第30章【死者の記憶と悪意の墓標(Memories of the Dead and the Gravestone of Malice)】
警告音が鳴り止まない。
地下整備ドック兼解析室の空気は、張り詰めたピアノ線のように緊張していた。
中央のメンテナンスベッドに横たわっているのは、ヴィオラだ。
彼女の身体には無数のケーブルが接続され、その切っ先は巨大なメインコンピューターへと繋がっている。
スリープモードに入っているはずの彼女の顔は、苦痛に歪み、閉じられた瞼の下で眼球が激しく動いている。
悪夢を見ているのだ。終わることのない、炎と喪失の悪夢を。
「……ダメだ、入れない! セキュリティが堅すぎる!」
キーボードを叩くレベッカの指先から、焦燥が伝わってくる。
モニターには『ACCESS DENIED(アクセス拒否)』の赤い文字が乱舞していた。
「ヴィオラ自身の防衛本能が、外部からの干渉を拒絶している。
これ以上無理にこじ開けようとすれば、自我そのものが崩壊するぞ!」
レベッカが悲鳴に近い声を上げた。
僕は、カオリと共にヴィオラの手を握りしめていた。
冷たい。
いつもなら温かい駆動熱を感じる母の手が、今はまるで死人のように冷え切っている。
「母さん……お願いだ、心を開いてくれ!
僕たちだ! 敵じゃない!」
僕たちは試みていた。
ヴィオラの深層記憶領域へダイブし、彼女がどうしても思い出せない(あるいは無意識に封印している)『マスターが殺された日』の記憶を解析することを。
そこに映っているはずの「仇」の情報を引き出し、ヴィオラを救うために。
だが、ヴィオラの心は閉ざされていた。
憎悪と絶望が幾重にも重なり、分厚い氷の壁となって僕たちを拒む。
「……アルくん。私が、接続してみる」
カオリが決意の瞳で言った。
彼女は自分のヘッドセットを調整し、ヴィオラのケーブルの一部を自分の端末に直結させた。
「カオリ、危険だ! 逆流したら君の脳が焼き切れる!」
「平気だよ。私、これでもボビー先生の一番弟子だもん。
……ヴィオラさんの心の痛み、私が半分引き受ける」
カオリがエンターキーを押した瞬間、彼女の身体がビクリと跳ねた。
「うぐっ……!?」
「カオリ!?」
カオリの瞳孔が開き、鼻からツーと一筋の血が流れる。
彼女はヴィオラの膨大な精神負荷を、生身の脳で受け止めていた。
「見え……る。
炎……熱い……痛い……!
誰かが笑ってる……。あの子が……笑ってる……!」
カオリがうわごとのように呟く。
モニターに、断片的なノイズ混じりの映像が映し出された。
燃え盛る屋敷。崩れ落ちる天井。
そして、炎の向こうに立つ、ヴィオラと同じ顔をした少女のシルエット。
だが、そこまでだった。
映像が核心に迫ろうとした瞬間、激しい砂嵐が画面を覆い尽くした。
『SYSTEM CRITICAL ERROR : DATA CORRUPTED』
ブツンッ、という音と共に、接続が強制解除された。
カオリがぐったりと僕の腕の中に倒れ込む。
「カオリ! しっかりしろ!」
「……ごめん、アルくん。
一番大切な……『炎の日』のデータだけが、完全に壊れてる。
……再生、できない」
カオリは悔し涙を流しながら首を振った。
失敗だ。
ヴィオラの記憶は、憎悪の炎で焼かれすぎて、もう読み取ることさえできない。
「……それだけじゃねぇぞ」
ボビーが、別のモニターを見ながら沈痛な声を上げた。
彼が見ていたのは、ヴィオラの機体ステータスだ。
「ヴィオラの『中枢思考回路』……見てみろ、この摩耗率を。
度重なる激戦、高出力負荷、そして今回の精神的暴走。
……限界だ。とっくに寿命を超えてる」
画面に表示されたコアの寿命予測グラフは、限りなくゼロに近い赤色を示していた。
「嘘だろ……。
母さんは最強のアンドロイドだぞ?こんなことで……」
「最強だからこそだ!」
ボビーが叫んだ。
サングラスの奥の瞳は、真剣そのものだった。
「あいつは、お前たちを守るために、常にリミッターを解除して戦ってきた。
自分の命を削りながらな。
……次に全力で戦闘を行えば、あいつのコアは焼き切れる。
二度と目覚めなくなるぞ」
僕は言葉を失った。
目の前が真っ暗になった。
母さんが、死ぬ?
僕を守り育ててくれた、強くて優しい母さんが、僕のせいで……?
絶望に押し潰されそうになった僕の手を、誰かが強く握り返した。
カオリだ。
彼女は鼻血を袖で拭い、力強い瞳で僕を見上げていた。
「諦めちゃダメ。
記憶がないなら、外を探せばいい。
母さんが動けないなら、私たちが手足になればいい。
……アルくん。約束したよね?強くなるって。守るって」
その言葉が、僕の魂に火を灯した。
そうだ。泣いている場合じゃない。
「……ああ。そうだね。
ありがとう、カオリ。
……僕たちが、母さんを救うんだ」
僕はヴィオラの冷たい頬に触れ、誓った。
必ず、君を苦しめる悪夢の正体を暴いてみせる、と。
場所を地下管制室に移し、僕たちは最後の賭けに出た。
ヴィオラの中にあるデータがダメなら、この世界のどこかに残っているはずの記録を探す。
協力してくれたのは、ミリンダ司令官だった。
「都市のメインサーバーの検索権限を特例で開放する。
過去500年分の住民記録、ニュース映像、研究ログ……全てを洗え」
ミリンダの号令と共に、管制室の全オペレーター、そしてカオリとMが検索を開始した。
キーワードは『ヴィオラと同じ顔』。
S型アンドロイドのモデルになった人物がいるはずだ。そして、その人物こそが「仇」の正体である可能性が高い。
時間は無慈悲に過ぎていく。
数時間後。膨大なデータの海から、カオリの分析AIが一つの真珠を釣り上げた。
「……あった。
ヒットしました! 適合率99.9%!」
カオリの声が弾んだ。
メインスクリーンに、一枚の古い写真が投影される。
モノクロームの写真の中で、はにかむように微笑む少女。
僕たちは息を呑んだ。
それは、ヴィオラそのものだった。
髪型や服装こそ古風だが、目鼻立ち、骨格、雰囲気……全てがヴィオラと瓜二つだ。
「彼女の名前は……?」
僕が尋ねる。
「名前は、マリー・ウィンザー。
……でも、変よ。このデータの日付……」
カオリが眉をひそめ、データを読み上げる。
「年代は、今から約110年前。機械軍との大戦が激化する直前の時代です。
そして……彼女のステータスは『死亡』になっています」
「死亡?」
「はい。死因は……『国立エネルギー研究所・反応炉臨界事故』。
享年19歳」
110年前に、19歳で死んだ少女。
それがマリー・ウィンザー。
「待てよ。百年前に死んだ人間が、どうしてヴィオラのマスターを殺せるんだ?」
ボビーが疑問を呈する。
「アンドロイド化されたのか? それともクローンか?」
「いえ……記録を見る限り、彼女はただの民間人です。
科学者の娘で、研究所の近くに住んでいた……それだけの少女です」
謎は深まるばかりだった。
だが、一つだけ確かなことがある。
このマリーという少女が、ヴィオラの顔のオリジナルであり、全ての因縁の始まりだということだ。
ミリンダが腕を組み、重々しく告げた。
「国立エネルギー研究所……。
都市から北へ500キロ。現在は『死の領域』として封鎖されている場所だ」
「死の領域?」
「ああ。百年前の臨界事故で、半径数十キロにわたって致死性の毒ガスと高濃度エネルギーが撒き散らされた。
機械軍でさえ寄り付かない、汚染された不毛の大地だ。
……そこに、何があるというのだ?」
僕は拳を握りしめた。
直感が告げている。そこに「答え」があると。
そして、そこに「奴」がいると。
「行きます。
その研究所跡へ。
そこに、マリーの亡霊がいるはずです」
僕の決意に、ミリンダは静かに頷いた。
「許可する。
だが、ヴィオラの出撃は認められない。今の彼女の状態では……」
「連れて行きます」
僕は遮った。
「母さんは、自分の手で決着をつけなきゃ前に進めない。
僕が守ります。母さんが戦えなくなったら、僕が母さんの剣になります。
……だから、行かせてください」
ミリンダは僕の瞳をじっと見つめ、ため息をついた。
そして、わずかに口元を緩めた。
「……いい目になったな、アル。
分かった。総力を挙げてバックアップする。
必ず生きて戻れ」
出撃準備は整った。
地下ドックのゲート前。
重装甲輸送車にはボビーとレベッカが乗り込み、ヴィオラは『ブルーエクレール』に、僕は『ヴォルフ』に搭乗している。
ヴィオラは意識を取り戻していたが、その顔色は悪い。
コクピットハッチが開いており、彼女はシートに座ったまま、虚ろな目で前方を見つめていた。
「……マリー……ウィンザー……」
彼女は呟く。
自分のオリジナルの名前。そして、愛する者を奪った憎き顔の名前。
「大丈夫だよ、母さん」
僕はヴォルフの機上から声をかけた。
「僕がついてる。
どんな真実が待っていても、僕たちが一緒だ」
ヴィオラはゆっくりと僕を見上げ、弱々しく、しかし確かに頷いた。
「……ああ。すまない、アル。
お前にばかり……重荷を背負わせて……」
「家族だろ。重荷なんて思ったことないよ」
僕は笑って見せた。
ゲートの脇で、カオリが見送りに立っていた。
彼女は管制室に残る。その高い情報処理能力で、遠隔から僕たちをナビゲートするためだ。
本当は一緒に来たいはずだ。でも、彼女は自分の役割を理解している。
「アルくん」
カオリが駆け寄ってきた。
僕はヴォルフから降りて、彼女の前に立った。
「必ず、戻ってきてね。
……無茶しちゃイヤだよ」
彼女は僕の胸に手を当て、涙を堪えて言った。
僕は彼女の手を握り、そっと口づけを落とした。
「約束する。
母さんを連れて、必ず帰ってくる。
……終わったら、みんなでご飯を食べよう。Mの特製ハンバーグを」
「うん……!待ってる。ずっと待ってるから!」
カオリは背伸びをして、僕の頬にキスをした。
それは、出撃前のおまじないであり、愛の誓いだった。
僕は再びコクピットへと戻った。
ハッチが閉じる。
全天周囲モニターが起動し、外界の景色が映し出される。
『出撃!』
レベッカの号令と共に、輸送車がエンジンを吹かす。
ブルーエクレールが、ヴォルフが、スラスターを噴射する。
目指すは北。
百年前の悲劇が眠る場所。
そして、世界の理から外れた悪意が待ち受ける、「墓標」の地へ。
荒野を疾走する僕たちの行く手には、不吉な黒雲が渦巻いていた。
まるで、これから起こる絶望を予兆するかのように。
都市から北へ500キロ。
かつて国立エネルギー研究所が存在したその場所は、この世の終わりのような光景が広がっていた。
緑色の毒霧が立ち込め、地面は強酸性のヘドロで覆われている。
建物は半ば溶解し、鉄骨が飴細工のように捻じ曲がっていた。
ガイガーカウンターの数値は測定不能。
ここは、有機生命体はおろか、通常の金属でさえ数時間で腐食してしまう「死の領域」だ。
その爆心地である巨大なクレーターの底に、僕たちは降り立った。
『ヴォルフ』と『ブルーエクレール』の装甲表面が、酸性霧に触れてジジジと音を立てている。
「……いるか、アル」
通信機からヴィオラの声が響く。
30年。
彼女は30年もの間、この瞬間を待ちわびていたのだ。
愛するマスター、ナンシー・オーエンを理不尽に奪われたあの日から、彼女の時計は止まったままだった。
「ああ、いるよ。……前方、クレーターの中心だ」
モニターの映像を拡大する。
信じられない光景だった。
毒霧が渦巻く中心に、一人の少女が佇んでいた。
防護服も着ていない。酸素マスクもない。薄汚れた古風なワンピース一枚で、裸足で汚染された大地に立っている。
機械反応なし。生体反応あり。
人間だ。
「……マリー・ウィンザー」
ヴィオラが呻くようにその名を呼んだ。
少女がゆっくりと顔を上げた。
その顔は、ヴィオラと瓜二つだった。
だが、その瞳には光がなく、代わりに底なしの闇と狂気が澱んでいた。
『……来たのね。人形たち』
通信回線を使っているわけではないのに、彼女の声が直接コクピット内に響いた。
いや、脳に直接響いてくるような、不快な圧迫感。
ブルーエクレールが一歩踏み出す。
ヴィオラの怒りが、機体を通じて伝わってくる。
「貴様か。……30年前、私のマスターを……ナンシー・オーエンを殺したのは!」
マリーは無表情のまま、小首を傾げた。
『ナンシー……? ああ、あの女のこと?
ええ、殺したわ。内臓をぶちまけて、綺麗なお顔をぐちゃぐちゃにしてあげた』
彼女は楽しそうに、しかし氷のような冷たさで言った。
『だって、あいつは「オーエン」の血を引く者だもの。
私をこんな体にした、あの忌々しい設計者の子孫だもの』
「なんだと……?」
『110年前……あの実験の日。
臨界事故?ふふ、違うわ。あれは「人造神」を作る実験だったの。
私は被験体にされた。莫大なエネルギーと、あらゆる劇毒を身体に流し込まれて……。
普通なら死ぬわよね? 灰になって終わり。
でも、私は死ねなかった』
マリーが自分の細い腕を広げた。
『細胞が変異して、再生と崩壊を永遠に繰り返す「化け物」になっちゃったの。
老いることもない。死ぬことも許されない。
この毒の煉獄で、百年以上も一人ぼっち。
痛いのよ。熱いのよ。苦しいのよ……ずっと、ずっと!』
彼女の叫びと共に、周囲の毒霧が爆発的に膨れ上がった。
それはただの物理現象ではない。彼女の放出する莫大なエネルギーが、大気を震わせているのだ。
『だから誓ったの。
人間も、機械も、この星に生きる全てを呪い殺してやるって。
特に、私を作った科学者の血族は……一人残らず、絶望の中で殺してやるってね』
逆恨みだ。
あまりにも身勝手で、理不尽な憎悪。
だが、百年の孤独と激痛が、彼女を純粋な悪意の塊へと変えてしまっていた。
「……ふざけるな」
ヴィオラが叫んだ。
30年分の悲痛な叫びだった。
「そんな理由で……! あんなに優しかったマスターを……何も関係ないナンシーを殺したのかッ!!」
ブルーエクレールの背部スラスターが蒼い炎を噴く。
リミッター解除。全開出力。
「許さない……貴様だけは、この手で地獄へ送るッ!!」
蒼い稲妻が、マリーに向かって突撃した。
「母さん、待って! 一人じゃ危険だ!」
僕もヴォルフを駆り、ヴィオラに続いた。
相手は人間一人だ。パワードスーツの質量と出力で押し潰せば終わるはずだ。
そう思っていた。
だが、現実は残酷だった。
ブルーエクレールの巨大な拳が、マリーの頭上から振り下ろされる。
鋼鉄をも粉砕する一撃。
しかし、マリーは動こうともしなかった。ただ、退屈そうに片手を上げただけだ。
ドォォォォン!!
見えない壁に阻まれ、衝撃波が周囲を薙ぎ払った。
エネルギー障壁が、マリーを守っていた。
『邪魔よ、鉄屑』
マリーが軽く手を払う。
それだけで、ブルーエクレールの巨体が紙切れのように吹き飛ばされた。
「ぐあぁっ!?」
ヴィオラの機体が岩盤に激突し、火花を散らす。
「母さん!!」
僕はパイルバンカーを構え、側面からマリーに肉薄した。
障壁の隙間を縫って、直接身体を貫く!
「もらったぁッ!」
ドガァン!
杭が打ち出される。
だが、杭の先端が彼女の肌に触れる寸前、彼女の皮膚が黒く変色し、鋼鉄以上の硬度を持った。
キィィィン!
パイルバンカーが折れた。
『遅い』
マリーが僕の方を見た。
その瞳と目が合った瞬間、全身が金縛りにあったように動けなくなった。
恐怖? いや、威圧感だ。生物としての格の違いを見せつけられたような。
マリーの手刀が、ヴォルフの装甲をバターのように切り裂いた。
コクピットハッチが吹き飛び、外気が流れ込む。
毒性の空気が肺を焼く。
「がはっ……!」
僕はシートから引きずり出され、酸の海のような地面に叩きつけられた。
全身の骨が軋み、激痛が走る。
見上げると、マリーが僕を見下ろしていた。
ゴミを見るような目だ。
『新人類……? ふん、小賢しい進化をした猿ね』
彼女の手が、怪しく発光する。
「やめろ……マリー!!」
半壊したブルーエクレールのコクピットから、ヴィオラが這い出してきた。
彼女の左腕はもげ、オイルを垂れ流しながら、それでも僕の方へ手を伸ばしている。
「私を殺せ……! 私が相手だ!
アルには……その子には手を出すなァァァ!!」
30年前、ナンシーを守れなかった絶望。
それが再び繰り返されようとしている。
マリーはヴィオラを一瞥し、ニヤリと笑った。
ヴィオラと同じ顔で、最も残酷な笑みを浮かべた。
『嫌よ。
あなたが一番絶望する顔……見てみたいもの』
マリーの手が振り下ろされた。
ズプッ。
鈍い音がした。
僕の腹部に、熱い衝撃が走った。
マリーの素手が、僕の腹を貫通していた。
「あ……が……っ」
口から大量の血が溢れ出した。
視界が赤く染まる。
焼けるような痛み。内臓が焼かれる感覚。
「アル……!? アルゥゥゥゥゥッ!!」
ヴィオラの絶叫が響いた。
彼女は目を見開き、凍りついたように動かなくなった。
目の前で、最愛の息子が貫かれた。
30年前の悪夢の再来。
彼女の精神は、その衝撃に耐えきれなかった。
プツン。
ヴィオラの瞳から光が消え、彼女はその場に崩れ落ちた。
過負荷による、強制的な機能停止。
僕の意識が遠のいていく。
寒い。暗い。
マリーが僕の身体から手を引き抜いた。
僕はボロ雑巾のように地面に転がった。
『……あら。壊れちゃった』
マリーは倒れたヴィオラを見て、つまらなそうに鼻を鳴らした。
『もっと泣き叫ぶかと思ったのに。
……興醒めね。もういいわ』
彼女は血に濡れた手を振ると、興味を失ったように空を見上げた。
ふわりと身体が浮き上がる。
彼女は重力さえも操り、そのまま黒雲の彼方へと飛び去っていった。
僕たちにとどめを刺す価値すらないと判断したのだ。
静寂が戻る。
毒の雨が、僕の顔に降り注ぐ。
(死ぬ……のか……?)
腹に開いた風穴。
普通なら即死だ。
意識が闇に溶けていく。
でも……。
(嫌だ……)
カオリの笑顔が浮かんだ。
『待ってる』と言った彼女の声。
動かなくなった母さんの姿。
ここで死んだら、誰が母さんを連れて帰るんだ?
誰がカオリを守るんだ?
(死にたくない……!
僕は……守るんだ!!)
心臓の奥底で、何かが弾けた。
熱い。
腹の傷が、全身の細胞が、沸騰するように熱くなる。
シュゥゥゥゥゥッ!!
傷口から猛烈な勢いで蒸気が噴き出した。
新人類の細胞。
アダムとイヴから受け継いだ、環境適応と再生の因子が、死の淵で爆発的に覚醒したのだ。
貫かれた内臓が、血管が、筋肉が、恐ろしい速度で再生していく。
失われた血液が再生成され、心臓が力強く鼓動を打つ。
「はっ……はぁっ……!」
僕は目を見開いた。
痛みが引いていく。力が漲ってくる。
僕は地面に手をつき、身体を起こした。
腹を見下ろすと、そこには傷跡一つ残っていなかった。破れた服の隙間から、湯気立つ肌が見えるだけだ。
「……生きてる」
僕は自分の手を見つめた。
これが、僕の力……?
感傷に浸っている場合じゃない。
僕は立ち上がり、倒れているヴィオラのもとへ走った。
「母さん!母さん!」
反応がない。
完全に機能停止している。でも、コアはまだ生きているはずだ。
早く持ち帰って、レベッカに修理してもらわなきゃいけない。
少し離れた場所で、ボビーたちの輸送車も横転していた。
衝撃波でやられたようだ。中の二人は気絶しているが、命に別状はなさそうだ。
「……帰るんだ」
僕は中破した『ブルーエクレール』のコクピットをこじ開け、ヴィオラを抱きかかえてシートに固定した。
そして自分も乗り込む。
狭いコクピットで、動かない母の身体を抱きしめながら、操縦桿を握った。
メインシステムは生きている。
片腕はなく、装甲もボロボロだが、飛べる。
「動いてくれ……ブルーエクレール!」
僕の叫びに呼応するように、蒼い巨人が身震いし、スラスターに火が入った。
僕は輸送車を牽引ワイヤーで繋ぎ、空へと舞い上がった。
眼下には、悪意の墓標であるクレーターが広がっている。
マリー。
不老不死の魔女。
圧倒的な絶望。
でも、僕は生き残った。
「次は……負けない」
僕は血の味がする口の中で誓った。
強くなる。あんな化け物さえも凌駕するほどに。
大切な家族を、二度とあんな目に遭わせないために。
傷だらけの帰還。
しかしそれは、アルが本当の意味で「新人類」として、そして「守護者」として覚醒した始まりの瞬間でもあった。




