元に波のように広がっている。
幼い頃の面影を残しながらも、頬の線は柔らかく丸みを帯び、唇は小さな花びらのようだった。
獣人特有の尖った耳は相変わらず愛らしく、時折夢の中で何かを感じ取るのか、ぴくりと動く。
十七歳になったシシリアは、もはや誰が見ても美人と呼ぶにふさわしい容貌を備えていた。
リクトもまた、二十六歳という年齢にふさわしく成長していた。
森での生活は彼の身体を引き締め、地属性魔法の鍛錬を毎日欠かすこともなかった。
かつて勇者として召喚された時の頼りない少年の姿はもうない。
ベッドから抜け出すと、素足が触れる木の床は朝の冷気を含んでひんやりとしていた。
窓を開けると、森の空気が頬を撫でていく。
「んんっ、おはよぅ……」
背後からシシリアの眠そうな声が聞こえた。
振り返ると、彼女が目をこすりながらベッドの上で身体を起こそうとしている。
寝癖で跳ねた髪が朝日を受けて金色に光っていた。
「おはよう、シシリア」
リクトの声に応えるように、シシリアは小さくあくびをした。
「おはよう、リクト……今日もいい天気ね」
窓の外を見やりながら、シシリアがつぶやいた。
陽射しは確かに穏やかで、木々の枝葉から木漏れ日から差し込んでくる。
「ああ……」
しかしリクトの心には、ある想いが芽生えていた。
森での生活を始めてから、十年が経った。
二人とも、その間一度も山を下りていない。
最初の頃こそ、いつか外の世界に戻らなければという想いもあったが、森での生活があまりにも充実していたため、その必要性を感じることがなくなっていた。
山暮らしも十分に堪能した。
そろそろ山を下りて、外の世界がどうなっているのかを見てみたい。
そんな想いが日に日に強くなっていた。
朝食の準備を始めながら、リクトは今日こそシシリアにその想いを打ち明けようと決意していた。
フライパンが火にかけられる音、卵が油に触れてジュウジュウと音を立てる音、パンを焼く香ばしい匂いが台所に広がっていく。
「シシリア」
朝食のテーブルに向かいながら、リクトは意を決して声をかけた。
「なあに?」
シシリアは焼きたてのパンを手に取りながら、澄んだ瞳でリクトを見つめた。
「……街に行ってみたいと思わない?」
リクトの言葉に、シシリアの手が一瞬止まった。
パンを持つ指先がわずかに震えているのを、リクトは見逃さなかった。
「街って……人間のいる街?」
声は小さく、不安が滲んでいた。
リクトは頷く。
「そうだ。シシリアも女の子なんだし、オシャレとかしたいだろう? かわいい服とかも街にはたくさん売ってるよ」
彼女はゆっくりと首を振った。
「私は……リクトが作ってくれる服が好き。それで充分」
「……そっか」
この森は彼女にとって安全な聖域だ。
そこを離れるということは、再び危険な世界に身を晒すということでもある。
「まだ、人間が怖い?」
「…………」
リクトの問いかけに、シシリアは一呼吸置いてから、小さく頷いた。
十年という歳月が流れても、奴隷としての記憶は彼女の心から消えてはいないのだ。
「……怖い。……でも」
シシリアは顔を上げ、リクトの目を見つめた。
「リクトが行くって言うなら……一緒に行く」
その目は真剣味を帯びていた。
リクトのためなら、怖くても一歩踏み出そうという意思が感じられる。
「無理しなくていいよ」
「無理じゃない。リクトと一緒なら……どこへだって……」
シシリアの声は小さかったが、その中には確固たる意思があった。
「分かった。ありがとうシシリア。じゃあ久しぶりに山を下りてみようか」
彼女の決意に、リクトも頷いた。
*
朝食を終えると、リクトは一日の作業を始めた。
まずは畑の様子を見に行く。
足の裏に感じる土の感触は、昨夜の露で適度に湿り気を帯びていた。
畑では四季を通じて野菜が途切れることなく育っていた。
春の訪れと共に芽吹いたキャベツ、ニンジン、玉ねぎは、リクトの地属性魔法によって土壌改良された大地で、一般的な作物の三倍もの大きさに育っていた。
【構造把握】を使いながら、リクトは作物の根の張り具合、茎の太さ、葉の厚みまで詳細に確認していく。
指先が土に触れると、地中の養分バランス、水分量、微生物の活動まで手に取るように分かった。
夏野菜のトマト、キュウリ、ナスも順調に育っている。
果樹園では桃、林檎、梨、柿、ブドウ、栗の木々が季節ごとに甘い実を結んでいた。
桃の木に近づくと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
まだ青い実も、地属性魔法の力によって最適な収穫時期が正確に分かった。
養蜂箱からは、蜂たちの羽音が響いてくる。
五つの巣箱すべてが活発に活動しており、年間を通じて純粋な蜂蜜が採取できた。
近づいてみると、蜂たちはリクトの存在を敵とは認識せず、平然と蜜集めの作業を続けている。
十年間の共生関係が、そんな信頼を築き上げていた。
鶏小屋では十羽の鶏が元気に鳴いている。
今朝も五個の新鮮な卵が産み落とされていた。
殻をそっと撫でると、まだほんのりと温かい。
うちで育てている鶏の卵は、黄身の色は濃い橙色で、一般的な卵とは比べものにならないほど栄養価が高かった。
【毒素分解】の魔法を使えば、森に自生するキノコも安全に食べることができる。
山菜も豊富で、季節ごとに違った味わいを楽しめた。
春のタケノコ、フキノトウ、ワラビ。
夏のミョウガ、シソ、山椒。
秋のキノコ類、冬の山芋。
自然が提供してくれる食材は尽きることがなかった。
衣類の生産も完璧だった。
亜麻畑では良質な繊維が栽培され、リクトの地属性魔法により繊維の強度と柔軟性が向上していた。
収穫した亜麻を水に浸し、発酵させ、繊維を取り出す。
その一連の作業を、魔法によって最適化することで、どんな高級ブランドの麻よりも優れた品質の繊維を作り出していた。
シシリアが着る服はすべて、リクトの真心と魔法が込められた一点物だ。
わざわざ都会に出る必要など、どこにもなかった。
ここでの生活は完璧だった。
食べ物に困ることはないし、衣服も住居も、すべて自分の手で、しかも最高品質のものを作ることができる。
朝の畑作業の中、リクトは一人考え込んでいた。
思えば、自分はこの世界のことをほとんど知らない。
勇者召喚に巻き込まれて、役立たずと置いていかれて以来、ずっと山にいて好き放題生きてきた。
最初の数日間で見た王都の景色と、森に逃げ込むまでの道のりだけが、リクトの知るこの世界のすべてだった。
他の勇者たちはどうなったのだろう。
もう魔神を討伐しただろうか。
コウ、ユウセイ、アキラ。
三人の顔が脳裏に浮かんだ。
あの時は確かに歯がゆい思いもした。
しかし、今となってはそれも遠い昔の話だった。
むしろ、彼らに置いていかれたからこそ、この素晴らしい生活を手に入れることができた。
もし勇者として旅を続けていたら、シシリアとの出会いもなかっただろう。
だからあの三人には、感謝しているのだ。
いつか会える時が来たら、山で暮らしている事を話そうと思っている。
*
やがて昼になった。
着替え、食料、水、そして万が一に備えた薬草類と、少しの土を持参する。
それらをリクトが作った麻の袋に詰め込んだ。
「よし、準備完了。じゃあ行こうか」
「うん」
リクトとシシリアは必要最低限の軽装で家を出た。
「いやー久しぶりだな」
リクトは伸びをしながら呟いた。
心は躍っていた。
十年ぶりの冒険に、子供のような興奮を覚えている自分がいた。
しかしシシリアは対照的だ。
表情は硬く、時折振り返って森の方を見つめている。
「やっぱ不安?」
リクトが尋ねると、シシリアは浮かない顔で答えた。
「……ちょっとだけ。でもリクトが居るから大丈夫」
頬をほんのりと桃色に染めながら言う。
「うん、俺がいるから大丈夫だよ」
森を歩き続けると、木々の密度が徐々に薄くなってきた。
十年間慣れ親しんだ深い森から、より開けた場所へと向かっている証拠だった。
足元の下草の種類も変わってくる。
森の奥深くに自生する苔類から、より日当たりの良い場所を好む草花へと移り変わっていく。
やがて、森の境界線が見えてきた。
木々の隙間から、開けた平原が覗いている。
リクトは足を止めた。
「久々の外の景色だ」
リクトは感慨深げにつぶやいた。
十年ぶりに見る森の外は、記憶の中よりもずっと広々としていた。
しかし空模様は芳しくなかった。
曇天が広がり、重い雲が空を覆っている。
まるで世界の終わりを告げているかのような、不気味な暗さがあった。
風も妙にじめじめとしていて、肌に触れるとべたつくような感覚がある。
「なんだか……嫌な感じ」
シシリアがつぶやく。
彼女の声には明らかな不安が滲んでいた。
たしかに空気の匂いも、湿度も、風の流れも、すべてがどこか異常だった。
「やっぱ、行くの止める?」
リクトは立ち止まって尋ねた。
シシリアの不安を無視してまで、外の世界を見に行く必要はない。
しかしシシリアは首を振った。
「ううん、大丈夫」
「本当に? 無理しなくていいんだよ」
「リクトが知りたがってることを、私も知りたい。十年間、ずっと二人だけの世界にいたから」
「そっか。じゃあ行こう」
二人は改めて歩き始めた。
森の境界を越え、十年ぶりに外の世界へ足を踏み出す。
平原は思っていたよりも荒涼としていた。
かつて豊かな草原だったであろう場所は、今では枯れた草が風にざわめくばかりだった。
土の色も悪く、まるで栄養分が抜け切ってしまったように見える。
「なんか、随分……変わったな」
外の世界は、記憶にある風景とは大きく異なっていた。
「……何があったんだろう」
シシリアも同感だった。
十年前に見た風景とは全く違う。
あの時はもっと緑豊かで、生命力に溢れていたはずだ。
歩きながら、リクトは【構造把握】の魔法で土壌の状態を調べてみた。
結果は予想以上に深刻だった。
土の中の栄養分は極端に少なく、微生物の活動もほとんど見られない。
まるで土地そのものが死んでしまったかのようだった。
「魔力の痕跡もある」
リクトは眉をひそめた。
これは自然現象ではない。
何らかの魔法的な影響で、この土地が荒廃してしまったのだ。
「とりあえず王都を目指そう。そこに行けば何かが分かるかもしれない」
不安に駆られながらも、二人は王都を目指して、枯れた大地を歩み始めた。




