第24章【鉄の聖女と初恋(Iron Saint and First Love)】
荒野の地平線を埋め尽くすように聳え立つ、鉄と錆の摩天楼。
それが、僕が初めて目にする「鉄屑市」の全貌だった。
キャラバンのトラックに揺られながら、僕はゴーグル越しにその威容を見上げていた。
話は聞いていた。かつては野盗と屑鉄が積み上がっただけの、劣悪なスラムだったと。
けれど、目の前にあるのは、混沌としつつも力強いエネルギーに満ちた都市そのものだった。
巨大なジャンクパーツを溶接して作られた防壁は、どんな戦車の砲撃も跳ね返しそうなほど分厚い。
林立する煙突からは蒸気と煙が絶え間なく吐き出され、空を灰色に染めているが、その煙の匂いすらも、ここでは生の証のように感じられる。
カンカン、キンキン……。
絶えることのない金属音が、街の鼓動のように響いてくる。
「……すげぇ」
僕は思わず声を漏らした。
地下都市の整然とした管理社会とは違う、雑然とした熱気。
それが、僕の肌をビリビリと震わせていた。
「口を開けていると砂が入るぞ、アル」
隣を並走するバイクの上から母さん、ヴィオラが声をかけてきた。
その声は相変わらず淡々としているが、ヘルメットのバイザー越しに見える瞳は、いつもの厳しい教官の色ではなく、どこか遠くを見るような、懐かしさを湛えているように見えた。
「ここも変わったな。……10年前とは大違いだ」
ヴィオラが独り言のように呟く。
トラックが重厚なゲートをくぐると、そこはもう鉄屑市のメインストリートだった。
一歩中に入ると、強烈なオイルの匂いと、スパイスの香り、そして人々の熱気が波のように押し寄せてきた。
道の両脇には露店がひしめき合い、義体化した人間や、塗装の剥げた旧式アンドロイドたちが、大声で商売をしている。
「さあさあ!純正の旧世代パーツだよ!早い者勝ちだ!」
「トカゲの串焼き、焼きたてだよ!オイルソースが絶品だぜ!」
僕たちのキャラバンが入ってくると、通りの人々が一斉にこちらを見た。
最初は警戒の視線だった。だが、先頭を走る青いバイクと、そのライダーの姿を認めた瞬間、空気が一変した。
「おい、ありゃあ……!」
「蒼い瞳のS型……ヴィオラの姉御だ!」
「英雄が帰ってきたぞぉぉぉッ!!」
ドッ! と歓声が爆発した。
人々が仕事を放り出して駆け寄ってくる。
トラックの周りは瞬く間に人だかりになり、口笛や歓声が飛び交う。
「ヴィオラさーん!待ってたぜぇ!」
「あんたのおかげで、この街はまだ生きてるよ!」
「見てくれよこの義手!あんたが助けてくれた時に直したやつだ!」
僕は圧倒されて、銃座の上で縮こまっていた。
すごい。母さんは本当に英雄なんだ。
都市でも一目置かれているけれど、ここではもっと熱狂的だ。まるで神様かアイドルの扱いだ。
ヴィオラはバイクを徐行させながら、群がる人々に軽く手を上げた。
たったそれだけの動作で、歓声がさらに大きくなる。
「騒ぐな。ただの護衛任務だ。道を開けろ」
マイクを通した冷ややかな声。
でも、人々は怯むどころか「相変わらずクールだぜ!」と喜んでいる。
ヴィオラの口元が、マスクの下で僅かに緩んでいるのを、僕は見逃さなかった。
ここは、彼女にとって「戦場」ではなく「帰る場所」の一つなのかもしれない。
広場に到着し、荷下ろしが始まるとヴィオラは僕を手招きした。
喧騒から少し離れた、給水タンクの陰。
そこで彼女はヘルメットを脱ぎ、乱れた金髪をかき上げた。
その横顔は、今まで見たことがないほど穏やかで、そして少しだけ寂しげだった。
「……アル。あのボロアパートが見えるか?」
彼女が指差したのは、ストリートの裏手にある、今にも崩れそうな雑居ビルだった。
壁は煤け、窓ガラスは割れ、洗濯物が万国旗のように干されている。
「うん。見えるけど……あそこがどうかしたの?」
「10年前。……お前がまだ、私の腕の中に収まるほどの赤ん坊だった頃」
ヴィオラは静かに語り始めた。
「私は、あそこの地下室に隠れ住んでいたんだ。
誰にも見つからないように。誰にも知られないように」
僕は息を呑んだ。
母さんが、あんな場所に?
「あの頃のこの街は、今のような活気ある場所じゃなかった。
暴力と裏切りが支配する、正真正銘の地獄だった。
私は追っ手から逃げ、お前を守るために、ここに潜伏した。
……たった一人でな」
ヴィオラの瞳が、過去の映像を再生しているように揺れる。
「怖かったよ。敵と戦うことじゃない。
お前が夜泣きをするたびに、私は心臓が凍る思いだった。
『泣き止んでくれ』と祈りながら、お前の口を手で覆うこともあった。
もし声が漏れたら、追手に見つかる。そうしたら、お前を守りきれないかもしれないと」
僕は、自分の胸が締め付けられるのを感じた。
母さんは、そんな思いをして僕を……。
「ミルクを手に入れるのも命懸けだった。
オムツの替え方にも苦労した。
熱を出したお前を抱いて、どうすればいいか分からず、ただ一晩中、冷却機能を切って体温を分け与え続けたこともあった」
彼女は僕の方を向き、苦笑した。
「最強のS型だと自負していたが、育児の前では無力なポンコツだったよ。
……誰にも頼れなかった。誰も信用できなかった。
世界中が敵に見えた。
あの狭く暗い部屋だけが、私とお前の世界の全てだったんだ」
その言葉の重みが、僕の心に突き刺さる。
孤独。
絶対的な孤独の中で、彼女は僕という命の灯火を、嵐から守り続けてくれたのだ。
「……ごめんね、母さん。
僕、何も知らなくて……」
「謝るな。お前が生きて笑っている、それだけで私の苦労は報われている」
ヴィオラは僕の頭を、ゴツゴツした鋼鉄の手で撫でた。
その手は、やっぱり少し不器用で、でも温かかった。
「……だが、そんな私にも、たった一つだけ。
限界だった時に、手を差し伸べてくれた場所があった」
彼女は視線を、街のさらに向こう。
小高い丘の上に聳え立つ、崩れかけた建物へと向けた。
「休憩時間だ、アル。
あそこへ行ってこい」
ヴィオラに言われるがまま、僕は一人で街を歩き出した。
荷下ろしと商談には時間がかかる。その間の自由時間だ。
ヴィオラは「私はここで指揮を執る。お前一人で行って挨拶してこい」と言って、僕を送り出した。
目指すは、丘の上に建つ教会跡地。
メインストリートの喧騒を離れ、迷路のような路地裏を抜けていく。
路地は狭く、頭上には無数の配線が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
足元には汚れた水が流れ、野良犬のような小型ドロイドがゴミを漁っている。
(母さんは、こんな場所で僕を育ててくれたんだ……)
さっきの話を思い出しながら、僕は一歩一歩、踏みしめるように歩いた。
華やかな英雄としてのヴィオラしか知らなかった僕にとって、その「隠された10年」の事実は衝撃的だった。
誰にも頼らず、隠れて、怯えて。
僕が今こうして太陽の下を歩けるのは、彼女がその身を盾にして闇を防いでくれたからだ。
いや、待てよ。
ヴィオラは言っていた。
『たった一つだけ、手を差し伸べてくれた場所があった』と。
『シスター・マリア』。
母さんが唯一心を許し、僕を会わせようとした人物。
一体、どんな人なのだろう。
錆びついた長い鉄階段を登りきると、空気の色が変わった気がした。
下界のオイルとスパイスの混じった濃厚な臭いが薄れ、代わりに乾いた風と、どこか清涼な……そう、雨上がりの朝のような匂いが漂ってきた。
丘の上。
そこは、鉄屑市の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
荒野から吹き付ける風が、錆びた鉄塔を鳴らして、微かな音楽を奏でている。
その中心に教会があった。
大戦前の石造りの建築。
屋根の半分は崩落し、青空が覗いている。
壁は苔むし、ステンドグラスの多くは割れてなくなっているが、残った破片が太陽の光を受けて、地面に宝石のような色の影を落としていた。
廃墟。
けれど、それは怖い場所ではなかった。
むしろ、時が止まったような、神聖な静けさに満ちていた。
「……ここが、母さんの言っていた場所」
僕は教会の大きな木の扉の前に立った。
扉には、無数の弾痕が刻まれている。ここもかつては戦場だったのだろう。
でも、今はその傷跡さえも、歴史の一部として静かに眠っている。
僕は緊張しながら、重い扉に手をかけた。
ギィィィ……。
蝶番が軋む音を立てて、扉が開く。
中から、柔らかな光が溢れ出してきた。
僕は眩しさに目を細めながら、礼拝堂の中へと足を踏み入れた。
天井の高い空間。
祭壇の奥、崩れた壁の向こうには、どこまでも続く青い空が見える。
そして、その光の中に、一人の女性が立っていた。
黒い修道服に身を包み、長いベールを風になびかせている。
彼女は祭壇の花に水をやっていたようだが、扉の音に気づいて、ゆっくりとこちらを振り返った。
その瞬間、僕の心臓がトクンと大きく跳ねた。
美しい、なんて言葉じゃ足りなかった。
透き通るような白い肌。
意志の強さを感じさせる切れ長の瞳。
そして何より、その全身から発せられる空気が、今まで会ったどの人間とも、どのアンドロイドとも違っていた。
ヴィオラが「研ぎ澄まされた刃」のような美しさだとしたら、彼女は「静かに燃える聖火」のような美しさ。
冷たい金属のボディを持っているはずなのに、なぜか温かい。
懐かしい。
シスター・マリアは僕の姿を認めると、その端正な顔立ちを、花が咲くように綻ばせた。
「……まぁ」
鈴を転がすような声。
それは、僕の記憶の奥底、言葉を覚えるよりももっと前の、原初の記憶を揺さぶる響きだった。
「ようこそ、いらっしゃいました。
……あんなに小さかった泣き虫さんが、こんなに立派な騎士様になって」
彼女は水差しを置き、ゆっくりと両手を広げて僕の方へ歩いてきた。
僕は動けなかった。
逃げたいわけじゃない。
ただ、その光のような存在に吸い込まれそうで、足がすくんでしまったのだ。
マリアさんは僕の目の前まで来ると、屈み込んで視線を合わせ、そして。
ふわり。
黒い修道服が、僕を包み込んだ。
「よく来てくださいましたね……アルさん」
抱きしめられた瞬間、匂いがした。
日向の匂い。洗い立てのシーツの匂い。そして、微かな機械油の匂い。
それが混ざり合って、どうしようもなく「安心」できる香りになっていた。
その時、僕の脳裏にフラッシュバックした。
ヴィオラが食料を買いに出かけている間の、不安で泣き出しそうな時間、僕を抱き上げてくれた誰か。
硬いヴィオラの腕とは違う、柔らかい素材で覆われた胸の感触。
『大丈夫ですよ。いい子ですね』と、ずっと背中をトントンしてくれた手。
(ああ……この人だ)
僕の涙を拭ってくれたのは、この人だったんだ。
マリアさんの腕は、ヴィオラのように強く締め付けることはしなかった。
ただ優しく、壊れ物を包むように、そこに在ることを許してくれる抱擁。
ヴィオラが僕を「死なせないため」に守ってくれたなら、マリアさんは僕が「生きていていい」と肯定してくれているような気がした。
僕の顔が、カァッと熱くなるのが分かった。
これは何だ?
安心感? 懐かしさ?
いや、それだけじゃない。胸の奥がくすぐったくて、ドキドキして、息が苦しい。
僕はマリアさんの腕の中で、身動き一つできずに、ただ真っ赤になって固まっていた。
これが、僕と「鉄の聖女」との出会い。
そして、人生で初めての「恋」の始まりだった。
マリアさんの腕の中は、日向の匂いがした。
洗いたてのシーツと、古い書物のインク、そして微かな機械油の香り。
抱きしめられた瞬間、僕の脳裏に眠っていた記憶の扉が開いた。
それは薄汚い部屋の記憶ではない。
高い天井。ステンドグラスから降り注ぐ七色の光。
ヴィオラが仕事に行く朝、僕はこの場所に預けられていたのだ。
『いい子にしているんだぞ』と不器用に頭を撫でるヴィオラの硬い手と、それと入れ替わるように僕を抱き上げてくれる、マリアさんの柔らかい腕。
彼女はいつも、ヴィオラが迎えに来る夕暮れまで、僕を膝に乗せて絵本を読んだり、歌を歌ってくれたりした。
(ああ……この場所だ)
僕が泣き止んだのは、この腕の中だったんだ。
ヴィオラの腕が、どんな敵からも守ってくれる「鋼鉄の盾」なら、マリアさんの腕は、凍えた心を温めてくれる「羽毛の布団」だった。
僕の心臓が、早鐘を打ち始めた。
カァッと顔が熱くなるのが自分でも分かる。
懐かしさだけじゃない。
目の前にいる人が、あまりにも綺麗で、優しくて……。
僕は身動き一つできず、ただ真っ赤になって固まっていた。
「……ふふっ。赤くなっちゃって。可愛いですね」
マリアさんが悪戯っぽく笑って、体を離した。
至近距離で見る彼女の顔。
長い睫毛に縁取られた瞳は、深い慈愛の色を湛えている。
僕は慌てて一歩下がった。視線をどこに向けていいか分からない。
「あ、あの……! ぼ、僕は……!」
「アルさん、でしょう?
ヴィオラさんから連絡を受けていましたよ。立派になりましたね」
彼女は僕の手を取り、手袋越しに優しく握った。
「10年前、ヴィオラさんは毎朝、あなたをここに連れてきました。
彼女自身も傷だらけで、疲労困憊で……それでも、あなたを私に預ける時だけは、少しだけ安心した顔をしていました。
『頼む』と一言だけ残して、彼女は働きに出て行く。
……あなたを守るためのミルク代を稼ぐために」
マリアさんの言葉に、胸が詰まる。
ヴィオラが僕を隠していたのは、この教会だったのか。
そしてマリアさんは、そんな僕たち親子をずっと支えてくれていたんだ。
「さあ、立ち話もなんです。
お茶を淹れましょう。昔みたいに」
彼女は微笑んで、教会の奥にある中庭へと僕を招いた。
風に靡く黒いベールの美しさに、僕はただ見惚れることしかできなかった。
中庭は、廃墟の教会とは対照的に、手入れされた花々が咲き乱れる美しい場所だった。
小さな丸テーブルを挟んで、マリアさんと向かい合う。
彼女が淹れてくれたハーブティーからは、甘く爽やかな香りが立ち上っている。
僕はカップを持つ手が震えないように必死だった。
ドキドキして、喉が渇く。
戦闘中の緊張とは全く違う。
彼女がカップに口をつける仕草、風で髪が揺れる様子、その一つ一つがスローモーションのように目に焼き付く。
(これが……母さんの言っていた『シスター・マリア』……)
母さんとは正反対だ。
母さんはいつも戦闘服か整備用のツナギで、化粧っ気なんてゼロだ。
でもマリアさんは、質素な修道服なのに、どこか気品があって、女性らしくて……。
「どうしました? 私の顔に何かついていますか?」
マリアさんが首を傾げる。
僕は慌てて首を振った。
「い、いいえ! その……すっごく、綺麗だなって……」
言ってしまってから、さらに顔が熱くなった。
何を言ってるんだ僕は!
でも、マリアさんは嫌な顔一つせず、嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、お上手ですね。
ヴィオラさんの息子さんとは思えないくらい、素直で素敵です」
「そ、そんなことないです……」
「ふふ。でも、目はヴィオラさんに似てきましたね。
強くて、真っ直ぐで」
彼女は遠くを見るような目をした。
「ヴィオラさんは不器用な人でした。
あなたを迎えに来るたび、『いい子にしてたか?』なんてぶっきらぼうに聞いて。
でも、あなたが眠っている時、彼女はずっとあなたの寝顔を見ていましたよ。
世界中を敵に回しても、この子だけは絶対に守り抜く……そんな、悲壮なまでの決意を瞳に宿して」
マリアさんの話を聞いていると、ヴィオラの深い愛情が改めて伝わってくる。
そして同時に、そんなヴィオラを理解し、支えてくれたマリアさんの大きさも感じる。
僕の中で、憧れと感謝、そして甘酸っぱい何かが混ざり合って膨らんでいく。
もっと一緒にいたい。もっと話していたい。
この胸の痛みは、一体何なんだろう。
お茶を飲み終えた頃、中庭の奥から子供たちの声が聞こえてきた。
見ると、様々な年齢の子供たちが走り回っている。
人間の子供もいれば、小さなアンドロイドの子もいる。
みんな、薄汚れた服を着ているが、その表情は明るい。
「ここは孤児院も兼ねているんです」
マリアさんが説明してくれた。
「戦争や病気で親を亡くした子たちを引き取って育てています。
……アルさん。お願いがあるのですが」
「は、はい! 何でも言ってください!」
僕は即答した。マリアさんの頼みなら、たとえ火の中水の中だ。
「この子たちと、遊んであげてくれませんか?
ここは女の子や小さい子が多くて、あなたと同じくらいの年頃の男の子が少ないんです。
きっと、みんな喜びます」
遊ぶ?
僕は戸惑った。訓練や任務ならいくらでもこなせるが、「遊び」なんて……。
物心ついた時から、僕の遊び道具はナイフと銃だった。
同世代の子供と無邪気に遊んだ記憶なんてない。
僕は懐の通信機を取り出した。
「……母さん、聞こえる? アルだけど」
『ヴィオラだ。どうした、何かあったか?』
「いや、敵襲じゃないよ。その……マリアさんに頼まれて、ここの子供たちと遊んでもいいかなって」
通信の向こうで、ヴィオラがふっと笑った気配がした。
『……許可する。
羽を伸ばしてこい。ただし、怪我をさせるなよ。相手にも、自分にもな』
「了解!」
通信を切り、僕は子供たちの輪に入っていった。
最初はぎこちなかった。
ボールを投げられても、つい敵のグレネードのように警戒して身構えてしまう。
鬼ごっこをしても、気配を消して背後に回り込んでしまい、「アルお兄ちゃん、どこー?」と探されてしまう。
でも、子供たちの屈託のない笑顔に触れるうちに、僕の肩の力が抜けていった。
ボールは武器じゃない。ただの遊び道具だ。
走るのは逃げるためじゃない。追いかけるためだ。
笑うのは、生き残った安堵からじゃない。ただ楽しいからだ。
「アルお兄ちゃん、すごい!木の上まで登れた!」
「こっちこっち! 捕まえてごらーん!」
いつの間にか、僕は夢中になっていた。
泥だらけになって転げ回り、大声で笑っていた。
これが、子供の時間なんだ。
僕が訓練のために捨ててきた、普通の10歳の時間。
木陰では、マリアさんがそんな僕たちを優しく見守っていた。
時折目が合うと、彼女は聖母のように微笑んでくれる。
そのたびに僕は顔を赤くして、さらに張り切ってボールを追いかけた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、空が茜色に染まり始めた。
教会の鐘が鳴る。ヴィオラが迎えに来る時間だ。
「またね、アルお兄ちゃん!」
「また遊んでね!」
子供たちに手を振られ、僕は名残惜しさを感じながら教会を後にした。
マリアさんが、出口まで見送ってくれた。
「ありがとう、アルさん。あの子たち、とても楽しそうでした」
「僕も……楽しかったです。すごく」
僕は素直に答えた。
こんなに心が軽いのは初めてだった。
「また、来てくださいますか?」
マリアさんが小首を傾げて尋ねる。
夕日に照らされた彼女の顔は、あまりにも美しくて、僕は直視できなくて視線を逸らした。
「……う、うん! 絶対来る!
僕、まだ鉄屑市にいるから!明日も、その次も来るよ!」
「ふふ。待っていますよ、私の騎士様」
騎士様。
その言葉に、僕は天にも昇るような気持ちになった。
僕は大きく手を振って、坂道を駆け下りた。
丘の下では、ヴィオラがバイクにもたれて待っていた。
泥だらけで、息を切らせて戻ってきた僕を見て、彼女は少しだけ目を丸くし、それから微かに笑った。
「……いい顔をしてるな」
「うん!」
僕は満面の笑みで答えた。
強くなることだけが全てじゃない。
守るべきものは、ただの街や物資だけじゃない。
あの笑顔や、優しい時間。それを守るために、僕は強くなりたい。
ヴィオラの背中に乗り、僕は振り返った。
丘の上、夕焼けの中に立つ教会のシルエット。
あそこに、僕の大切な人がいる。
初恋の予感を胸に抱きながら、僕は母さんの背中にしがみついた。
エンジンの振動が、心地よい子守唄のように響いていた。




