砂海の亡霊戦艦
その物体は、灰色をしていた。
硬さは古くなった粘土のようで、匂いは消毒液と廃油を混ぜて乾燥させたような刺激臭がする。
パッケージには無機質なフォントで『総合栄養ブロック(プロテイン配合)』と印字されている。
キャンプファイヤーの頼りない灯りの下、エースは震える手でそれを口に運んだ。
ジャリ、という砂を噛むような食感。
続いて舌の上に広がるのは、舌の細胞が全力で拒絶する化学的な苦味と、喉に張り付くような不快な脂っこさだ。
「……うッ」
エースは口元を押さえ、涙目でそれを嚥下した。胃袋に鉛を落としたような重みが広がる。
「隊長……。俺、もう限界です。これ、本当に『食べ物』なんですか? 建材か何かじゃなくて?」
「贅沢を言うんじゃないよ、エース。カロリーと必須ビタミンは足りてるはずだ」
リリーナ・シュトルムは、トレーラーのステップに腰掛け、不機嫌そうに自らの配給ブロックをナイフで削っていた。
彼女の身体は義体だが、脳と一部の内臓は生身だ。生きるためには、この汚泥を固めたような物体を摂取し続けなければならない。それは拷問に近い儀式だった。
「……味覚センサーを切りたい気分だよ」
リリーナは削った欠片を口に放り込み、水で無理やり流し込んだ。
かつて、80年前の世界には「料理」があった。
焼けた肉の香ばしさ、煮込まれた野菜の甘み、焼きたてのパンのふくよかな香り。それらを知っているだけに、この現在の食事は魂を摩耗させる。
「そう言えば、バレット。例の情報はどうなった?」
口直しとばかりに葉巻を取り出しながら、リリーナは副長に水を向けた。
端末を操作していたバレットが、顔を上げた。彼もまた、食べかけのブロックを忌々しそうに見つめていた一人だ。
「裏が取れました。……座標、N34-E128。砂の海の中央に座礁している陸上戦艦『ギガント』。そこに間違いありません」
バレットの声が少しだけ上擦る。
「情報屋の話では、艦内第3ブロックの気密倉庫が生きています。積荷目録には……『将校用特別食糧セット』の記載あり。製造年月はパンデミック直前。真空保存状態なら、劣化はありません」
その言葉が落ちた瞬間、キャンプの空気が凍りつき、そして爆発的に沸騰した。
「食糧……! つまり、缶詰ですか!? チューブ入りのペーストじゃなくて!?」
エースが立ち上がる。その目には、飢えた獣のような光が宿っていた。
「缶詰どころの話じゃないぞ」
バレットが端末の画面をプロジェクターで投影する。
そこに映し出されたのは、色褪せた、しかしあまりにも魅力的なラベルの数々だった。
――『厚切り牛肉のデミグラスソース煮込み』
――『北海道産ポテトのクリームシチュー』
――『完熟トマトとバジルのパスタソース』
――『特選ブレンドコーヒー豆』
ゴクリ、と誰かが喉を鳴らす音が響いた。
それは単なる食欲ではない。人間としての尊厳を取り戻したいという、魂の叫びだった。
「行くよ」
リリーナが立ち上がった。その瞳は、機械軍を殲滅する時よりも遥かに鋭く、ギラギラと輝いていた。
「総員、戦闘配置! 目的は敵の殲滅じゃない。今夜のディナーの確保だ! 缶詰一つたりとも傷つけるんじゃないよ、命より大事に扱いな!」
「「アイアイマムッ!!」」
アヴァランチの隊員たちの返答が、荒野の夜空にこだました。彼らの士気は、今や最高潮に達していた。
砂塵の向こうにそびえ立つその巨体は、まさに鉄の山脈だった。
旧大戦期に建造された超弩級陸上戦艦「ギガント」。全長1キロメートル。無限軌道一つがビルほどの高さがある化け物だ。
今は砂の海に半分埋もれ、傾いたまま沈黙している。
「……でかいな。まるで墓標だ」
ホワイトロータスのコクピット内で、リリーナはガイガーカウンターのスイッチを入れた。
カリカリ、という乾いた音が鳴り始める。
「放射線値、微増。……Efリアクターじゃない、旧式の小型原子炉か。シールドなしで長時間浴びれば髪が抜けるレベルだね。さっさと仕事を済ませるよ」
アヴァランチの一行は、戦艦の装甲板に空いた亀裂、かつての被弾跡から艦内へと潜入した。
艦内は死のように静まり返っていた。
非常用電源だけが生きているのか、薄暗い赤色のライトが長い通路を照らし出している。
「静かに。……いるぞ」
リリーナが警告を発する。
通路の両脇。壁に埋め込まれた充電ドックに、ずらりと並ぶ影があった。
SAA-1873 "ピースウォーカー"(機械軍仕様)。
サンドベージュの塗装が剥げ、オイルの染みがついた無機質な兵士たちが、首を垂れてスリープモードに入っている。
「うわぁ……。これ、全部起きたら俺たち終わりですよ」
エースの機体が、コンテナを抱えながら抜き足差し足で進む。
足元のグレーチング(金網床)が、巨大な質量を受けてギシギシと悲鳴を上げるたび、隊員たちの心臓が跳ね上がる。
「刺激するな。奴らは音と振動、そして急激な熱源変化に反応する」
リリーナはホワイトロータスの出力を絞り、極力音を立てないよう、四本腕を使って壁や天井を伝いながら進んだ。
まるで巨大な蜘蛛のように、音もなく、しかし確実に獲物(食料)へと近づいていく。
目指すは第3ブロック。
迷路のような艦内を進むこと30分。いくつもの防水扉をこじ開け、ダクトをくぐり抜けた先に、重厚な隔壁が現れた。
そこには、かつての言語で『第一食糧庫・立入禁止』と記されていた。
バールで電子ロックを物理的に破壊し、油圧ジャッキで重い扉を押し上げる。
プシューッ、という音と共に、数百年前の空気が流れ出した。
それはカビ臭いような、しかしどこか甘美な「保存された時間」の匂いだった。
ライトで照らされた倉庫の中。
そこには、アヴァランチの面々が夢にまで見た光景が広がっていた。
「神様……!」
整然と積み上げられた軍用コンテナ。
その一つをこじ開けると、中には銀色に輝く缶詰や、真空パックされたレトルトパウチがぎっしりと詰まっていた。
エースが震えるマニピュレーターで、小さな包みをつまみ上げた。
『チョコレート(高カカオ配合・ナッツ入り)』。
「隊長……これ、開けてもいいですか? 毒見が必要ですよね?」
「……ひとかけらだけだよ。残りは私の分だ」
許可を得たエースが、コクピットを開けて身を乗り出し、震える指で包装を破る。
途端に、ふわりと漂う香り。
甘く、ほろ苦く、鼻腔をくすぐる芳醇な香り。それは合成香料のわざとらしい匂いとは違う、大地と太陽の記憶を持った「カカオ」の香りだった。
エースはそれを口に含んだ。
体温でゆっくりと溶けていく油脂分。広がる甘み。ナッツの香ばしさ。
脳内麻薬が炸裂するような衝撃に、彼の瞳からツーッと涙が流れた。
「う、うまい……! うまいですぅぅ……! 俺、生きててよかった……!」
その姿を見て、バレットもリリーナも、無言で唾を飲み込んだ。
これはただの食料ではない。
失われた文明の結晶であり、明日を生きるための希望そのものだ。
「よし、総取りだ! 一つ残らず積み込め!」
リリーナの号令で、全員が我先にと作業を開始する。
アヴァランチ仕様のピースウォーカーたちが、ネットや牽引ワイヤーを使ってコンテナを運び出す。
バレットの機体が、特に大きなコンテナ――『ヴィンテージワイン・木箱入り』と書かれたもの――を持ち上げた、その時だった。
ゴゴゴゴ……。
床が沈み込んだ。
長年の劣化で床のセンサーが誤作動したのか、それとも重量オーバーか。
倉庫全体が赤く明滅し、耳をつんざくような警報音が鳴り響いた。
『侵入者検知。侵入者検知。保安システム、起動』
無機質なアナウンス。
そして、通路の向こうから、先ほどまで眠っていた無数の駆動音が、一斉に唸りを上げ始めた。
「……やっちまったね、バレット」
「め、面目ない!」
「反省は後だ! 飯のためなら死んでも守り抜け! 撤収ッ!!」
アヴァランチは宝の山を抱え、覚醒した機械軍が待つ通路へと走り出した。
ガガガガガッ!
狭い艦内通路で、激しい銃撃戦が始まった。
通路の前後から挟み撃ちにしてくる機械軍のピースウォーカー。
だが、アヴァランチの気迫は普段とは違っていた。
「そこをどきなさいよ! このコンテナには『乾燥卵』が入ってるんだ!」
リリーナのホワイトロータスが鬼神の如く暴れ回る。
右手のサブマシンガンで前方の敵を牽制しつつ、左手のバトルアックスで突っ込んできた敵機を両断する。
その背中側のサブアーム二本は、しっかりとコンテナを抱え込んで離さない。
「傷つけたら承知しないよ! 卵料理なんて十年ぶりなんだからね!」
怒号と共に繰り出されるパイルバンカーが、敵機の装甲を貫く。
「隊長、後ろからも来ます!」
「エース、撃ちまくれ! ただし跳弾に気をつけろ! 缶詰に穴が開いたら給料抜きだぞ!」
「そんな無茶な!」
エースは必死にトリガーを引く。
普段なら恐怖で足がすくむ状況だが、「本物のチョコレート」の味が彼を戦士に変えていた。もう二度と、あの泥のような栄養ブロックには戻れない。その一心が生死の境を超えさせていた。
しかし、敵は数だけではない。
天井から降りてきた自動防衛タレットが火を噴き、アヴァランチを追い詰める。
被弾したバレットの機体がよろめき、抱えていたワインの木箱が壁にぶつかりそうになる。
「バレットォォッ!!」
リリーナの悲鳴に近い叫び。
バレットは神業的なバランシングで機体を立て直し、身を挺して木箱を守った。背中の装甲がタレットの銃弾で削り取られるが、彼は呻き声一つ上げない。
「……中身は、無事です!」
「よくやった! ボーナス弾んでやるよ!」
一行は弾幕をかいくぐり、なんとか上部甲板へのハッチへと辿り着いた。
太陽の光が見える。脱出まであと少し。
だが、世の中はそう甘くはない。
甲板に出た瞬間、巨大な影が彼らの行く手を塞いだ。
ズゥゥン……。
重厚な増加装甲。両肩にミサイルポッド、両手にガトリングガン。
SAA-1873改 "ヘヴィ・コマンダー"(指揮官仕様)。
この戦艦の警備システムと直結した番人が、冷たいレンズをこちらに向けていた。
「資源ノ……持ち出しハ……許可……シナイ……」
そのガトリングガンの銃口が回転を始め、初弾が発射された。
狙いはリリーナでもバレットでもない。
バレットが必死に守り抜いた、あの木箱だった。
ガシャァァァン!
乾いた音と共に木箱が砕け、中から赤黒い液体が飛び散った。
ヴィンテージワインの瓶が、数本、粉々に砕け散ったのだ。
芳醇な香りが、砂漠の熱風に煽られて漂う。
時が止まった。
リリーナの動きが凍りついた。
「……あ」
彼女の視線が、砂に吸い込まれていく赤い液体に釘付けになる。
80年前の太陽を浴びた葡萄。職人が手塩にかけて醸造し、数百年もの間、暗闇の中で熟成を待っていた奇跡の雫。
それが今、機械の無慈悲な暴力によって、誰の喉も潤すことなく消えた。
ブチッ。
リリーナの中で、何かが切れる音がした。
「……てめぇ」
ホワイトロータスのリアクターが、限界を超えた回転音を上げ始める。
「酒の恨みは……食い物の恨みはなぁ……!!」
純白の機体が、悪鬼羅刹の如きオーラを纏って突進を開始した。
それは戦略も戦術もない、純粋な「飢え」と「怒り」の爆発だった。
「ぶっ殺してやるッ!!」
リリーナの咆哮と共に、ホワイトロータスが甲板を疾走した。
それは熟練の操縦技術というよりは、本能のままに暴れる猛獣の動きだった。
ガガガガガッ!
ヘヴィ・コマンダーの両腕から放たれるガトリングガンの弾幕。
通常なら回避困難な死の壁だが、リリーナはそれを紙一重でかわしていく。
右へ、左へ。機体を極限まで傾け、あるいはスラスターを瞬間噴射して跳躍する。
「よくも……よくも私のロマネをぉッ!」
彼女の脳裏には、砕け散った瓶と、砂に吸われた赤ワインの残像が焼き付いていた。
あれがあれば、乾いた喉をどれほど潤せただろうか。芳醇な香りがどれほど心を癒やしただろうか。
その喪失感が、殺意となって駆動系を加速させる。
「警告。敵機、接近。迎撃行動ニ移行」
ヘヴィ・コマンダーが後退しながらミサイルポッドを開く。
だが、遅い。
ホワイトロータスは既に懐に入り込んでいた。
ガギィン!
右手のサブマシンガンを投げ捨て、空いた手で敵のガトリング砲身を掴む。
モーターが悲鳴を上げ、回転が強制停止させられる。
「この……鉄屑がぁッ!」
リリーナは四本の腕をフル稼働させた。
左手のバトルアックスで敵の肩装甲を叩き割り、背中のサブアーム二本で敵の胴体を羽交い締めにする。
重量差は倍近い。まともに押し合えば負ける。
だが、リリーナには地の利があった。
「そこだ、大人しく乗りな!」
彼女が敵を押し込んでいるのは、甲板の中央に走る溝――旧時代の航空機を射出するための「電磁カタパルト」のシャトル上だった。
「拘束完了! エース、発射レバーだ!」
『えっ、ちょっ、今ですか!?』
「早くしな! こいつのディナーは『空の旅』だ!」
コンテナを抱えて逃げていたエースが、慌てて甲板脇の操作盤に向かい、錆びついたレバーを蹴り飛ばした。
ブォォン……!
戦艦の小型原子炉から、残存電力がカタパルトへと流れる。
シャトルの磁気ロックが外れ、急激な加速Gが発生する。
「離脱ッ!」
リリーナはパイルバンカーを敵の装甲に突き刺して固定すると、自らの機体の固定を解除し、バックステップで離れた。
「排除……不能……エラー、エラァァァ……!」
ヘヴィ・コマンダーはシャトルに固定されたまま、猛烈な勢いで加速した。
甲板の端までわずか数秒。
音速に近い速度で射出された鉄塊は、美しい放物線を描いて砂漠の空へと飛んでいった。
「……ホームランだ」
リリーナは遠くで上がるキノコ雲を見つめ、荒い息を吐いた。
「次からは客の飲み物を粗末にするんじゃないよ。地獄でマナー教室に通ってきな」
戦艦ギガントを背に、アヴァランチのトレーラーは砂漠をひた走った。
安全圏まで離れた岩陰で、その夜、ささやかな宴が開かれた。
焚き火の上には、大きな寸胴鍋が掛けられている。
グツグツという音と共に、たまらない香りが周囲に漂っていた。
トマトの酸味、牛肉の脂の甘い匂い、そして煮込まれた野菜の香り。
「で、できたぞ……!」
エースが震える声で告げた。
鍋の中身は、回収した『厚切り牛肉のデミグラスソース煮込み』の缶詰をすべて投入し、乾燥野菜と水で煮込んだ特製シチューだ。
隊員たちが、まるで聖杯を受け取るかのようにシェラカップを差し出す。
リリーナもコクピットから降り、カップを受け取った。
「……いただきます」
誰からともなく声が上がり、全員がスプーンを口に運ぶ。
熱い。
そして、美味い。
噛みしめると、牛肉の繊維がほぐれ、肉汁が口いっぱいに広がる。合成タンパクにはない、命の味がする。
野菜の甘みが胃に染み渡り、冷え切った身体を芯から温めていく。
「うっ……うぐッ……」
エースが泣き出した。
涙と鼻水を流しながら、一心不乱にスプーンを動かしている。
「美味い……美味いです隊長……! 母ちゃんの味なんか忘れちまってたけど、きっとこんな味だったんだ……!」
バレットも、目を閉じて深く味わっていた。
彼の手には、半分ほど残っていた『ヴィンテージワイン』のボトルが握られている。生き残った数少ないボトルだ。
「……悪くない。渋みの中に、砂の歴史を感じる味だ」
彼はリリーナのグラスに、慎重に赤ワインを注いだ。
「隊長。貴女の執念のおかげです。乾杯しましょう」
「ふん。……乾杯」
リリーナはグラスを傾けた。
安物のグラスだが、中の液体はルビーのように輝いている。
口に含むと、80年の時を超えた芳醇な香りが鼻腔を抜けた。アルコールの熱が、人工心臓(Efリアクター)の鼓動と重なり、心地よい酔いをもたらす。
「……ああ」
リリーナは夜空を見上げた。
満点の星空。汚染された大気のせいで地上は地獄だが、星だけは変わらず綺麗だ。
口の中には肉の旨味が残り、手には酒がある。
隣では部下たちが、生きていることを噛みしめるように笑い、泣き、食べている。
「生きてるってのは、こういうことさね」
彼女は新しく取り出した葉巻に火を点けた。
紫煙が焚き火の煙と混じり合い、夜風に流れていく。
「機械には分からない。効率も計算もない、ただ腹を満たし、美味いと言って笑う。……この瞬間のために、私たちは泥水を啜ってでも生き延びるんだ」
「隊長! おかわりありますよ! パンも焼けてます!」
エースが顔をくしゃくしゃにして叫ぶ。
「おう、貰うよ! 肉を多めによこしな!」
リリーナは笑い、カップを差し出した。
砂漠の夜は寒い。だが、今夜のアヴァランチのキャンプには、世界で一番温かい空気が流れていた。
明日になれば、また食うや食わずの日常が戻ってくるかもしれない。
機械軍の襲撃があるかもしれない。
それでも、今のこの満腹感と幸福な記憶があれば、彼らはまた戦える。
鋼鉄の身体に宿る、決して錆びつかない人間の魂。
リリーナ・シュトルムの旅は、美味い飯と酒を求めて、まだまだ続く




