第26章【ネオンの闇と沈黙の少女(Darkness of Neon and the Silent Girl)】
巨大な防爆ゲートが重苦しい駆動音を立てて開き、プシューッという減圧音と共に、地下都市特有の空気が流れ込んできた。
それは、消毒液と機械油、そして微かな湿気が混じり合った独特の匂いだった。
数日前まで、鉄屑市の乾いた砂埃とスパイスの香りに包まれていた僕の肺が、その空気を吸い込んで小さく震えた。
帰ってきた。
僕が生まれ、育った場所。
鋼鉄の天井と、迷路のような配管に囲まれた、太陽の届かない街。
以前の僕なら、この閉塞感に少しだけ溜息をついていただろう。
けれど、今は違った。
バイクの後部座席から降り立ち、ヘルメットを脱いだ僕は、その空気を胸いっぱいに吸い込み、どこか安堵に近い温かさを感じていた。
「……到着だ。荷を下ろすぞ」
ヴィオラがバイクのエンジンを切り、スタンドを立てながら言った。
その声の響きも、荒野で聞いていた張り詰めたものとは違い、どこか力が抜けている。
僕たちは整備ドックの駐機場にいた。
交易隊のトラックも次々と入庫し、搬入作業員たちの活気ある声が響いている。
その時だった。
「アルちゃぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
ドックの奥から、けたたましい叫び声と共に、白と黒の影が弾丸のように飛んできた。
TYPE.M-22749、通称M。
僕の姉であり、家政婦であり、そして過保護すぎる保護者の一人だ。
「わっ、M!?」
僕が身構える暇もなく、Mは強烈なタックル気味の抱擁で僕を捕まえた。
彼女の豊満な胸部装甲に顔が埋まり、息が止まりそうになる。
「無事でしたか!? 怪我はないですか!?
あああ、よかったぁ! アルちゃんがいない数日間、私、心配で心配で回路がショートするかと思いましたよぉ!」
Mは僕の頬を両手で挟み、至近距離で顔中をスキャンするように見つめてくる。
その瞳には涙のような潤滑液が溜まっていた。
「苦しいよ、M……。ただいま」
「おかえりなさいぃぃ! 痩せちゃってませんか? 変なもの食べてお腹壊してませんか?
今夜は特製ハンバーグですからね! 栄養満点ですよ!」
彼女の過剰な愛情表現に苦笑いしつつも、僕は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
鉄屑市でのマリアさんの抱擁は、聖母のような柔らかさと神秘性に満ちていた。
対してMの抱擁は、騒がしくて、ちょっと強引で、でも最高に「家族」の匂いがする。
「おいおい、泣くなよポンコツメイド。
アルが窒息死したらどうすんだ」
呆れたような声と共に、工具箱を持った女性型アンドロイドが歩いてきた。
短く刈り込んだ髪に、オイルで汚れたツナギ姿。
TYPE.E-44475、レベッカだ。
「レベッカ! ただいま!」
「おう。おかえり、チビ。
……ん? 少し見ない間に、いい面構えになったじゃねーか」
レベッカは僕の二の腕をガシッと掴み、ニヤリと笑った。
「筋肉の付き方が変わったな。荒野の風に揉まれて、少しは男らしくなったか?
ま、まだまだヒヨッ子だけどな」
彼女なりの褒め言葉だ。
僕は嬉しくなって、胸を張った。
「ヒヨッ子じゃないよ。今回はちゃんと任務もこなしたし、野盗だって追い払ったんだから!」
「はいはい。その武勇伝は、後で整備しながらたっぷり聞いてやるよ」
レベッカは僕の頭をクシャクシャと撫で回した。
その手は金属製で硬いけれど、仲間としての信頼がこもっていた。
「やれやれ。騒がしい出迎えだな」
白衣を羽織った長身の男性型アンドロイドが、電子タバコを吹かしながら現れた。
医者のボビーだ。
彼はその鋭い眼光で僕を一瞥すると、フッと口元を緩めた。
「バイタルは正常。精神状態も安定。……むしろ、以前よりコアが太くなった印象だな。
どうやら、ただのお守り役で終わったわけじゃなさそうだ」
「ボビー先生! ……うん、色々あったんだ」
「だろうな。顔を見れば分かる。
……ガキの成長ってのは、俺たちのOSアップデートより劇的で面白えや」
ボビーはヴィオラの方へ視線を向けた。
「お疲れさん、ヴィオラ。
土産話は極上のオイルでも飲みながら聞かせてもらうぜ」
「ああ。……そうさせてもらう」
ヴィオラは短く答え、僕たち「家族」のやり取りを少し離れた場所から見ていた。
その表情は、鉄屑市で見せたような柔らかなものではなく、いつもの無愛想なものに戻っていたけれど、その瞳の奥には確かな安らぎの色があった。
(ここが、僕の家だ)
僕は改めて思った。
マリアさんのいる教会は、憧れの場所であり、いつか帰るべき約束の地だ。
けれど、この地下都市の、オイルと喧騒にまみれたこの場所こそが、今の僕を支えてくれている「ホーム」なんだ。
その夜、ヴィオラの宿舎では盛大な「お帰りなさいパーティー」が開かれた。
Mが腕によりをかけた合成肉のハンバーグや、レベッカがどこかから調達してきた貴重な生野菜のサラダがテーブルに並ぶ。
みんなで食卓を囲み、僕の鉄屑市での冒険談を聞きながら、笑い声が絶えない夜が更けていった。
冷たい地下都市なんて嘘だ。
ここには、世界中のどこよりも温かい熱源、ハートがある。
翌日から、日常が戻ってきた。
しかし、それは以前と同じ日常ではなかった。
変わったのは僕だ。
地下訓練場。
コンクリートの壁に囲まれた無機質な空間で、僕はヴィオラと対峙していた。
「……行くぞ、アル!」
ヴィオラが叫ぶと同時に、彼女の蹴りが繰り出される。
アンドロイド特有の、人間には視認すら困難な高速機動。
以前の僕なら、反応すらできずに吹き飛ばされていただろう。
だが、今の僕は違う。
(見える……!)
マリアさんを守るという決意。荒野での実戦経験。
それらが僕の感覚を研ぎ澄ませていた。
僕はバックステップで蹴りの風圧を躱すと、壁を蹴って立体的に跳躍した。
ヴィオラの死角へ回り込み、訓練用のナイフを振るう。
ガキンッ!
僕のナイフは、ヴィオラの腕甲によって防がれた。
けれど、彼女の表情に微かな驚きが浮かんだのを、僕は見逃さなかった。
「……いい動きだ」
ヴィオラは構えを解き、息を整える僕を見た。
「以前のように、ただ私の動きを真似るだけじゃない。
相手の思考を読み、環境を利用し、自分のリーチで戦おうとしている。
……マリアとの約束が、お前を強くしたか」
「うん。……守りたいものが増えたから。
マリアさんも、この街も、そしてヴィオラたちのことも」
僕は汗を拭いながら答えた。
ヴィオラは一瞬目を見開き、それからフッと小さく笑った。
「生意気になったな。
……だが、悪くない」
その言葉は、どんな勲章よりも僕を誇らしくさせた。
僕はここで強くなる。
大切な家族と、愛しい人を守れる、本物の男になるために。
平穏な日々は、そう長くは続かなかった。
帰還から一週間後。
僕とヴィオラは、再び地下管制室へと呼び出された。
管制室の巨大モニターの前で、ミリンダ司令官が渋い顔をして待っていた。
彼女は挨拶もそこそこに、一枚のデータを空中に投影した。
「休憩中のところすまないが、新たな任務だ。
……この薬を知っているか?」
映し出されたのは、真っ赤な液体が入ったアンプル瓶の画像だった。
ラベルには、毒々しい蜘蛛のマークが描かれている。
「『レッド・スパイダー』。
最近、地下都市の歓楽街(第9区画)を中心に、急速に出回っている違法薬物だ」
「滋養強壮剤……という触れ込みか?」
ヴィオラが問う。
「表向きはな。人間には一時的な筋力増強と多幸感を、アンドロイドには感覚センサーの感度過敏化をもたらす。
だが、副作用が酷い。
服用者は次第に精神に異常を来し、凶暴化する。先週だけで、薬物中毒者による傷害事件が10件以上起きている」
ミリンダは画像を切り替えた。
路地裏で暴れる男の映像。その目は血走り、常人離れした力で鉄パイプを曲げている。
「このままでは街の治安が崩壊する。
出所を突き止め、流通ルートを断て。
……ただし、相手は闇社会の住人だ。正規の警備隊が動けば、すぐに証拠を隠して潜るだろう」
「つまり、潜入捜査か」
ヴィオラが了解したように頷く。
「そうだ。顔の割れていない者、あるいは裏社会に精通した者が適任だ。
ヴィオラ、お前とアル。
それに加えて、今回は特別顧問としてボビー、サポートとしてMを同行させる」
「えっ、Mとボビーも?」
僕が驚いて声を上げると、入り口から二人が入ってきた。
ボビーはいつもの白衣ではなく、仕立ての良い黒いコートを着込み、怪しげなサングラスをかけている。
Mは……なぜか露出度の高いバニーガールの衣装を着ようとして、レベッカに止められて普段着になっていた。
「へへっ、久しぶりの現場仕事だ。腕が鳴るぜ」
ボビーがニヤリと笑う。
「アルちゃんを守るためなら、たとえ火の中、歓楽街の中ですぅ!」
Mが鼻息荒く宣言する。
「……というわけだ。
第9区画は欲望の掃き溜めだ。アルには刺激が強すぎるかもしれんが……」
ミリンダが心配そうに僕を見た。
僕は拳を握りしめた。
「大丈夫です。
街を守るためなら、どんな場所だって行きます」
「よし。頼んだぞ」
こうして、僕たち「ヴィオラ・ファミリー」による、特務捜査班が結成された。
地下都市・第9区画。通称「ネオン・ネスト」。
そこは、僕たちの住む居住区とは全く違う世界だった。
重厚な隔壁を抜けた瞬間、視界を埋め尽くしたのは、目が痛くなるほどの極彩色のネオンサインだった。
『極楽オイル風呂』『サイバー・カジノ』『夢見の館』。
猥雑な文字が明滅し、人工的な霧が路地を漂っている。
空気は甘ったるい香水と、焦げた電子回路の臭いで満ちていた。
通りを行き交うのは、派手に改造されたアンドロイドや、酩酊したような足取りの人間たち。
大音量の電子音楽が、地面を振動させている。
「うわぁ……」
僕は圧倒されて、思わずヴィオラのジャケットの裾を掴んだ。
鉄屑市の市場は「生命力」に溢れていたけれど、ここはもっとドロドロとした「欲望」が渦巻いている感じがする。
「……離れるなよ、アル。
ここは迷子になったら、二度と戻ってこられない場所だ」
ヴィオラが低い声で警告した。彼女もまた、目立たないようにフードを深く被っている。
「さてと、まずは情報収集だな。
こっちの世界は俺の庭みたいなもんだ。ついてきな」
ボビーが慣れた足取りで先導する。
Mは「ひ、破廉恥です! アルちゃん、見ちゃダメです!」と僕の目を覆おうとするが、僕はそれをそっと外した。
見なきゃいけない。
これが、僕たちが守ろうとしている街の、もう一つの顔なんだから。
僕たちは、ネオンの洪水の中へと足を踏み入れた。
その光の影に、悲しい沈黙を抱えた少女が待っているとも知らずに。
極彩色のネオンが明滅する第9区画、通称「ネオン・ネスト」。
大音量のビートが地面を震わせ、紫煙と人工香料の霧が立ち込めるこの街は、地下都市の管理社会からこぼれ落ちた欲望の受け皿だった。
「これはいけないねぇ、実にいけない」
先頭を歩くボビーが、派手なサングラスの奥のセンサーアイを光らせながら、大げさに首を振った。
彼は仕立ての良い、しかし蛍光色を散りばめたファンキーなロングコートを翻し、正規の医師IDタグをネックレスのようにジャラつかせている。
「見てみな、あの路地でうずくまってる男。瞳孔散大、体温異常上昇、筋肉の痙攣……典型的な薬物過剰摂取だ。
医者として、そして生命を愛するType.Mとして、あんな粗悪品で体を壊すなんて美学に反するね」
ボビーは正規の医師だ。
その腕は確かで、地下都市の医療局にも籍を置いているが、その奇抜なファッションのせいで変人ドクターとして有名だった。しかし、この歓楽街においては、その派手さが逆によく馴染んでいる。
「ボビー、感度はどうだ?」
フードを目深に被ったヴィオラが尋ねる。
ボビーは指先から細いアンテナを伸ばし、空気を採取した。
「ビンビン来てるぜぇ。
『レッド・スパイダー』特有の化学成分……微量だが、換気ダクトから漏れ出てる。
風上は……あっちだ。第3倉庫街の裏手」
ボビーが指差した先は、ネオンの光が届かない、漆黒の闇に包まれた区画だった。
僕たちは頷き合い、喧騒を離れて路地裏へと足を踏み入れた。
光が遠ざかるにつれ、空気は冷たく、淀んでいく。
腐った生ゴミと、錆びた鉄の臭い。
僕は緊張で少しだけ喉が渇くのを感じた。
Mが心配そうに僕の背中に手を添えてくれる。
「アルちゃん、怖くないですか? 私の後ろに隠れていてもいいんですよ?」
「平気だよ、M。……ありがとう」
僕はMの手を握り返し、前を見据えた。
鉄屑市での経験が、僕に勇気をくれている。僕はもう、ただ守られるだけの子供じゃない。
倉庫街の奥まった場所。
廃棄されたコンテナが積み上げられた広場で、僕たちは足を止めた。
物陰に身を潜め、様子を窺う。
数人の男たちがいた。
全身を安っぽいサイバネティクスで改造したゴロツキたちだ。彼らの中心には、アルミケースを持った小太りの男、おそらく仲買人がいる。
「……ブツはこれだ。純正の『レッド・スパイダー』。
一瓶で一晩中暴れまわっても疲れない魔法の水だ」
ブローカーがケースを開き、不気味に赤く光るアンプルを見せびらかす。
間違いない。ミリンダ司令官が見せた画像と同じだ。
「よし、商談成立だな。……で、もう一つの『商品』はどうした?」
ゴロツキのリーダー格が尋ねる。
ブローカーは下卑た笑みを浮かべ、指を鳴らした。
「へへっ、お待ちどうさま。
こっちは極上の『生体パーツ』だ。薬の実験台にするもよし、愛玩用にするもよし……希少な天然モノだぜ」
コンテナの陰から、部下が台車を押して現れた。
その上に乗っていたのは、太い鉄格子で囲まれた、動物用の檻だった。
その中身を見た瞬間、僕の全身の血が逆流したような感覚に襲われた。
檻の中にいたのは、僕と同じくらいの年齢の、人間の少女だった。
ボロボロの衣服。泥と煤で汚れた手足。
黒い髪は乱れ、痩せこけた体は小刻みに震えている。
彼女は首輪を嵌められ、鎖で檻に繋がれていた。
「……!」
声が出そうになるのを必死で飲み込む。
隣でヴィオラの殺気が膨れ上がるのを感じた。
「おいおい、痩せっぽちだな。ちゃんとエサやってんのか?」
「抵抗しないように薬で弱らせてるんだよ。
声帯も弄ってあるから、叫ばれる心配もねえ。使い勝手は最高だ」
男たちは少女を、まるで肉屋の商品のように値踏みし、檻を棒で叩いて脅している。
少女は悲鳴も上げず、ただ膝を抱えて、絶望に塗りつぶされた瞳で地面を見つめていた。
人間を。
心を持った同じ人間を、モノとして扱う。
鉄屑市で見た、あの温かい交流とは対極にある、吐き気を催すほどの悪意。
許せない。
僕の中で、何かが弾けた。
ヴィオラの「待て」という合図を待つ余裕なんてなかった。
「……っざけんなァッ!!」
僕は物陰から飛び出した。
壁を蹴り、コンテナの上へと駆け上がる。
「あぁ!? なんだガキ!」
ゴロツキたちが振り向くのと、僕が空中でハンドガンを抜くのは同時だった。
パン! パン!
乾いた発砲音が二つ。
檻の鍵を持っていた男の手首と、ブローカーの足元を正確に撃ち抜く。
「ぐあぁっ!」
「人間を……モノ扱いするなッ!」
僕はコンテナから飛び降り、回転しながら着地した。
その目の前には、十人近い武装した男たち。
多勢に無勢。普通なら自殺行為だ。
でも、僕の後ろには「最強の家族」がいる。
「まったく……。飛び出すなと教えたはずだが」
溜息混じりの声と共に、蒼い旋風が巻き起こった。
ヴィオラだ。
彼女は僕の前に滑り込むと、驚異的な速度でリーダー格の懐に入り込み、そのボディに掌底を叩き込んだ。
ズドンッ!
大柄なサイボーグが、紙切れのように吹き飛んで壁に激突する。
「ま、アルちゃんにしては上出来な突入でしたよ!
悪い人たちには、お仕置きですぅ!」
Mがエプロンのポケットから大量のメスを取り出し、扇のように展開して投げ放つ。
シュシュシュッ!
男たちの銃口や関節部分に正確に突き刺さり、武器を無力化していく。
「ヒィィッ! S型にM型!? なんだこのデタラメな構成は!」
「おっと、忘れちゃ困るぜ。この天才ドクター・ボビー様をな!」
ボビーがコートを広げると、内蔵されたスピーカーから不快な高周波ノイズが放たれた。
キィィィィィン!!
人間には聞こえないが、聴覚センサーを持つサイボーグたちが頭を抱えてのたうち回る。
「さて、アル。お前の獲物は?」
ヴィオラが背中合わせに立って尋ねる。
「あの子を助ける!」
僕は檻に向かって走った。
残ったゴロツキがナイフを構えて立ちはだかる。
「クソガキが! 商品に触るな!」
ナイフが振り下ろされる。
僕はそれをギリギリで見切り、スライディングで相手の股下をくぐり抜けた。
そのまま立ち上がりざまに、相手の膝裏を蹴り抜く。
「ぐっ!?」
体勢を崩した相手の首に、手刀を叩き込んで気絶させる。
マリアさんとの約束。
『守れる男になる』。
その力が、今ここにある!
僕は檻の前に滑り込んだ。
鍵は壊されている。
僕は鉄格子をこじ開け、中に手を伸ばした。
少女は、僕を見ても反応しなかった。
ただ怯え、身体を小さくして、来るはずのない痛みに身構えている。
その姿が、あまりにも痛々しくて、僕は胸が張り裂けそうになった。
「……大丈夫だよ」
僕は精一杯、優しい声を出した。マリアさんが僕にしてくれたように。
「怖くない。僕も人間だ。君と同じだ」
僕は手袋を外し、生身の手を見せた。
少女の虚ろな瞳が、ゆっくりと僕の手、そして顔へと向けられる。
そこには、深い絶望と、ほんのわずかな困惑の色があった。
「助けに来たんだ。……さあ、ここから出よう」
僕がさらに手を伸ばすと、少女はビクリと震えたが、逃げようとはしなかった。
彼女の痩せた手が、躊躇いながら、ゆっくりと僕の手に向かって伸びてくる。
その指先に触れた瞬間、彼女の体温が伝わってきた。
冷たい。でも、確かに生きている。
僕は彼女の手をしっかりと握りしめた。
もう絶対に、離さないと誓うように。
ゴロツキたちを全員のして、薬のアンプルを回収した後、僕たちは急いで現場を離れた。
行き先は、第5区画にあるボビーの診療所だ。
正規の医療施設でありながら、彼の趣味で改造されたそこは、隠れ家としても優秀だった。
診療所の処置室。
白を基調としつつも、壁にはサイケデリックなアートが描かれ、BGMにはジャズがかかっている独特な空間。
そのベッドに、救出した少女、カオリを座らせた。
「……身体的な外傷は、打撲と栄養失調。それから脱水症状だね。
命に別状はないが、相当ひどい扱いを受けていたようだ」
ボビーが診断用スキャナを片手に、眉をひそめて言った。
正規の医師としての彼の顔は、真剣そのものだ。
「問題なのは精神面と……喉だ。
声帯に化学的な炎症が見られる。おそらく、大声を上げられないように薬を使ったんだろう。
治療すれば治るが、今は声が出せない状態だ」
声が出せない。
カオリはベッドの上で膝を抱え、借りたタオルケットにくるまって震えていた。
Mが用意した温かいスープや着替えにも、手をつけようとしない。
警戒心が解けていないのだ。無理もない。大人たちに酷い目に遭わされた直後なのだから。
「……私がやりましょうか?」
Mが心配そうに近づこうとしたが、カオリはビクッと身を引いた。
アンドロイド特有の駆動音や、大きな身体が怖いのかもしれない。
「僕がやるよ」
僕は言った。
この中で、唯一の子供で、同じ人間である僕なら。
僕は椅子を持ってきて、ベッドの脇に座った。
目線の高さを彼女より低くする。
これも、鉄屑市でマリアさんが子供たちと接する時にしていたことだ。
「……君の名前、カオリって言うんだね。所持品に書いてあったよ」
僕は穏やかに語りかけた。
彼女は反応しない。ただ、視線だけが僕を追っている。
「僕はアル。こっちはM、レベッカ、ボビー、そしてヴィオラ。
みんな僕の家族で、……ちょっと変わってるけど、悪い人たちじゃないよ」
僕はスープのカップを手に取り、ふーふーと息を吹きかけて冷ました。
「お腹、空いてるでしょ?
これ、Mの特製スープなんだ。すっごく美味しいよ。
毒なんて入ってない。ほら」
僕はスプーンで一口すくって、自分で飲んでみせた。
そして、新しいスプーンを彼女に差し出す。
「……食べて。
食べないと、元気が出ないから」
カオリの瞳が揺れた。
彼女は僕の顔と、スープを交互に見て、それから恐る恐る口を開いた。
スプーンが唇に触れる。
温かい液体が口の中に広がる。
その瞬間、彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
ポロポロと、堰を切ったように。
味への感動か、それとも安心したからか。
彼女は震える手で僕の袖を掴み、音のない声で泣き出した。
僕はスプーンを置き、彼女の背中をさすった。
骨が浮き出るほど痩せた背中。
彼女がどんな恐怖に耐えてきたのか、想像するだけで胸が苦しい。
(守らなきゃ)
鉄屑市でマリアさんに誓った言葉が蘇る。
『騎士様』。
僕はまだ本当の騎士じゃないけれど、目の前の震える女の子一人くらい、絶対に守ってみせる。
しばらくして、カオリが泣き止み、スープを半分ほど飲んだ頃。
ボビーが分析機の前から声を上げた。
「……おい、ヴィオラ。ちょっとこっちへ来てくれ。
妙なことが分かったぞ」
空気の色が変わる。
僕もカオリに「待っててね」と声をかけ、ボビーの方へ向かった。
モニターには、複雑な化学式と、カオリが持っていたロケットペンダントの中の写真、優しそうな両親と幼いカオリが映っていた。
「この子の服に付着していた化学物質と、ロケットの中から見つかったデータチップ。
これを解析して繋ぎ合わせた結果……とんでもない事実が出てきやがった」
ボビーは電子タバコを指で回しながら、低い声で告げた。
「この子の両親は、例の薬『レッド・スパイダー』の開発に関わっていた研究者だ。
……正確には、『関わらされていた』と言うべきか」
「どういうことだ?」
ヴィオラが腕組みをして問う。
「『レッド・スパイダー』のベースになっているのは、大戦中に使われた兵士用の興奮剤だ。
両親はその副作用を消すための『中和剤』の研究をしていたらしい。
だが、スポンサーである闇組織は、副作用(凶暴化)こそを商品価値と見なした。
……開発を拒否した両親は消され、娘のカオリは口封じと、残ったデータの鍵としてさらわれたってわけだ」
ドンッ!
僕は思わず壁を叩いていた。
「……ひどすぎる」
自分の利益のために、罪のない研究者を殺し、その子供まで……。
この薬が出回れば、街の人々が凶暴化し、さらに多くの悲劇が生まれる。
そしてカオリは、その地獄の中で、たった一人で耐えていたんだ。
ベッドの方を見ると、カオリが不安そうにこちらを見ていた。
彼女は何も言えない。助けを呼ぶことも、怒りを叫ぶことも封じられている。
彼女の沈黙は、この街の闇の深さそのものだ。
「ヴィオラ」
僕はヴィオラを見上げた。
彼女もまた、静かだが激しい怒りを瞳に宿していた。
「……ああ、分かっている」
ヴィオラは腰のホルスターに手を当てた。
「害虫駆除の時間だ。
街を汚し、子供の未来を奪うクズどもには……私達流の教育が必要だな」
僕は頷いた。
マリアさんの優しさは、弱きを助ける心。
そしてヴィオラの強さは、悪を挫く力。
その二つを持って、僕は戦う。
カオリの沈黙を破り、彼女に笑顔を取り戻させるために。
ネオンの闇に潜む巨悪との戦いが、今始まろうとしていた。




