第32章【黄金の枷、聖女の鉄槌(Golden Shackles, The Saint's Iron Hammer)】
地下都市の人工太陽が、柔らかな午後の光を模倣している。
ヴィオラの宿舎のリビングには、穏やかな時間が流れていたが、その中心にいる人物にとっては、そこは戦場よりも過酷な訓練場だった。
ヴィオラは、ソファに浅く腰掛けていた。
その姿は、以前とは劇的に変わっていた。
新造されたボディ『Type.SAB-2159』。
S型の高出力、A型の指揮能力、B型の重装甲を複合させた、現時点で考えうる最強の躯体。
装甲色は深みのあるミッドナイト・ブルー。そして何より目を引くのは、照明を受けて輝く美しい金髪だった。
かつてのくすんだ金髪とは違う、太陽の光を糸にしたような鮮やかな色彩。それは、彼女の復活と新たな始まりを象徴しているようだった。
だが、その美しい身体は今、小刻みに震えていた。
「……くっ……動け……」
ヴィオラの額に、冷却液の汗が滲む。
彼女の視線の先にあるのは、ローテーブルに置かれた白いコーヒーカップだ。
ただ、それを持ち上げて口に運ぶ。
それだけの動作が、今の彼女にはエベレスト登頂よりも困難だった。
ウィィン……ガガッ……。
腕を伸ばすが、人工筋肉の収縮がスムーズにいかない。
行き過ぎたり、届かなかったり。視覚センサーとの同期ズレが発生しているのだ。
ようやく指先がカップの取っ手に触れた。
「……よし」
ヴィオラが意を決して、指に力を込める。
しかし。
パキッ!
乾いた音が響いた。
力の加減が効かず、陶器の取っ手が粉々に砕け散ったのだ。
カップ本体が倒れ、熱いコーヒーがテーブルクロスに黒い染みを作っていく。
「……あ……」
ヴィオラの動きが凍りついた。
その表情には、悔しさと情けなさが混じり合った、見ていて辛くなるような色が浮かんでいた。
「……くそっ! またか……!
なぜだ……なぜ、こんな簡単なことができない!」
彼女は自分の手を見つめ、ギリリと拳を握りしめた。
電子の海から生還し、最強のスペックを手に入れたはずなのに。
今の彼女は、赤子同然だった。
思考回路は明瞭になったが、それを身体に伝える信号伝達系がまだ馴染んでいない。高性能すぎるがゆえに、微細な制御が暴走してしまうのだ。
「大丈夫ですよ、ヴィオラさん」
すぐにMが飛んできて、手際よくテーブルを拭き始めた。
カオリも新しいカップを持って駆け寄る。
「焦らないでください。
ボビー先生も言っていました。新しいOSとハードウェアの同期には、膨大な学習時間が必要だって。
今はまだ、リハビリの段階なんです」
「……分かっている。頭では分かっているんだ、カオリ。
だが……このままでは、私はお荷物だ」
ヴィオラが力なく首を垂れた。金色の髪がサラリと揺れる。
最強の戦士としてのプライドが、今の無力な自分を許せないのだ。
「お荷物なもんか」
僕、アルは、ヴィオラの隣に座り、彼女の震える手をそっと包み込んだ。
冷たく硬質な装甲の手。でも、そこには母の温もりが通っている。
「覚えてる? 母さん。
僕が小さい頃、歩く練習をしていた時のこと。
僕が転ぶたびに、母さんは何度でも手を貸してくれた。
『立て、アル。お前ならできる』って、ずっと待っていてくれた」
ヴィオラが顔を上げ、蒼い瞳で僕を見る。
「……ああ。覚えている」
「今度は、僕の番だ。
何度でも付き合うよ。コーヒーを飲む練習も、歩く練習も。
僕が支えるから」
僕は彼女の手を取り、もう一度カップへ誘導した。
ヴィオラの瞳が揺れ、やがて小さく頷いた。
「……そうだな。
すまない、アル。……頼む」
かつて僕を守り育ててくれた母の背中は、今は少し小さく見える。
でも、その弱さをさらけ出してくれることこそが、僕たちの絆の証だと思えた。
翌日。ボビーの診療所。
モニターには、僕の身体の精密検査データが表示されていた。
DNA螺旋構造、細胞分裂の速度、筋繊維の密度……それらの数値は、常人のグラフを遥かに突き抜けていた。
「……結論から言おう」
ボビーが白衣のポケットに手を突っ込み、真剣な眼差しで僕を見た。
隣にはミリンダ司令官とレベッカもいる。
「アル、お前はもう『人間』の枠には収まらねぇ。
細胞の活性化レベルは測定不能だ。
あの『マリー』とかいう化け物に腹をぶち抜かれた時、お前の身体は死を拒絶して、爆発的な進化を起こしたらしい」
「進化……?」
「ああ。自己再生能力、反射神経、筋力……全てがサイボーグやアンドロイドを凌駕している。
まさにアダムとイヴの遺産、『新人類』の完成形だ」
僕は自分の手のひらを見つめた。
確かに、身体が軽い。以前とは世界の見え方が違う。
視界に入る情報の処理速度が上がり、周囲がスローモーションに見えることさえある。
「なら!僕が『ブルーエクレール』に乗れば……!」
僕は身を乗り出した。
ヴィオラが動けない今、僕が戦うしかない。この力があれば、あのマリーとも戦えるはずだ。
「却下だ」
ミリンダが冷たく告げた。
「えっ……?」
「レベッカ、説明してやれ」
レベッカがため息交じりにモニターを切り替えた。
そこには、シミュレーション上の『ブルーエクレール』が、自壊してバラバラになる映像が映し出された。
「いいか、アル。
お前の今の身体は、例えるならF1のエンジンを積んだ軽トラだ。
出力は馬鹿みたいにあるが、それを制御するシャーシやハンドル捌きが伴ってない」
レベッカが僕の胸をレンチで小突いた。
「今の身体能力でブルーエクレールを動かせば、機体の限界を超えた操作をして、フレームをねじ切っちまうだろうよ。
それに……生身の戦闘でも同じだ。
力任せに殴れば、相手より先に自分の腕が砕ける。
技術のない力なんて、ただの暴力装置だ。使い物になんねぇ」
言葉が出なかった。
力が強すぎるがゆえの欠陥。
「戦線復帰は時期尚早だ。
ヴィオラのリハビリと並行して、お前も一から学び直せ」
ミリンダの命令は絶対だった。
「学び直す……」
僕は拳を握りしめた。
誰に? ヴィオラは動けない。ミリンダやボビーは戦闘タイプじゃない。
僕の、この人外の力を制御する方法を教えてくれる人なんて……。
いや、一人だけいる。
ヴィオラ以外で、僕が知る限り「最強」の存在。
生身に近い身体構造を持ちながら、パワードスーツをも粉砕する伝説の兵士。
「……心当たりは、あるようだな?」
ボビーがニヤリと笑った。
僕は顔を上げ、強く頷いた。
「はい。行ってきます。
……僕の、故郷へ」
地下都市のゲートが開き、僕は一台のオフロードバイクで荒野へと飛び出した。
エンジン音が風を切り裂く。
アクセルを回す手首の動きに、車体が過敏に反応する。以前なら振り落とされていたGも、今の身体なら心地よい微風にしか感じない。
目指すは南西。
多くのことを学んだ場所。
鉄屑市。
数時間の走行の後、地平線に巨大な廃棄物の山が見えてきた。
かつては天を突くように見えたゴミ山も、高層ビルの残骸も、今の僕の目にはどこか小さく、色褪せて見えた。
風景が変わったのではない。僕の視座が変わったのだ。
5年という月日と、潜り抜けてきた死線の数が、僕を大人にしたのだと実感する。
街に入ると、懐かしい錆とオイルの匂いが鼻腔をくすぐった。
ガラクタを漁る人々、屋台の煙、遠くで聞こえる銃声。
何も変わっていない。ここは時間が止まった掃き溜めであり、同時に生命力に溢れた揺り籠だ。
僕はバイクを降り、路地裏へと歩を進めた。
向かう先は一つ。
街外れの丘の上に建つ、古びた教会。
門をくぐると、そこには静寂があった。
手入れされた花壇。干された白いシーツが風に揺れている。
そのシーツの隙間から、一人の女性の姿が見えた。
黒い修道服。
清楚で、どこか儚げな横顔。
シスター・マリア。
僕の初恋の人であり、孤児院の母であり……そして、かつての世界大戦を生き抜いた、最古参の軍用A型アンドロイド。
ドクン。
心臓が跳ねた。
5年前、彼女に別れを告げた時の切なさが蘇る。
でも、今の胸の痛みは、あの頃とは少し違う種類のものだった。
「……マリアさん」
僕が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
風が吹き、彼女のベールと、干されたシーツが舞い上がった。
風に靡く白いシーツの隙間から、彼女が現れた。
午後の陽射しを浴びて、その黒い修道服のシルエットが神々しく浮かび上がる。
シスター・マリア。
5年前と何一つ変わらない、陶器のように滑らかな肌と、全てを慈しむような穏やかな瞳。
アンドロイドである彼女に「老い」はない。だが、その佇まいには、悠久の時を生き抜いてきた者だけが持つ、独特の静謐さがあった。
「……アル、君……?」
マリアが洗濯カゴを抱えたまま、目を丸くした。
無理もない。5年前の僕は子供だった。
今の僕は、ヴィオラより背が高く、戦いで鍛え上げられた筋肉質の青年だ。
「はい。……帰ってきました、マリアさん」
僕がヘルメットを脱ぎ、微笑みかけると、マリアの表情がパァッと華やいだ。
「まあ……! 本当に、アル君なのですね!」
彼女はカゴを地面に置き、小走りで駆け寄ってきた。
そして、遠慮がちに僕の頬や肩に触れた。
「大きくなりましたね……。本当に、立派になって。
生きていてくれて、よかった」
その手の温かさと、ふわりと香る石鹸の匂い。
かつて、僕が淡い恋心を抱いていた「お母さん」の匂いだ。
胸がキュッと締め付けられる。でも、それはもう、焦がれるような恋の痛みではなかった。
「マリアさんこそ、お変わりなく」
「ええ、私は変わりません。……変われないのです」
マリアは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
そして、僕の瞳をじっと覗き込んだ。その深緑のセンサーは、僕の身体的な成長だけでなく、内面の変化までを見透かすようだった。
「……いい顔になりましたね。
ただ強くなっただけではありません。誰かを守り、そして……誰かに深く愛されている、男の顔です」
僕はドキリとした。
何も言っていないのに、彼女には分かってしまうのだ。
「……カオリさん、でしたか?
あの子と、うまくいっているのですね」
「……はい。
彼女は今、僕にとってかけがえのないパートナーです。
彼女を守るためなら、僕はなんだってできる」
僕は隠さずに答えた。
マリアに対して嘘はつけないし、つきたくなかった。
マリアは一瞬、本当に一瞬だけ、時が止まったような顔をした。
それは、成長して巣立っていく子供を見る母親のような、あるいは、ずっと大切にしていた宝物を手放す少女のような、複雑な寂寥感を含んでいた。
だが、次の瞬間には、彼女は聖母のような慈愛に満ちた笑顔に戻っていた。
「ふふ、そうですか。……おめでとう、アル君。
素敵なことですよ。
『愛』は、戦士を一番強くする剣ですから」
彼女は僕の手を取り、優しく包み込んだ。
その祝福を受けて、僕の中でくすぶっていた幼い初恋は、美しい思い出へと昇華され、静かに幕を閉じた。
教会の中庭でお茶を飲みながら、僕は本題を切り出した。
ヴィオラのこと、不老不死の怪物マリーのこと、そして僕の身体に起きた異変のこと。
「……なるほど。
身体能力が意思を追い越してしまい、制御できない……ということですね」
マリアは紅茶のカップを置き、静かに頷いた。
「はい。今のままじゃ、ただ暴れるだけの獣です。
力を正しく使う技術が欲しいんです。
マリアさん……どうか、僕に戦い方を教えてください」
僕は席を立ち、深々と頭を下げた。
「ヴィオラ……母さんを守りたいんです。カオリを、みんなを守るために、僕は強くなりたい!」
マリアは沈黙した。
風が止まり、教会の鐘の音だけが遠くで響く。
「……お断りします」
返ってきたのは、予想外の拒絶だった。
「え……?」
「アル君。貴方は勘違いをしています。
私の力は、貴方が望むような『守るための力』ではありません」
マリアは伏し目がちに言った。
「私は、大戦期に製造された軍用A型。
私の機能の全ては、敵を効率的に破壊し、生命活動を停止させるためだけに設計されています。
私の技術は『武道』ではなく『殺戮術』。
……貴方に、人殺しの技を教えたくはありません」
「それでもいい!!」
僕は食い下がった。
「綺麗事じゃ守れない敵がいるんです!
相手は、理不尽な悪意そのものです。殺す気でやらなきゃ、殺されるだけなんだ!
お願いです、マリアさん! 僕を……僕を、本物の戦士にしてください!」
僕の叫びが、中庭にこだました。
マリアは僕を見上げ、その瞳の奥で何かの演算を走らせていた。
やがて、彼女はふぅと小さく息を吐き、立ち上がった。
「……そこまでの覚悟があるのなら」
彼女が修道服の袖を捲り上げる。
白く細い腕。一見すれば華奢なその腕が露わになった瞬間。
ゾワリ。
僕の全身の産毛が逆立った。
マリアの雰囲気が一変した。
慈愛に満ちたシスターの気配が霧散し、そこには冷徹で、無機質で、底知れない『死』の気配だけが残った。
空気が凍りつく。小鳥のさえずりが止まる。
僕の「新人類」としての本能が、警報を鳴らし始めた。
『逃げろ』と。
「ついて来なさい。地下へ行きます」
マリアの声は、温度のない氷のようだった。
教会の地下。かつては武器庫として使われていた、コンクリート打ちっぱなしの広い空間。
マリアは僕と対峙し、自然体で立った。構えすらない。
「条件があります、アル君」
彼女は無表情で告げた。
「これは訓練ではありません。
今から私は、貴方を敵性体と認識し、排除行動を開始します。
……つまり、殺すつもりで攻撃します」
「……え?」
「貴方も、私を殺す気で来なさい。破壊する気で殴りなさい。
手加減や迷いがあれば……本当に死にますよ?」
冗談ではない。彼女の瞳は、獲物をロックオンした照準器そのものだった。
「……行きます、マリアさん!」
僕は腹を括った。
殺す気でやる。そうでなければ、この人には指一本触れられない。
僕は地面を蹴った。
ドンッ!!
コンクリートの床が踏み込みの威力で砕ける。
新人類の脚力が生み出す、音速に近い突進。ヴィオラとの訓練で培った速度だ。
今の僕なら、マリアさんの動きさえも捉えられるはず!
僕の拳が、マリアの顔面を捉える寸前。
「遅い」
マリアの姿がブレた。
いや、動いていない。最小限の首の傾きだけで、僕の拳を回避したのだ。
そして、すれ違いざま、彼女の掌が僕の胸に軽く触れた。
ドゴォォォッ!!
「がはっ!?」
まるで巨大なハンマーで殴られたような衝撃。
僕は後方へ吹き飛ばされ、壁に激突した。
何が起きた? ただ触れられただけに見えたのに、内臓が揺さぶられるようなダメージ。
「力が分散しています。
踏み込みのエネルギーを、拳の一点に集中できていない。だから、ベクトルをずらされるだけで自滅するのです」
マリアは一歩も動いていなかった。
汗一つかいていない。
僕は歯を食いしばり、再生能力で痛みをねじ伏せて立ち上がった。
もう一度だ。今度は力任せじゃない。連撃で崩す!
シュッシュッシュッ!
僕は拳の雨を降らせた。サイボーグの装甲さえ貫く拳圧。
だが、当たらない。
マリアは流水のように腕を動かし、僕の攻撃をすべて『受け流し』ていた。
弾くのではない。僕の力を利用し、軌道を逸らし、バランスを崩させる。
「隙だらけです」
僕の右ストレートが空を切った瞬間、マリアが懐に入り込んだ。
速い。ヴィオラのようなブースト加速ではない。予備動作が全くない、完全な静止からのトップスピード。
バキィッ!
乾いた音がして、僕の右腕が逆方向に曲がった。
関節を極められた。
「あぐっ……!」
「再生能力に頼りすぎです。痛みへの忌避感が足りない」
マリアは冷淡に言い放ち、僕の折れた腕を掴んだまま、足を払った。
天地が逆転する。
背中から地面に叩きつけられると同時に、喉元にマリアの手刀が突きつけられた。
寸止め。
その指先は、鋭利なナイフのように尖り、皮膚を裂いて血が滲むほどだった。
「……これで三回、死にましたよ」
マリアが見下ろしている。
その瞳に、慈悲はない。
怖い。
マリーとは違う種類の恐怖。
マリーが「暴力的な嵐」なら、マリアは「精密機械による解体作業」だ。
抗う隙さえ与えられない。これが、世界大戦を生き抜いた最古参の実力なのか。
「……はぁ……はぁ……」
僕は恐怖で震えながら、彼女を見上げた。
彼女はヴィオラのような圧倒的な出力はない。
だが、動きに一切の無駄がない。思考と行動が直結している。
これが、僕に足りないもの。
「立ちなさい、アル君」
マリアは手刀を引き、一歩下がった。
「まだ息があるうちは、戦闘継続です。
貴方が私の『殺意』を超えるまで……この授業は終わりません」
彼女が再び構える。
その姿は美しく、そして絶望的に強かった。
僕は折れた腕が再生する熱を感じながら、震える膝に力を込めて立ち上がった。




