第34章【鋼鉄の濁流、愛と許しの平手打ち(Steel Torrent, A Slap of Love and Forgiveness)】
鉄屑市の教会の朝は、皮肉なほどに美しかった。
ステンドグラスの破片を通して、七色の光が古びた寝室に差し込んでいる。
その光の中で、僕は、ベッドの縁に座り込み、両手で顔を覆っていた。
部屋には、甘く重い残り香が漂っている。
マリアさんの匂い。そして、昨夜の情事の匂い。
隣には、もう彼女はいなかった。早朝、僕が目を覚ます前に部屋を出て行ったのだ。
シーツに残る皺とわずかな温もりだけが、あの背徳的な夜が夢ではなかったことを告げていた。
「……僕は……なんてことを」
罪悪感が、二日酔いのように頭をガンガンと殴りつける。
カオリの顔が浮かんだ。
彼女は僕を信じて送り出してくれた。ずっと待っていると言ってくれた。
それなのに、僕はその信頼を裏切り、欲望と弱さに負けてマリアさんを抱いた。
どんな言い訳も通用しない、最低の裏切りだ。
ギィ、と扉が開く音がした。
顔を上げると、いつもの修道服に身を包んだマリアさんが立っていた。
その顔には、昨夜の妖艶な色はなく、慈愛に満ちた聖女の表情が戻っていた。
ただ、その瞳の奥には、僕と同じだけの痛みが宿っていた。
「……アル君。悔やんでいるのですか?」
彼女は静かに歩み寄り、僕の前に立った。
「……はい。僕は、カオリを裏切った。取り返しのつかないことをしてしまった」
「ええ。それは事実です。貴方は罪を犯しました」
マリアさんは厳しく、しかし優しく告げた。
そして、僕の震える手を両手で包み込んだ。
「ですが、それは私も同じ。
貴方の弱さにつけ込み、私の孤独を埋めるために貴方を求めた……私の罪です。
だから、一人で抱え込まないで。この罪も、罰も……二人で背負いましょう」
彼女の手の温かさに、僕は泣きたいような衝動を覚えた。
共犯者。その言葉が、今の僕には唯一の救いだった。
その頃、遠く離れた地下都市でも、別の焦燥が空気を焦がしていた。
地下リハビリセンター。
「……くっ、あああッ!」
ガシャァァン!!
ヴィオラが叫び声を上げ、手に持っていたセンサー素子を握りつぶした。
繊細な指先の力加減を訓練するための機材だったが、彼女の怪力制御がうまくいかず、鉄屑に変わってしまったのだ。
金色の髪を振り乱し、ヴィオラは肩で息をする。
その美しい新型ボディ『Type.SAB-2159』は、性能が高すぎるがゆえに、ヴィオラの意思に対して過敏に反応しすぎてしまう。
「なぜだ……! なぜ指一本、思うように動かせない!」
彼女は自分の手を見つめ、歯噛みした。
アルは外で戦っているかもしれないのに。自分はここで、積み木遊びさえまともにできない。
「ヴィオラ、落ち着け」
ミリンダの声がインターホンから響く。
「……すまない。だが見てくれ、これでは戦うどころか……」
「その件ではない。緊急事態だ」
司令室のモニターが赤く点滅する。
ミリンダの声色が、氷のように冷たく硬くなった。
「長距離レーダーが敵影を捕捉した。
方位南西、距離150キロ。鉄屑市へ向かっている」
「なんだと……!?」
「規模はピースウォーカー数百機。
……偵察ではない。完全な殲滅部隊だ」
ヴィオラの顔色が変わる。
鉄屑市にはアルがいる。そして、罪のない多くの人々が住んでいる。
「行かせてくれ! 私なら……!」
「ダメだ。今の状態で出撃させれば、お前は自壊するだけだ」
ミリンダは非情に告げた。
「救援隊を出す。指揮官はレベッカ、医療班にボビー。
そして……現地誘導と通信担当にカオリを向かわせる」
「カオリを……?」
「ああ。彼女の分析能力と、アルとの連携が必要だ。
ヴィオラ、お前の愛機『ブルーエクレール』も輸送する。
パイロットは……アルだ」
ヴィオラは一瞬息を呑み、そして強く拳を握りしめた。
自分の不甲斐なさを呪いながらも、息子に全てを託す決意を固める。
「……分かった。頼む、カオリ。アルを……あの子を支えてやってくれ」
鉄屑市に、不穏なサイレンが鳴り響いていた。
地平線の彼方から、砂煙と共に黒い津波が押し寄せてくる。
機械軍の主力兵器、無人機動兵器『ピースウォーカー』の大群だ。
その数、目視だけでも三百機以上。
対して、鉄屑市の自警団の武装など、豆鉄砲にも等しい。
「アルくん!」
広場に到着した地下都市からの高速輸送機から、カオリの声が響いた。
ハッチが開き、カオリがタラップを駆け下りてくる。
その姿を見た瞬間、僕の胸に鋭い痛みが走った。
真っ直ぐな瞳。僕を案じる表情。
昨夜の自分の行いが、汚泥のように心に広がる。
「……カオリ」
「無事でよかった!
敵が来るよ。……アルくん、お願い。この街を守って!」
彼女は僕の手を握った。その手は震えていたが、温かかった。
何も知らない彼女の信頼が、今は何よりも痛い。
でも、だからこそ、戦わなければならない。
「……分かった。必ず守る」
僕は彼女の手を握り返し、そして意を決して告げた。
「カオリ。この戦いが終わったら……聞いてほしいことがあるんだ。
僕の、話」
カオリは一瞬、きょとんとして、それから僕の顔をじっと見た。
女の勘だろうか。彼女の瞳に、不安の色が過る。
だが、彼女は気丈に微笑んで頷いた。
「うん。……待ってるね」
輸送機のカーゴベイから、重厚な駆動音と共に、蒼い巨人が姿を現した。
ヴィオラの愛機『ブルーエクレール』。
片腕は修復され、装甲も磨き上げられているが、その魂は母さんのものだ。
「行きなさい、アル君」
背後から、マリアさんが声をかけた。
彼女は既に戦闘装備になっていた。
「今の貴方なら、その機体を……ヴィオラのスペックを100%引き出せます。
力ではなく、理で操るのです」
「はい、マリアさん」
僕はマリアさんと視線を交わした。
言葉はいらなかった。
『生きて帰って、罪を償いなさい』という彼女のメッセージを受け取り、僕はブルーエクレールのコクピットへと身を躍らせた。
ハッチが閉じる。
母さんの匂いがする。
メインモニターが起動し、無数の敵影を赤くロックオンしていく。
「行くぞ、ブルーエクレール!
母さんの代わりに……僕が、みんなを守る!」
スラスターが火を噴き、蒼い稲妻が空へと舞い上がった。
戦闘は、一方的な蹂躙で始まるはずだった。
機械軍の圧倒的な物量の前に、鉄屑市は数分で地図から消えるはずだった。
だが、その予想を一機の青い機体が覆した。
ズドォォォォン!!
先頭を走っていたピースウォーカーが、爆音と共に粉砕された。
ブルーエクレールが、敵の隊列の中央に着地していた。
「速い……!」
後方で指揮を執るレベッカが、モニターを見て舌を巻く。
アルの操縦は、ヴィオラのそれとは全く異なっていた。
ヴィオラが「圧倒的な出力と反射神経」で敵をねじ伏せるスタイルだとしたら、アルの動きは「流水」だった。
敵の砲撃を最小限の動きで回避する。
すれ違いざまに、関節部やセンサーアイなどの急所を正確に貫く。
無駄なエネルギー消費がない。
まるで、数百機の敵の動きがすべて見えているかのように、死の舞踏を踊っている。
(見える……! 敵の思考ルーチンが、回路の動きが!)
コクピットの中で、アルの感覚は研ぎ澄まされていた。
マリアさんとの死闘で培った「観察眼」と、新人類としての超感覚。
それらが、ブルーエクレールという最強の機体を通じて具現化している。
ガガガッ!
三方向からの同時攻撃。
アルはスラスターを逆噴射し、空中で独楽のように回転。
遠心力を利用した回し蹴りで一機を粉砕し、その反動で跳躍、上空から別の一機の頭頂部をパイルバンカーで貫く。
一騎当千。
まさに鬼神の如き強さだった。
しかし。
現実は非情だった。
「くそっ……減らない!?」
アルが叫ぶ。
倒しても倒しても、砂煙の向こうから新たな敵が現れる。
数の暴力。
個の強さがどれほど突出していようと、それを圧殺するだけの物量が機械軍にはあった。
「アル! 右翼が突破されたわ! 市街地へ入られる!」
カオリの悲鳴のような通信が入る。
随伴していた味方の無人ピースウォーカー部隊は、既に全滅していた。
アル一人では、広大な防衛ラインを支えきれない。
ドォォォォン!
市街地の一角で爆発が起き、黒煙が上がる。
民家が踏み潰され、思い出の路地が炎に包まれていく。
「やめろぉぉぉッ!!」
アルは機体を反転させ、市街地へ向かう。
だが、敵の主力部隊がその背後を容赦なく撃つ。
ブルーエクレールの装甲が悲鳴を上げる。警告アラートが鳴り響く。
(守れないのか……? こんなに力を手に入れたのに……!)
焦りが操作を乱す。
その時、市街地の防衛線で、黒い影が舞っているのが見えた。
マリアだ。
彼女は生身で、対物ライフルと爆薬を駆使し、侵入してきたピースウォーカーの足を止めていた。
『アル君! 前だけを見なさい!
後ろは……私たちが守ります!』
通信機越しではない。マリアの強い意志が、直接響いてきた気がした。
戦闘は夕刻まで続いた。
最終的に、機械軍は「鉄屑市の主要施設の破壊」という目的を達成したと判断したのか、あるいはアルというイレギュラーな戦力による損耗を嫌ったのか、潮が引くように撤退していった。
残されたのは、瓦礫の山と化した鉄屑市だった。
家々は崩れ、黒い煙が空を覆っている。
ブルーエクレールは広場に降り立った。機体は傷だらけで、エネルギーも底をつきかけていた。
プシュゥゥゥ……。
ハッチが開き、アルが外へ出る。
空気が焦げ臭い。
「……みんな……」
アルは絶望しかけた。街が、死んでしまった。
だが、地下シェルターの重厚な扉が開き、そこから人々が出てきた時、その思いは覆された。
「けっ、派手にやりやがって!」
「俺の店がペチャンコだぜ。ま、建て直す手間が省けたか!」
「おい、誰か鉄骨運ぶの手伝え! いい素材がいっぱい転がってるぞ!」
住人たちは生きていた。
誰一人、死んでいなかった。
そして、家を失ったことなど意にも介さず、既に復興へと動き出していた。
この街の人々は、鉄屑のように逞しい。何度踏み潰されても、形を変えて蘇る。
その光景に、アルの目頭が熱くなる。
守れたんだ。建物は壊れたけれど、一番大切な「人の営み」は守れたんだ。
「アルくん!」
カオリが駆け寄ってきた。
煤で顔を汚し、服も破れているが、怪我はないようだ。
彼女はアルの無事を確認すると、安堵の涙を浮かべて抱きつこうとした。
「カオリ……待って」
アルはその手を制した。
カオリが立ち止まる。
「……話があるって、言ったよね」
アルは拳を握りしめ、真っ直ぐにカオリを見た。
夕日が、二人の影を長く伸ばしている。
ここからが、アルにとっての本当の戦いだった。
「ごめん。僕は……君を裏切った」
アルは包み隠さず話した。
マリアへの憧れ。弱さ。そして昨夜、彼女と一夜を共にしてしまったこと。
言い訳はしなかった。
ただ事実を、自分の罪を告白した。
カオリは静かに聞いていた。
表情を変えず、ただじっとアルの目を見ていた。
周囲の喧騒が遠のき、二人だけの世界になる。
話し終えたアルは、頭を下げた。
罵倒される覚悟だった。軽蔑され、振られる覚悟だった。
パァンッ!!
乾いた音が響いた。
アルの左頬に、熱い衝撃が走った。
顔を上げると、カオリが手を振り抜いた体勢で立っていた。
その瞳から、大粒の涙が溢れ出していた。
「……バカ」
カオリの声が震えていた。
「バカ! アルくんのバカ!
……どうして、もっと頼ってくれなかったの!?
私がいるのに……私じゃ、アルくんの寂しさを埋められなかったの!?」
彼女は怒っていた。
浮気をしたことよりも、アルが一人で苦しみ、弱さを他の女性に見せたことに。
「……ごめん。カオリ……ごめん」
「……もう一回」
パァンッ!
今度は右頬を叩かれた。
痛みと共に、カオリの想いが流れ込んでくる。
「これで……チャラにしてあげる」
カオリは泣きじゃくりながら、アルの首に腕を回し、強く抱きついた。
「許してあげる。……だって、アルくんが悪いんじゃないもん。
アルくんが優しすぎるから……弱すぎるからいけないんだもん。
だから……私がそばにいてあげなきゃダメなんだもん……!」
その言葉は、慈愛そのものだった。
彼女は僕の罪ごと、全てを受け入れてくれた。
「カオリ……」
アルは涙を流し、カオリを強く抱きしめ返した。
もう二度と離さない。一生をかけて、この愛に報いると誓った。
「……申し訳ありません」
そこへ、足を引きずりながら一人の女性が現れた。
マリアだ。
彼女の修道服はボロボロに破れ、あちこちからオイルが滲んでいる。
避難民を守るために、殿として最後まで戦い抜いた証だった。
マリアはカオリの前で、泥に塗れた地面に膝をついた。
聖女が、罪人として頭を垂れる。
「カオリさん。悪いのは……全て私です。
彼の弱さにつけ込み、誘惑しました。
貴女という恋人がいると知りながら……彼を汚しました。
どうか、私に罰を。……どんな報いも受けます」
マリアの声は震えていた。
彼女はずっと苦しんできたのだ。百年の孤独と、一瞬の過ちの重さに。
カオリはアルから身体を離し、涙を拭ってマリアを見下ろした。
そして、ゆっくりとマリアの前にしゃがみ込んだ。
「……マリアさん」
カオリの手が、マリアの汚れた頬に触れた。
「顔を上げてください」
マリアが恐る恐る顔を上げる。
そこにあったのは、憎悪でも軽蔑でもなく、春の日差しのような優しい微笑みだった。
「……罰なんて、ありません」
「え……?」
「だって……仕方ないですよ。
アルくん、いい男だもん。
マリアさんほどの人でも好きになっちゃうくらい……魅力的になっちゃったんだもん」
カオリは困ったように笑い、そしてマリアを優しく抱きしめた。
「私、怒ってません。
マリアさんの気持ち……分かります。
私だって、アルくんがいなかったら生きていけなかった。
私たち……似た者同士ですね」
その言葉に、マリアの瞳が見開かれた。
許し。共感。
彼女が百年かけても得られなかった救いが、この少女の小さな腕の中にあった。
「あ……ぅ……」
マリアの喉から、嗚咽が漏れた。
聖女の仮面が崩れ落ち、ただの一人の弱い女性として、彼女は泣いた。
「ありがとうございます……。
ありがとうございます……カオリさん……!」
マリアはカオリにしがみつき、子供のように泣きじゃくった。
カオリはそんなマリアの背中を、優しく撫で続けた。
それは、聖女が初めて「救われた」瞬間だった。
夕日が、瓦礫の街を黄金色に染めていく。
アルは、抱き合って泣く二人の女性を見つめながら、静かに涙を流した。
壊れた街は、また直せばいい。
傷ついた心も、こうして絆で繋ぎ直せる。
僕たちは、ここからまた始められる。
罪も、愛も、全てを抱きしめて。




