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第25章【再会のおまじない(Spell for Reunion)】



 鉄屑市スクラップ・マーケットの朝は、地下都市のそれとはまるで違っていた。

 地下では、換気ファンが唸りを上げ、人工太陽灯が機械的に明滅することで朝が告げられる。そこにあるのは管理された秩序と、冷たい金属の静寂だ。

 だが、ここは違う。

 太陽が荒野の地平線から顔を出し、錆びついた摩天楼を赤く染め上げた瞬間、街全体が巨大な生物のように目を覚ますのだ。

 ガガガガッ! キィィィン!

 無数の工場が一斉に稼働し、蒸気の汽笛が空気を震わせる。

 路地裏からはスパイスを焦がしたような強烈な匂いと、オイルの甘い香りが漂い出し、通りには義体化した人々や、塗装の剥げたアンドロイドたちが溢れ出す。

 僕は、交易隊が駐留している広場のテントから顔を出し、その極彩色の混沌を眩しそうに見上げた。

 今日で滞在三日目になる。

 商談と物資の搬入にはまだ時間がかかるらしい。つまり、今日も僕は「自由」だ。

「……すごいなぁ」

 僕は大きく深呼吸をした。肺に入ってくる空気すら、地下とは味が違う。少し砂っぽくて、鉄の味がして、そして何より自由の味がする。

 ヴィオラは既に起きていて、愛機バイクの整備をしていた。

 彼女はオイルで汚れたウエスで指先を拭きながら、僕に視線を投げた。

「おはよう、アル。……今日も出かけるのか?」

「うん! 教会のみんなと約束があるんだ。あと、市場のオヤジさんが面白いパーツを見せてくれるって!」

 僕は弾んだ声で答えた。

 ヴィオラは呆れたように、しかしどこか優しげに肩をすくめた。

「精が出るな。……行ってこい。ただし、夕刻の点呼までには戻れ。

 それと、変なものは食べないように。ここの屋台の食材は、周期表のどこにあるか分からない物質が含まれていることがある」

「分かってるよ! 行ってきます!」

 僕は手を振って、駐留地を飛び出した。

 メインストリートに出ると、そこはもうお祭りのような騒ぎだった。

 道の両脇には、所狭しと露店が並んでいる。

 地下都市のマーケットは整然としていて実用的だが、ここは混沌そのものだ。

 旧時代の音楽プレイヤー、片方だけの義手、得体の知れない生物の干物、七色に光る液体が入ったボトル……。

 ガラクタなのかお宝なのか分からない品々が、山のように積まれている。

「よう! 小さな騎士様! 今日も元気だな!」

 声をかけてきたのは、半身が重機と融合している巨漢の店主、ガラクタ屋のボグズさんだ。

 彼は初日に僕がヴィオラと一緒に歩いていたのを見て以来、僕のことを面白がってくれている。

「おはよう、ボグズさん! 今日はどんな掘り出し物があるの?」

「へへっ、よくぞ聞いてくれた!

 見ろよこれ。大戦前の『ゲーム機』ってやつだ。

 電源は入らねぇが、ボタンを押した時の感触が最高だぜぇ?」

 彼が差し出したのは、プラスチックの塊だった。

 僕はそれを手に取り、カチャカチャとボタンを押してみた。

 確かに、心地よいクリック感がある。

 地下都市では、こんな役に立たないものは見向きもされない。全ては効率と生存のために最適化されているからだ。

 でも、ここには無駄が溢れている。そして、その無駄がなんだかとても愛おしく思えるのだ。

「いい音だろ? おまけしてやるよ、リンゴ一個分でどうだ?」

「うーん、今日はいいや。マリアさんにお花を持っていく約束だから」

「おっと、シスターへのプレゼントか! そりゃあ優先しなきゃな。

 マリア様には俺たちも頭が上がらねぇ。この街の良心だからな」

 ボグズさんは豪快に笑って、僕の背中をバンと叩いた。

 その手のひらは金属だったけれど、不思議と痛くはなかった。

 僕は市場を練り歩きながら、様々なものを見た。

 大道芸をする旧式ドロイド。その周りで歓声を上げる子供たち。

 怪しげなスープを啜る傭兵風の男たち。

 みんな、明日の命も知れない荒野の住人だ。

 でも、いや、だからこそ、彼らは「今」を全力で楽しんでいるように見えた。

 (生きるって、ただ死なないことだけじゃないんだ)

 僕は、ヴィオラから叩き込まれた「生存こそ最優先」という教えと、目の前の光景を重ね合わせ、その隙間にある何かを感じ取っていた。

 ヴィオラの教えは正しい。でも、それだけじゃ足りない。

 笑ったり、無駄話をしたり、誰かとガラクタを自慢しあったり……そういう時間が、心を豊かにしてくれるんだ。

 ふと、視線を感じて振り返った。

 遥か後方、駐留地の給水塔の上に、蒼い影が見えた。

 ヴィオラだ。

 彼女は高い場所から、双眼鏡も使わずに僕のことを見守っている。

 監視されているような窮屈さはなかった。

 その佇まいは、まるで初めて公園で遊ぶ子供を見守る母親のように、静かで、穏やかなものだったからだ。

 僕は彼女に向かって大きく手を振った。

 ヴィオラは一瞬驚いたように動きを止め、それから、ほんの少しだけ手を振り返してくれた。

 それだけで、僕は無敵になったような気がした。

 母さんが見守ってくれている。

 そして、前には大好きな人が待っている。

 僕はポケットに入れたきれいな小石を握りしめ、丘の上へと続く階段を駆け上がった。


 鉄屑市の喧騒を背に、長い鉄階段を登りきると、世界は一変する。

 オイルとスパイスの匂いは、風と草花の香りに変わり、金属音のノイズは、鳥のさえずりと風の音にかき消される。

 丘の上の教会跡地。

 崩れかけた石壁に囲まれたその場所は、僕にとっての「聖域」になっていた。

「アルお兄ちゃんが来たー!!」

 錆びついた鉄柵の門をくぐると、すぐに歓声が上がった。

 教会の中庭で遊んでいた孤児たちが、一斉に僕の方へ駆け寄ってくる。

 人間の女の子のミリィ、右足が義足の男の子のケン、そして言葉は話せないけれど感情豊かな小型ドロイドのピコ。

 他にも十人近い子供たちが、僕を取り囲んだ。

「お兄ちゃん! 続きやろう! 昨日の続き!」

「今日はボール遊びがいい!」

「僕、すごい石見つけたんだよ! 見て!」

 みんなが口々に話しかけてくる。

 僕はリュックを下ろし、笑顔で応えた。

「ようし、順番だ! まずはケンの石を見て、それからミリィの提案でボール遊び、最後にかくれんぼだ。いいか?」

「おーっ!!」

 子供たちは歓声を上げて散らばった。

 僕は彼らにとって、頼れる年上の「お兄ちゃん」であり、外の世界を知っている「ヒーロー」らしい。

 地下都市では、僕は常に「最年少」で「守られる存在」だった。

 でも、ここでは違う。

 誰かを喜ばせたり、リードしたりする役割が、こんなにも心地よいものだとは知らなかった。

 僕たちは廃材を積み上げて作ったゴールに向かって、ボロボロのボールを蹴り合った。

 僕の身体能力は、彼らに比べれば圧倒的だ。

 本気を出せば誰も追いつけない。

 だから僕は、わざとゆっくり走ったり、派手に転んでみせたりして、ゲームを盛り上げた。

 ケンが義足を鳴らして一生懸命走り、僕からボールを奪った時の誇らしげな顔。

 それを見るのが、何よりも嬉しかった。

 一時間ほど遊び回り、みんなが息を切らして木陰で休み始めた頃。

 礼拝堂の方から、涼やかな鐘の音が聞こえた。

 お茶の時間だ。

「あらあら、みんな泥だらけになって。元気ですね」

 トレイを持ったシスター・マリアが現れた。

 黒い修道服の裾を風になびかせ、陽光の中に立つ彼女の姿は、今日も神々しいほどに美しかった。

「マリア様!」

「おやつだー!」

 子供たちが群がる中、マリアさんは僕の方を見て、ふわりと微笑んだ。

「アルさん。あなたも随分と泥んこですね。

 ……ふふ、立派な騎士様も、ここではわんぱくな少年ですね」

 彼女にそう言われると、僕は途端に恥ずかしくなって、泥だらけの手を背中に隠した。

「そ、そんなことないですよ。これは……戦術的迷彩みたいなもので……」

「まあ、そういうことにしておきましょうか」

 彼女は悪戯っぽく笑い、僕を手招きした。

 中庭の片隅にある、マリアさん専用のベンチ。

 そこが、僕たちの特等席だった。

 子供たちがクッキーを頬張っている間、僕はマリアさんの隣に座り、ハーブティーをいただいた。

 温かい湯気が、運動した後の体に染み渡る。

「……今日は、どんな冒険をしてきたのですか?」

 マリアさんが尋ねる。

 僕は市場で見たもののこと、ボグズさんのこと、そして地下都市での訓練のことを話した。

 彼女はいつも、僕の話を真剣に聞いてくれる。

 ヴィオラのように「それは非効率だ」とか「判断が甘い」なんて言わない。

 ただ、「それは素敵ですね」とか「大変でしたね」と、僕の感情に寄り添ってくれるのだ。

「あのね、マリアさん」

 僕は少し躊躇いながら、ずっと胸につかえていたことを口にした。

「僕、ヴィオラの実の子供じゃないんです。

 本当の両親は、アダムとイヴっていう……もう死んじゃった人たちで」

 マリアさんは静かに頷いた。

「ええ。ヴィオラさんから聞いています。彼女の大切な友人だったと」

「……僕、時々不安になるんです。

 僕は本当にヴィオラの家族なのかなって。

 ただの『任務』で、仕方なく育てられてるんじゃないかって。

 だから、早く強くならなきゃいけないって、ずっと思ってて……」

 これは、ヴィオラ本人には言えなかった本音だ。

 でも、マリアさんには言えた。彼女の纏う空気が、僕の心の鎧を溶かしてしまうからだ。

 マリアさんはカップを置き、そっと僕の頭を引き寄せた。

 彼女の膝の上に、僕の頭が乗る。

 膝枕。

 修道服の滑らかな感触と、彼女の体温が頬に伝わる。

「アルさん。……自分を疑うのはおよしなさい」

 彼女の手が、僕の髪を優しく梳く。

「血の繋がりなんて、魂の結びつきの前では些細なことです。

 ヴィオラさんがあなたを見る目を見ましたか?

 あの方が、ただの任務のために、あんなに切なく、愛おしそうな目で誰かを見ると思いますか?」

「……」

「あなたは愛されています。ヴィオラさんにも、そして私にも。

 アダムとイヴというご両親がどんな方だったかは、私は存じ上げません。

 でも、あなたがこうして優しく、強い心を持って育ったこと……それが、ご両親の愛の何よりの証明ですよ」

 彼女の言葉は、魔法のように僕の不安を消し去ってくれた。

 マリアさんは僕の出自を知らない。だからこそ、彼女の言葉には何のバイアスもない。

 ただの「僕」という存在を、丸ごと肯定してくれる。

 僕は彼女の膝の上で、ぼんやりと空を見上げた。

 青い空に、白い雲が流れていく。

 マリアさんの顔が逆さまに見える。長い睫毛、透き通るような瞳。

 心臓が、痛いくらいに高鳴っていた。

 (帰りたくない)

 強烈な想いが込み上げてきた。

 地下都市に戻れば、また暗い天井の下、厳しい訓練の日々だ。

 ここには太陽があり、友達がいて、そしてマリアさんがいる。

 ずっとこのまま、彼女の膝の上で微睡んでいたい。

 彼女の匂いに包まれて、時が止まればいいのに。

 これは甘えだろうか。弱さだろうか。

 でも、僕の中の「男の子」の部分が、理屈抜きで彼女を求めていた。

 「……マリアさん」

 「はい?」

 「……なんでもないです」

 好きです、なんて言えなかった。

 言ったら、この魔法が解けてしまいそうで。

 僕はただ、彼女の手の温もりを記憶に刻み込むように、目を閉じた。

 この幸せな日々が、あと数日で終わってしまうなんて、信じたくなかった。


鉄屑市での滞在、最終日の夜。

 交易隊の駐留地では、商談の成立と無事な任務終了を祝して、ささやかな宴が開かれていた。

 焚き火がパチパチと爆ぜ、大鍋からは合成肉とスパイスのスープの香りが立ち上っている。

 市場の商人たちも差し入れを持って訪れ、傭兵やアンドロイドたちが笑い合い、酒を酌み交わしている。

 それは、とても温かく、賑やかな光景だった。

 僕もその輪の中にいた。

 ボグズさんがくれた珍しいフルーツを齧りながら、明日もまた教会へ行って、今度は子供たちと探検ごっこをしよう、マリアさんに市場で見つけた綺麗なガラス玉をプレゼントしよう、そんな計画を頭の中で組み立てていた。

 この楽しい日々が、当たり前のように明日も続くと思っていた。

 地下都市の閉塞感も、厳しい訓練の日々も、まるで遠い過去の出来事のように霞んでいた。

 だが、現実は唐突に、冷水を浴びせるように訪れた。

「総員、注目!」

 交易隊長の声が響いた。

 ざわめきが静まり、全員の視線が集まる。

「先ほど、全ての積み込みが完了した。レアメタルの確保量は目標を達成。大戦果だ」

 ワッと歓声が上がる。

 だが、隊長の次の言葉が、僕の時間を凍りつかせた。

「よって、本隊は明朝0600をもって、この鉄屑市を発つ。

 夜明けと共に出発だ。各員、今夜中に装備を点検し、十分な休息を取れ。以上!」

 歓声が拍手に変わり、宴が再開される。

 みんな嬉しそうだ。任務を終えて、故郷へ帰れるのだから。

 でも、僕は動けなかった。

 手にしたフルーツが地面に落ち、泥にまみれた。

「……え?」

 嘘だろ。

 もう帰るの?

 まだ三日しか経っていない。まだ何も終わっていない。

 もっと遊びたい。もっと話したい。もっと……マリアさんのそばにいたい。

「……アル」

 背後から、ヴィオラの声がした。

 振り返ると、彼女はスープの入ったカップを手に、静かに僕を見下ろしていた。

 その瞳は、僕の動揺を全て見透かしているようだった。

「……出発は明日の朝だって」

 僕の声は震えていた。

「うん。聞いたよ。……嫌だ」

 僕は首を横に振った。

「帰りたくない! まだここにいたい!

 地下に戻ったら、またあの日々だ。暗くて、狭くて……ここには太陽がある! 友達がいる!

 どうして帰らなきゃいけないの!?」

 子供じみた我儘だと分かっている。

 僕はヴィオラの部下としてここに来ているのだから。

 でも、理屈では感情を抑えられなかった。

 ヴィオラは溜息をつき、僕の隣に腰を下ろした。

「……ここでの生活は楽しかったか?」

「……うん。すごく」

「そうか。それはよかった」

 彼女は焚き火を見つめながら、ぽつりと言った。

「だが、祭りは終わるからこそ美しいんだ。

 ずっとここにいれば、この極彩色の日常もいつか色あせる。

 それに……お前の居場所はここじゃない」

「どうして決めつけるの! 僕は……!」

「お前は強くなりたいと言ったな」

 ヴィオラが僕の目を真っ直ぐに見た。

 その眼光の鋭さに、僕は言葉を呑んだ。

「マリアを守れる男になりたいと。

 今のまま、ただの子供としてここで遊び暮らして、強くなれるか?

 彼女を守れるだけの力が手に入るか?」

 反論できなかった。

 ここでは平和ボケしてしまう。ヴィオラのような厳しい訓練環境はない。

 ただ楽しく過ごすだけでは、僕はいつまでも守られる子供のままだ。

「……帰るぞ、アル。私達の家に。

 そして強くなれ。いつか胸を張って、自分の足でここに戻って来られるように」

 ヴィオラの手が、僕の肩を強く掴んだ。

 それは命令ではなく、約束の確認だった。

 僕は唇を噛み締め、涙を堪えて頷いた。

 悔しいけれど、彼女の言う通りだ。

 今の僕じゃ、マリアさんの隣に立つ資格なんてない。

「……行ってこい」

 ヴィオラが顎で丘の方をしゃくった。

「え?」

「出発は明朝だ。まだ時間はある。

 一番大切な挨拶が、まだ残っているんだろう?」

 彼女の不器用な優しさに、僕は弾かれたように顔を上げた。

「……うん! 行ってくる!」

 僕は駆け出した。

 夜の帳が下りた鉄屑市の路地を、転げるように走った。

 涙で視界が滲んだけれど、足は止まらなかった。


 息を切らせて丘を駆け上がると、教会は青白い月光に包まれていた。

 夜風が冷たい。

 虫の声だけが響く静寂の中、礼拝堂の崩れた窓から、ほのかな灯りが漏れている。

 僕は錆びついた門を押し開け、中庭へと飛び込んだ。

「マリアさん!」

 大声で叫んだ。

 礼拝堂の扉が開き、ランタンを手にしたマリアさんが現れた。

 寝間着の上にショールを羽織り、長い髪を下ろしている姿は、昼間とは違う儚げな美しさがあった。

「アルさん? どうしたのです、こんな夜更けに……」

 彼女が僕の顔を見た瞬間、その表情が曇った。

 僕がどんな顔をしていたのか、自分では分からない。

 でもきっと、酷い顔をしていたんだと思う。涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、絶望に染まった顔を。

「……明日、帰るんです」

 やっとの思いで絞り出した言葉は、掠れて震えていた。

「夜明けに、出発するんです。

 もう……ここにはいられない」

 マリアさんは目を見開き、それから静かにランタンを足元の石畳に置いた。

 彼女はゆっくりと歩み寄り、膝をついて僕と視線の高さを合わせた。

「そうですか……。お別れなのですね」

 その穏やかな声を聞いた途端、僕の中で何かが決壊した。

「嫌だッ!!」

 僕は彼女の身体に飛びつき、その腰にしがみついた。

 ショールから香る日向の匂い。温かい体温。

 これを手放したくない。失いたくない。

「帰りたくない! 離れたくない!

 地下になんて戻りたくないよ!

 ずっとここにいたい……マリアさんと一緒にいたいんだ!」

 子供のように泣き叫んだ。

 ヴィオラに言われた理屈なんて吹き飛んでしまった。

 ただ、好きだという気持ちと、寂しいという恐怖だけが暴走する。

「僕、いい子にするから! 掃除でも何でもするから!

 だから……お願い、僕を置いていかないで……!」

 マリアさんは何も言わず、僕の背中を優しく撫で続けた。

 僕の涙が彼女のショールを濡らしていく。

 どれくらいそうしていただろうか。

 僕の嗚咽が少し落ち着いてきた頃、マリアさんが静かに口を開いた。

「アルさん。顔を上げて」

 言われて、僕は恐る恐る顔を上げた。

 月明かりに照らされた彼女の瞳は、濡れて光っていたけれど、とても力強かった。

「駄々っ子は、騎士様らしくありませんよ」

 彼女はハンカチを取り出し、僕の涙と鼻水を丁寧に拭ってくれた。

「寂しいと思ってくれるのは嬉しいです。

 私も、あなたが明日からいなくなると思うと、胸が張り裂けそうなくらい寂しい」

「だったら……!」

「でもね、アルさん」

 彼女は僕の言葉を遮り、両手で僕の頬を包み込んだ。

 ひんやりとした掌の感触が、火照った肌に心地いい。

「『さよなら』は、終わりではありません。

 それは、魔法の言葉なのです」

「……魔法?」

「ええ。『再会のおまじない』です」

 彼女は微笑んだ。夜咲きの花が開くような、美しく儚い笑顔だった。

「離れていても、空は繋がっています。

 この月は、地下都市の上の荒野も照らしているでしょう?

 私達は同じ世界で、同じ時を生きている」

「でも、会えない……」

「会えますよ。あなたが望む限り、必ず。

 『さよなら』と言うのは、次に会う時の喜びを大きくするための準備なのです。

 一度離れて、お互いに成長して、そしてまた巡り会う。

 その時、あなたがどれだけ素敵な男性になっているか……私はそれを楽しみに待っています」

 彼女の言葉が、じんわりと心に染み込んでいく。

 終わりじゃない。次がある。

 待っていてくれる人がいる。

 僕は鼻をすすり、涙をゴシゴシと拭った。

 いつまでも泣いてちゃダメだ。

 マリアさんは「騎士様」と言ってくれた。

 僕が彼女に相応しい男になるためには、ここで逃げちゃいけないんだ。

「……約束、してくれますか?」

 僕は震える声で尋ねた。

「僕が強くなって、一人前の男になって戻ってきたら……また、あのお茶を飲ませてくれますか?

 僕のこと、忘れないでいてくれますか?」

 マリアさんは瞳を細め、僕の小指に自分の小指を絡めた。

「ええ、約束します。

 誰があなたのことを忘れられましょうか。

 あなたが戻ってくるその日まで、私は毎日、この丘からあなたの無事を祈り続けます」

「僕も……約束する!

 絶対に戻ってくる。強くなって、マリアさんを守れる男になって!」

 指切り。

 銀色の指と、生身の指が結ばれる。

 それは、僕の人生で初めての、そして最も重い誓いだった。

 マリアさんは指を解くと、ゆっくりと顔を近づけてきた。

 甘い香りが強くなる。

 僕は思わず目を閉じた。

 チュッ。

 額に、柔らかく温かい感触が触れた。

 祝福のキス。

「信じていますよ、私の愛しい騎士様。

 ……いってらっしゃい」

 僕は目を開けた。

 そこには、涙を堪えて微笑む、世界で一番美しい女性がいた。

「……行ってきます!」

 僕は一歩下がって、精一杯の敬礼をした。

 もう泣かない。

 振り返らない。

 次に会う時は、笑顔で会いたいから。

 僕は踵を返し、丘を駆け下りた。

 背中で、教会の鐘が一つ、別れと始まりを告げるように鳴り響いた。


 翌朝、空が白み始めた頃。

 鋼鉄のキャラバンは、轟音と共に鉄屑市を出発した。

 ゲートをくぐり、荒野へと続く一本道を進んでいく。

 僕はヴィオラのバイクの後部座席に乗り、遠ざかる街を眺めていた。

 朝霧の中に霞む鉄の摩天楼。

 その頂上付近に、小さな教会の影が見えた気がした。

 あそこで、彼女が祈ってくれている。

 そう思うだけで、胸の奥が温かくなり、同時にキリキリと締め付けられるような切なさが走る。

 (さよなら、鉄屑市。さよなら、マリアさん)

 僕は心の中で繰り返した。

 それは別れの言葉ではなく、再会のための呪文だ。

 荒野に出ると、冷たい風が頬を叩いた。

 ヴィオラは背中越しに、何も言わずにバイクを走らせている。

 昨夜の僕の醜態を知っているはずなのに、何も聞いてこない。

 ただ、その背中はいつもより少しだけ広く、頼もしく感じられた。

「……言えたか?」

 暫くして、インカム越しにヴィオラの声がした。

 風切り音に混じった、ぶっきらぼうだけど優しい声。

「うん。……約束してきた」

 僕は短く答えた。

「強くなって、戻ってくるって」

「そうか。……なら、忙しくなるぞ。

 帰ったら訓練のメニューを倍にする。泣き言は聞かんぞ」

「望むところだ……!」

 僕はヴィオラの背中に額を押し付けた。

 強がりを言ったけれど、本当はもう限界だった。

 昨夜泣き明かした疲れと、数日間の興奮、そして別れの寂しさ。

 全ての感情を使い果たして、身体が鉛のように重い。

 エンジンの一定のリズムと、ヴィオラの背中から伝わる微かな振動が、心地よい子守唄のように意識を揺らす。

 瞼が重い。

 (母さん……背中、あったかいな)

 マリアさんの柔らかさとは違う。

 硬くて、ゴツゴツしていて、オイルの匂いがする鋼鉄の背中。

 でも、これが僕の家だ。

 僕を守り、育ててくれた、最強の揺り籠だ。

 僕はヴィオラの腰に腕を回し、しがみつくようにして目を閉じた。

「……おやすみ、アル」

 遠のく意識の中で、ヴィオラの声が聞こえた気がした。

 そして、誰かがマントを掛けてくれたような、ふわりとした温もりに包まれた。

 夢を見た。

 丘の上の教会で、少し大人になった僕が、マリアさんと笑い合っている夢。

 その隣にはヴィオラもいて、みんなで幸せそうにお茶を飲んでいる。


 そんな、いつか来るはずの未来の夢を。

 交易隊のキャラバンは、朝日を背に受けて、長い影を荒野に落としながら進んでいく。

 少年の初恋と、大人の階段を一歩登った決意を乗せて。

 帰路の旅は、静かに続いていった。



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