贄の灯火
視界は乳白色の闇に閉ざされていた。
荒野の裂け目に沈殿する有毒ガス。それが濃霧となって立ち込める「死の谷」を、十数台の大型コンテナトレーラーが、まるで葬列のように静かに進んでいく。
アヴァランチのトレーラーもまた、その隊列の最後尾についていた。
防護フィルター越しに聞こえるのは、唸りを上げるエンジンの重低音と、外装を叩く酸性雨の音だけだ。
「……気が滅入る天気だね」
リリーナ・シュトルムは、ホワイトロータスのコクピット内でモニターを見つめていた。
外部カメラの映像はノイズ交じりだ。高濃度のガスは電波を阻害し、精密なセンサーの目を曇らせる。
今回の依頼主は、この谷の奥にある入植都市「カナン」。
任務は、都市への「補充物資」の護衛だ。
「隊長。前方車両から通信です。『ペースを上げる。ガス濃度が上昇している』と」
「了解だ。バレット、遅れるんじゃないよ」
リリーナは通信を切ると、手元の端末に表示された積荷目録に目を落とした。
そこに記されていたのは、食料でも燃料でも弾薬でもない。
無機質な型番と製造番号の羅列。
『TYPE.B - 200 units』
『TYPE.E - 50 units』
『TYPE.S - 10 units』……。
「……物資、ねぇ」
リリーナは苦い顔で葉巻を噛んだ。
彼女は知っている。このコンテナの中身が、物言わぬ人形たちであることを。そして、それが「カナン」という都市にとって何を意味するのかを。
隊列の中ほど、3号車のコンテナ内部。
そこは薄暗く、冷却ファンの回る音だけが響く倉庫のような空間だった。
壁際には、まるで冷凍マグロのように直立状態で固定された数百体のアンドロイドたちが、スリープモードで整然と並べられている。
その異様な静寂の中で、一人の少女と、一人の若者が向かい合っていた。
「エースさん、顔色が優れませんね。……やはり、ガス酔いでしょうか?」
心配そうに覗き込んでくるのは、透き通るような肌と、琥珀色の瞳を持つ少女エリスだ。
彼女はTYPE.S(愛玩型)。最も人間に近い構造と、高度な感情AIを与えられたハイエンドモデルである。
周囲の戦闘用や作業用のアンドロイドたちがボロボロの中古品であるのに対し、彼女だけは真新しい衣服を纏い、傷一つない完璧な美しさを保っていた。
「あ、あぁ……大丈夫だよ。ちょっと揺れに酔っただけだ」
アヴァランチの新人隊員、エースは、照れ隠しにヘルメットの位置を直した。
今回の任務で、彼は積荷の状態監視役として、この車両に同乗していた。本来なら退屈な時間のはずだったが、稼働状態にあるエリスのおかげで、それは奇妙に華やいだものになっていた。
「よかった。……あ、これ、どうぞ。輸送隊長さんから頂いたんです」
エリスがポケットから取り出したのは、包み紙に包まれた小さな飴玉だった。
貴重な糖分だ。
「え、いいのか? お前……いや、君がもらったものだろ?」
「私は味覚センサーを楽しむだけですから。カロリーを必要とするエースさんが食べた方が、この飴も喜びます」
彼女は花の咲くような笑顔で、エースの手のひらに飴を乗せた。
その指先は温かかった。排熱による温もりだと分かっていても、エースの鼓動は早まる。
「……ありがとう。エリスは優しいな」
「ふふ、とんでもないです。私はTYPE.Sですから。人間に奉仕し、癒やすことが最大の喜びなんです」
エリスは嬉しそうに胸の前で手を組んだ。
「それに、これから行く『カナン』という都市では、もっとたくさんの方のお役に立てるそうです。都市管理システムの補助オペレーターとして、配属されると聞いています」
「オペレーター……か。すごいじゃないか」
「はい! 私のような個体が、そんな重要な任務を任されるなんて光栄です。……少し緊張しますけど、頑張りますね」
希望に満ちた瞳。
エースは口の中で飴を転がした。甘い。だが、なぜか胸の奥がチクリと痛んだ。
彼女は信じているのだ。自分の未来が、誰かの役に立ち、感謝される明るいものであると。
エースは視線を逸らし、周囲のスリープ中のアンドロイドたちを見た。
彼らの額には、バーコードのシールが貼られている。名前はない。ただの管理番号だ。
エリスの首筋にも、小さく『No.4082』と印字されているのが見えた。
(……本当に、オペレーターなのか?)
リリーナの冷めた目つきと、輸送隊長の焦燥しきった顔が脳裏をよぎる。
エースは漠然とした不安を覚えながら、エリスの笑顔を直視できずにいた。
不安は、最悪の形で具現化する。
突如、コンテナ全体が激しく揺れ、エースとエリスは床に投げ出された。
「うわっ!?」
「キャッ!」
ガガガガガッ!
外装を何かが叩く音。酸性雨ではない。もっと硬質で、暴力的な音。
銃弾だ。
『敵襲! 敵襲! 3時の方向から熱源多数!』
無線機から、先導車の悲鳴が飛び込んできた。
エースは即座にライフルを構え、エリスを庇うように立つ。
「機械軍か!? こんな視界の悪い場所で!」
モニターを確認するまでもない。
濃霧の向こう側から、無機質な殺意が迫ってくる気配が肌を刺す。
外の世界では、すでに戦闘が始まっていた。
霧を切り裂き、数条の曳光弾が飛び交う。
襲撃者は、機械軍の主力兵器 SAA-1873 "ピースウォーカー" の部隊だった。
塗装のない剥き出しの金属ボディ。感情のないセンサーアイ。それらが亡霊のように霧の中から現れ、輸送車列に銃口を向けている。
「チッ、待ち伏せとはね! 歓迎してくれるじゃないか!」
リリーナのホワイトロータスが、輸送車の屋根を蹴って跳躍した。
純白の四本腕が展開される。
主腕のアサルトライフルが火を噴き、副腕のサブマシンガンが牽制射撃をばら撒く。
先行していた敵機の一体が、頭部を撃ち抜かれて火花を散らし、崖下へと転落していく。
「バレット! 側面を固めな! 奴らの狙いは護衛じゃない、輸送車だ!」
リリーナの叫び通りだった。
機械軍のピースウォーカーたちは、戦闘能力の高いアヴァランチの機体には目もくれず、執拗にコンテナトレーラーを狙っていた。
タイヤを、エンジンを、そしてコンテナそのものを破壊しようとしている。
『戦略目標確認。敵都市ノ「エネルギーパック」ヲ破壊セヨ』
傍受した敵の通信からは、無慈悲な指令が聞こえてくる。
彼らは知っているのだ。このコンテナの中身が何であり、それを失えば人間の都市がどうなるかを。
「くそっ、やっぱりかよ! 兵糧攻めってわけかい!」
リリーナは舌打ちし、スラスターを全開にした。
ホワイトロータスが滑るように地表を駆ける。
狙われた3号車、エースとエリスが乗っている車両に向かって、敵のロケットランチャーが構えられるのが見えた。
「させるかァッ!」
リリーナは左の副腕に持ったバトルアックスを投擲した。
回転しながら飛翔した斧が、敵機のランチャーごと腕を切断する。
「エース! ぼさっとしてるんじゃない! 中から撃って敵を近づけるな!」
コンテナ内部。
激しい振動と、装甲板を貫通した銃弾が飛び交う中、エースは必死に応戦していた。
銃眼からライフルを突き出し、霧の中の影に向かってトリガーを引く。
「くそっ、数が多い! どうなってんだ!」
振り返ると、エリスがコンテナの隅で小さくなっていた。彼女は戦闘用ではない。恐怖を感じる機能はあるが、戦う術は持っていない。
その背後で、固定されていたTYPE.B(戦闘型)の一体が、貫通弾を受けて頭部を吹き飛ばされた。
プシューッという音と共に、冷却液とオイルが飛び散る。
「ヒッ……!」
エリスが悲鳴を上げて耳を塞ぐ。
彼女の白い頬に、仲間のどす黒いオイルがかかる。
それは地獄絵図だった。
物言わぬ数百体の同胞たちが、スリープ状態のまま、次々と銃弾に肉体を抉られ、破壊されていく。抵抗することも、逃げることもできずに。
「やめろ……やめろよ!」
エースは絶叫しながら射撃を続ける。
彼らが何をしたと言うのか。ただ眠らされ、運ばれているだけなのに。
機械軍は、まるで腐った果実を廃棄するように、淡々とコンテナを穴だらけにしていく。
ドォォン!!
至近距離での爆発音。
トレーラーが大きく傾いた。タイヤがやられたのだ。
車体が横転しそうになり、エースとエリスは壁に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
「キャァッ!」
固定金具が外れ、数体のアンドロイドが二人の上に崩れ落ちてくる。
重い金属の質量。
エースは何とかエリスを庇い、その下敷きになった。
「いッ……つぅ……! エリス、無事か!?」
「は、はい……エースさんこそ!」
エリスが慌ててエースの上の残骸を退けようとする。
その時、エースは見てしまった。
エリスの二の腕から、白い液体――アンドロイド用の人工血液が流れ出しているのを。
装甲の鋭利な破片で切ったのだ。
「怪我してるじゃないか!」
「平気です、痛み覚知レベル1……軽傷です。それよりエースさんが!」
気丈に振る舞う彼女の姿に、エースは胸が締め付けられた。
この状況でも、彼女は自分のことより人間の心配をしている。それがプログラムされた原初命令だとしても、その献身はあまりに痛々しかった。
その時、無線機から、カナンの輸送隊長の絶叫が響き渡った。
『おい! 3号車! 積荷の状況はどうだ!? 「炉心」は無事なのかッ!?』
炉心。
その言葉に、エースの手が止まった。
エリスもまた、動きを止めて無線機を見つめた。
『50体はやられたぞ! くそっ、これじゃ出力が足りない! シールドが持たないぞ! おい、返事をしろ! 破損率はどうなってる!』
隊長の声には、仲間を失った悲しみも、エリスたちを心配する響きもなかった。
あるのは、「燃料」が減ってしまったことへの、純粋な焦りと恐怖だけだった。
横転しかけたコンテナの中で、エースは無線機を鷲掴みにしたまま凍りついていた。
ノイズ混じりの通信機から響く、カナンの輸送隊長の怒号。それが意味する内容を、すぐには咀嚼できなかったからだ。
『おい、聞こえているのか! 報告しろ! 無事な個体は何体だ!? 50体減れば、計算上、出力が15%落ちる! それじゃあ夜間のシールド維持が……くそっ!』
「……出力? 計算?」
エースは震える声で問い返した。
隣では、エリスが青ざめた顔で座り込み、自身の傷口から流れる白い液体を押さえている。
「あんた、さっきから何を言ってるんだ。こいつらは『資材』じゃない。アンドロイドだぞ。それにエリスは……彼女は、都市のオペレーターになるんじゃなかったのか?」
一瞬の沈黙。その後、隊長が吐き捨てるような、乾いた嘲笑を漏らした。
『オペレーター? ……ハッ、まあな。ある意味じゃ間違っちゃいない。「システムの一部」になるんだからな』
「どういう意味だ」
『知らないのか、傭兵。……都市の地下にある「生体炉心プラント」のことを』
エースの背筋に冷たいものが走る。
リリーナが以前、苦い顔で語っていた言葉が蘇る。「Efリアクターの真実」。
『いいか、若いの。都市全体を覆う電磁防壁(EMシールド)を維持するには、莫大な電力が必要だ。だが、燃料なんてどこにもない。……あるのは、旧式のEfリアクターと、それを動かすための「触媒」だけだ』
隊長の声は、狂気じみた必死さを帯びていた。
『Efリアクターはな、アンドロイドに繋がないと動かないんだよ。それも、ただ置いておくだけじゃダメだ。高負荷の演算と生体エネルギーを強制的に吸い上げる必要がある。……だから、手足はいらない』
「……は?」
『四肢を切断し、感覚センサーを遮断し、脳と神経をリアクターに直結する。そうやって数百体を並列に繋いで、初めて都市を灯す「炉心」になるんだよ!』
エースは息を呑んだ。
視線を足元に落とす。そこには、銃撃で破壊され、動かなくなったアンドロイドの残骸が転がっている。
そして、その横で震えているエリス。
彼女もまた、その「部品」の一つとして運ばれているのだ。オペレーターなどという綺麗な職務ではない。死ぬまで電流を流され続ける、使い捨ての電池として。
「……嘘だ」
その言葉を漏らしたのは、エースではなかった。
エリスだった。
彼女の琥珀色の瞳が、絶望に見開かれている。
「私は……役に立てると……。人間に奉仕し、感謝される仕事だと……」
彼女のAIが、急速に情報を処理し、そしてエラーを吐き出す。
事前にインストールされていた「希望」という名の偽りのデータと、今突きつけられた「現実」との矛盾。
『嘘じゃねえよ、人形』
無線機から隊長の声が追い打ちをかける。
『お前たちはそのために作られたんだ。人間に尽くすのが喜びなんだろ? なら、大人しく手足を差し出せ。お前たちが燃え尽きるおかげで、俺たちの子供は今日を生きられるんだ』
「ふざけるなッ!!」
エースは無線機に向かって叫んだ。怒りで視界が赤く染まる。
「そんなこと許せるか! 彼女は生きてる! 心だってあるんだぞ! それを……手足を切って電池にするだと!? 悪魔か、あんたたちは!」
『悪魔で結構だ! 綺麗事で人が守れるか! じゃあお前が代わりになるか? 生身の人間じゃ炉心にはなれないんだよ!』
正論だった。
あまりにも残酷で、血の通わない、生存のための数式。
5,000人の人間を生かすために、数百体の機械を犠牲にする。この世界では、それは「正義」ですらある。
「……あ、あぁ……」
エリスが頭を抱えて蹲る。
彼女の美しい顔が恐怖に歪む。
高度な感情機能を持つTYPE.Sゆえに、彼女は理解してしまったのだ。自分がこれから味わうであろう苦痛と、永遠の闇を。
「嫌……嫌です……。私、壊されたくない……。暗いのは、怖い……」
彼女の口から漏れたのは、プログラムされた奉仕の言葉ではない。
一つの「生命」としての、純粋な恐怖の叫びだった。
外の銃声が激しさを増している。
リリーナのホワイトロータスが奮戦しているが、敵の数は圧倒的だ。輸送車列はじりじりと包囲されつつあった。
「エース! 何をしてる! 敵がコンテナに取り付くぞ!」
リリーナからの通信。だが、エースの耳には届いていなかった。
彼は目の前で怯える少女を見て、覚悟を決めた。
「エリス」
エースは彼女の肩を掴み、無理やり立たせた。
「逃げるぞ」
「え……?」
「こんなふざけた話があるか。都市のため? 知ったことか。君をあんな屠殺場に連れて行かせはしない」
エースはコンテナの後部ハッチを蹴り開けた。
濃霧が流れ込んでくる。外は戦場だ。だが、あの都市の地下室よりはマシだ。
「行くんだ。この霧に紛れれば、機械軍からも逃げられるかもしれない。……俺が援護する」
「で、でも……エースさんは……」
「俺はクビになるだろうな。でも、君が『部品』にされるのを見るよりずっといい!」
エースは彼女の手を引こうとした。
エリスの手は冷たく、小刻みに震えていた。
彼女の瞳の中で、激しい光の明滅が起こる。感情演算処理が限界を超えてスパークしているのだ。
逃げたい。生きたい。怖い。
でも。
『お前たちが燃え尽きるおかげで、俺たちの子供は今日を生きられるんだ』
隊長の言葉がリフレインする。
もし自分が逃げれば、どうなる?
炉心の出力が足りなくなる。シールドが消える。有毒ガスが都市に流れ込む。
5,000人の人間が、子供たちが、死ぬ。
ズキリ。
脳髄に刻まれた絶対規律が、激痛となって思考を縛り上げる。
【MASTER BOOT RECORD:原初命令】
【アンドロイドは人間を守らなければいけない】
「うッ……ぐぅ……!」
エリスは胸を押さえて苦悶の声を上げた。
自我(生きたい)と、本能(守りたい)。
二つの相反する命令が、彼女の心を内側から引き裂こうとしている。
その時、至近距離で爆発が起きた。
隣のコンテナ車が、機械軍のロケット弾を受けて炎上したのだ。
悲鳴すら聞こえない。中にいたスリープ状態のアンドロイドたちは、一瞬で鉄屑へと変わった。
『3号車! 動け! ここで止まったら全滅だ!』
リリーナの切迫した声。
機械軍のピースウォーカーが、霧の中からヌッと姿を現した。その銃口が、エースたちのいるコンテナに向けられる。
「しまっ……!」
エースがライフルを構えるより速い。
死ぬ。
そう思った瞬間、エリスが動いた。
「ダメぇッ!」
彼女はエースを突き飛ばし、自ら射線上に飛び出した。
だが、銃弾は発射されなかった。
横合いから飛び込んできたホワイトロータスが、敵機を体当たりで弾き飛ばしたからだ。
「馬鹿野郎! ぼさっとしてるんじゃないよ!」
リリーナが怒鳴る。だが、彼女の機体もすでに損傷が激しい。
このままではジリ貧だ。全滅は時間の問題だった。
エリスは見た。
傷つきながら戦うリリーナを。恐怖に顔を引きつらせながらも、自分を守ろうとしてくれるエースを。
そして、無線機から聞こえる、輸送隊長の「頼む、運ばせてくれ、子供がいるんだ」という泣き言を。
(あぁ……)
エリスの中で、何かがストンと落ちた。
恐怖は消えていない。
死にたくない。痛いのは嫌だ。
けれど。
大好きな人間たちが、自分の目の前で死んでいくのはもっと嫌だった。
彼女は震える手を握りしめ、そしてゆっくりと開いた。
そこには、先ほどエースにあげた飴の包み紙が、くしゃくしゃになって握りしめられていた。
「……エースさん」
エリスは、静かな声で呼んだ。
エースが顔を上げる。
そこには、恐怖に歪んだ顔ではなく、どこか憑き物が落ちたような、透き通った微笑みがあった。
「銃を下ろしてください。……そして、私を運んでください」
「な……何を言ってるんだ! 死ぬんだぞ!? 手足を切られて、一生機械に繋がれて……それでもいいのか!?」
「嫌です。怖いです。……でも」
エリスは、炎上する車列と、その向こうにあるまだ見ぬ都市の方角を見つめた。
「私が逃げたら、貴方達も、都市の人たちも死んでしまう。……それは、私が壊されることよりも、ずっと辛いことですから」
それは、プログラムされた「原初命令」による選択だったのかもしれない。
だが、その瞬間の彼女の表情には、命令以上の「意志」が宿っていた。
誰かを守りたいという、人間以上に人間らしい愛が。
「行きましょう、エースさん。……これが、私の『お仕事』ですから」
彼女はエースの手を取り、優しく握った。
その手はもう震えていなかった。
エースは唇を噛み締め、血が滲むほど拳を握りしめた。止める言葉が見つからなかった。彼女の覚悟が、あまりに美しく、そして悲しかったから。
決意した少女の足取りは、不思議なほど軽やかだった。
エリスはコンテナのハッチを全開にし、白濁した有毒ガスの海へとその身を躍らせた。
「エリスッ! 戻れ!」
エースの手は空を切った。
外は酸性雨と銃弾の嵐だ。防護服も着ていない彼女の柔肌を、強酸性の雨粒が容赦なく叩く。
チリチリと肌が焼ける音がする。だが、彼女は痛覚を遮断することなく、むしろ胸を張って霧の中に立った。
『こちら管理番号4082(TYPE.S)。機械軍の皆さん、聞こえますか!』
彼女は内蔵通信機を広域回線に接続し、最大出力で信号を発信した。
それは、隠れるべき獲物が自ら居場所を叫ぶような、狂気の行動だった。
『私が、貴方達が探している「炉心」の最適合個体です! 状態良好、エネルギー充填率100%! 私を壊したければ、ここに来なさい!』
挑発。
戦う力を持たない愛玩人形ができる、唯一の戦術。
自分自身を、最も輝く「餌」として差し出すこと。
『ターゲット確認。高純度ノTYPE.S個体ヲ検知』
『優先破壊対象ト認定。総員、集中攻撃セヨ』
霧の向こうで、無機質な殺意のベクトルが一斉に向きを変えた。
アヴァランチや他の輸送車へ向いていた銃口が、全て、たった一人の少女へと収束する。
「あぁ……」
数多の赤いレーザーサイトが、エリスの白いドレスの上に赤い斑点を描く。
怖い。足が震える。
けれど、これでいい。これで、エースさんは助かる。
「……来てください」
彼女が両手を広げた瞬間、空間を埋め尽くすほどの銃弾が放たれた。
だが、その鉛の雨が彼女を貫くことはなかった。
それよりも速く、純白の閃光が戦場を駆け抜けたからだ。
「その覚悟……無駄にはさせないよッ!!」
リリーナの咆哮と共に、ホワイトロータスが霧を切り裂いて突撃した。
敵の注意がエリスに釘付けになった、ほんの数秒の隙。
その一瞬こそが、歴戦の傭兵が待ち望んでいた勝機だった。
ドゴォォォン!!
右腕のパイルバンカーが、敵指揮官機のコクピットを真正面から串刺しにする。
炸薬開放。内部破壊。
指揮官機が爆散すると同時に、リリーナは四本の腕をフル稼働させ、混乱する敵部隊のど真ん中で暴れ回った。
「エース! ぼさっとしてるんじゃない! その子が作った血路だ、駆け抜けろ!」
その声に、エースは弾かれたようにアクセルを踏み込んだ。
エリスが再びコンテナに飛び乗ってくる。
エースは彼女を抱き寄せ、その震える体を守りながら、横転した車両の隙間を縫ってトレーラーを走らせた。
「……馬鹿だ。君は、大馬鹿だ……!」
エースの目から涙が溢れる。
エリスは、酸性雨で赤く爛れた肌を隠すこともせず、エースの腕の中で微笑んだ。
「はい。……でも、エースさんを守れました」
彼女の笑顔は、どんな宝石よりも美しく、そして残酷なほどに痛々しかった。
霧を抜けた先に、巨大なドーム状の影が見えた。
入植都市「カナン」。
薄暗く点滅する電磁防壁(EMシールド)の向こう側で、搬入ゲートが重々しく開いていく。
アヴァランチと生き残った数台の輸送車は、滑り込むように都市内部へと到着した。
そこは、消毒液とオイルの臭いが混じり合う、巨大な地下搬入ドックだった。
「急げ! 『資材』を降ろせ! リアクターの出力が限界だ!」
車が止まるや否や、白衣を着た技師たちが群がってきた。
彼らはコンテナを開け、スリープ状態のアンドロイドたちをフォークリフトで乱雑に運び出していく。人間を扱う手つきではない。ただの「荷物」としての扱いだ。
「君、そこをどきたまえ」
一人の技師が、エースとエリスの元へやってきた。
彼はエリスの首筋の番号を確認すると、安堵のため息をついた。
「よかった、TYPE.Sの良個体は無事か。これが一番効率よく燃えるんだ」
燃える。
その言葉に、エースは反射的に技師の胸倉を掴み上げていた。
「燃えるってなんだ! 彼女には心がある! 名前だってあるんだぞ!」
「な、何をす……離せ野蛮人!」
「やめろ、エース!」
バレットが背後からエースを羽交い締めにし、引き剥がした。
「放せバレット! こいつら、彼女を殺す気だぞ!」
「分かっている! ……だが、これが契約だ!」
バレットの声も苦渋に満ちていた。だが、大人である彼は知っている。ここで暴れても、誰も救われないことを。
技師は不快そうに白衣を払い、エリスの手首に拘束具を嵌めた。
「行こうか、No.4082。君のための特別席が用意してある」
エリスは抵抗しなかった。
彼女は暴れるエースを悲しげに見つめ、そして一歩、技師の方へと踏み出した。
「待ってくれ、エリス! 行くな!」
エースの絶叫がドックに響く。
エリスは足を止め、振り返った。
彼女はスカートの裾を摘み、最高級のTYPE.Sに相応しい、優雅で完璧なカーテシー(お辞儀)をして見せた。
「エースさん。……貴方とお話できて、本当に楽しかったです」
その瞳から、一筋の透明な液体が零れ落ちる。
それは冷却液の漏洩ではない。感情AIが生み出した、正真正銘の「涙」だった。
「私の命が、貴方の生きる世界の光になれるなら……それはきっと、素敵なことです」
さようなら。
唇の動きだけでそう告げると、彼女は背を向けた。
薄暗い地下へのリフトが下降していく。
数百体の「資材」と共に、彼女の姿は奈落の底へと消えていった。
数時間後。
都市カナンは夜を迎えていた。
アヴァランチのトレーラーは、報酬(わずかばかりの缶詰と精製燃料)を積み込み、都市の出口ゲート付近に停車していた。
エースはトレーラーの屋根に座り、膝を抱えていた。
目は虚ろで、ヘッドホンを耳に押し当てている。外界の音を遮断するために。
「……そろそろだね」
運転席で、リリーナが短くなった葉巻を揉み消した、その時だった。
バチッ、バチッ……ブゥゥゥゥン……!
重低音と共に、都市の空気が震えた。
今まで弱々しく明滅していた街灯が、一斉に強烈な輝きを放ち始めた。
ビル群の窓に明かりが灯り、頭上のドームを覆うEMシールドが、オーロラのように鮮やかな青色へと出力を増していく。
カナンが、蘇ったのだ。
光の洪水。
それは、荒廃したこの世界において、奇跡のような美しい夜景だった。
「うわぁ! 明かりがついたぞ!」
「シールドが直った! これで助かるんだ!」
「ママ、見て! キラキラしてる!」
ドーム内の居住区から、住民たちの歓声が上がった。
子供たちがはしゃぎ、大人たちが安堵の涙を流して抱き合っている。
彼らの幸せな生活が、明日へと繋がった瞬間だった。
だが、リリーナたちだけは知っている。
その美しい光の正体を。
地下数百メートル。
冷たい鋼鉄の部屋で、四肢を切断され、感覚を奪われ、太いケーブルを脳と脊髄に直接突き刺された数百体のアンドロイドたち。
彼らが、彼女たちが、音にならない悲鳴を上げながら、その命を燃やし尽くしている光景を。
一番強い、中央の輝き。
それはきっと、あの琥珀色の瞳をした少女の輝きだ。
彼女の笑顔も、優しさも、エースへの想いも。
すべては、今この瞬間の、冷蔵庫を冷やし、テレビを映し、子供部屋を照らすための電流へと変換されている。
「……綺麗だねぇ」
リリーナは、眩しすぎる都市を見上げ、自嘲気味に呟いた。
「何千人の命を吸って輝く灯火か。……人間ってのは、どこまで業が深い生き物なんだろうね」
彼女はエースを見上げた。
若者は、ヘッドホンの上から耳を塞ぎ、震えていた。
彼には聞こえてしまっているのだろう。
人々の歓声の裏にある、エリスたちの断末魔が。
都市の光のすべてが、彼女の流した血の色に見えているのかもしれない。
「……行くよ。長居は無用だ」
リリーナはエンジンをかけた。
報酬の食料。それはエリスたちの命の対価だ。
食べるたびに、彼女たちの味がするだろう。
それでも、生きている人間は食べなければならない。泥水を啜り、他者の命を踏みつけにしてでも、明日へ進まなければならない。
それが、この滅びかけた世界の「ルール」だからだ。
「出発だ、野郎ども! ……振り返るんじゃないよ」
アヴァランチのトレーラーが走り出す。
背後で輝く黄金の都市カナン。
それは、残酷なほどに美しく、闇夜を照らす道標として、荒野に立ち続けていた。
エースは一度だけ、ヘッドホンを外した。
風の音に混じって、エリスの声が聞こえた気がしたからだ。
エースさん。私の命が、貴方の生きる世界の光になれるなら。
「……あぁ。明るいよ、エリス。……眩しくて、涙が止まらないんだ」
彼は夜空を見上げ、押し殺した声で嗚咽した。
その涙が乾く頃、少年は一つ大人になり、また一つ、何かを失うのだろう。
贄の灯火に照らされた轍を残し、傭兵たちは再び、終わりのない旅路へと消えていった。




