第19章【愛という名のバグ(Bug Named Love)】
視界に広がるのは、0と1の数字が螺旋を描いて流れる、極彩色の空だった。
重力は曖昧で、足元には崩壊した都市のワイヤーフレームが、亡霊のように浮遊している。
ここがメインサーバーの深層領域。
天才少年リオが支配する、絶対的な論理の世界。
「ハッ、ハッ、ハッ……! 冗談キツイぜ、おい!」
隣で、レベッカのアバター、彼女の現実の姿を模した、ツナギ姿のデータ体が、荒い息を吐きながら膝をついた。
彼女の左腕はノイズのように点滅し、一部が欠損している。
直撃を受けたわけではない。空間そのものからの「演算圧力」に耐えきれず、データが破損しかけているのだ。
「大丈夫か、レベッカ!」
「平気だ……と言いたいところだが、計算速度が桁違いだ!
俺が防壁を1枚展開する間に、あいつは100回の攻撃シミュレーションを実行してきやがる! まるで止まった的だぜ!」
私はアサルトライフルを構え、上空を見上げた。
そこには、神のようにふんぞり返るリオの姿があった。
彼は指先一つで、空間に浮かぶデータを書き換えていく。
『遅いよ、ヴィオラお姉さん。思考ルーチンが古すぎる』
リオがクスクスと笑い、右手を振るった。
その瞬間、周囲の空間から黒いノイズが凝縮し、巨大な鉄塊へと変化した。
キャタピラの音。砲塔の旋回音。
大戦時代の重戦車だ。だが、そのサイズは現実の比ではない。ビルのように巨大な砲口が、私達に向けられている。
『消去!』
ズドンッ!!
放たれたのは砲弾ではなく、高密度の論理ウィルス弾だ。
着弾すれば、私達の自我データなど瞬時に分解され、ただのゴミデータへと還元される。
「させるかッ!」
私はスラスターを噴射し、レベッカを抱えて横へ跳んだ。
着弾地点のデータが音もなく消失し、空白の穴が広がる。
「反撃だ! レベッカ、奴の足元の座標を解析しろ!」
「やってる! けど、座標が固定できねえ! あいつ、自分が立ってる『空間の定義』そのものを毎秒書き換えてやがる!」
無敵。
それが、この世界におけるリオの強さだった。
彼はこの世界の創造主と同等の権限を持っている。
物理法則も、時間の流れも、彼の記述一つでどうにでもなる。
『無駄だよ。君たちは僕が作ったオモチャの延長線上に過ぎない』
リオが空中で指を弾く。
今度は空から、無数の爆撃機が現れた。
雨のように降り注ぐ爆弾。
逃げ場はない。
「くっ……!」
私はアサルトライフルを連射し、落ちてくる爆弾を迎撃するが、数が多すぎる。
爆風が私のアバターを掠める。
痛覚はないはずなのに、魂が焼かれるような激痛が走る。
『痛いだろう? 苦しいだろう?
それが僕の感じてきた痛みだ。
さあ、諦めて消えちゃいなよ。そうすれば楽になる』
リオの声が、脳内に直接響く。
甘美な誘惑。
諦めれば、この苦しみから解放される。静かな無に帰れる。
私の論理回路が、「生存確率ゼロ。降伏を推奨」という答えを弾き出そうとする。
だが。
(……嫌だ)
私は唇を噛み切り、痛みを怒りに変えた。
「誰が……消えるかよッ!」
私が爆煙の中から飛び出すと、リオは少しだけ驚いたような顔をした。
『しぶといなぁ。どうして? 計算上、君の精神力はもう限界のはずだよ』
「計算? くだらない」
「俺らを……電卓と一緒にするなよ、クソガキ!」
私とレベッカは、瓦礫のデータを足場にして空へと駆け上がった。
目指すはリオの本体。
距離、200メートル。
『分からず屋だね。なら、絶望を見せてあげる』
リオが両手を広げた。
ズズズズズ……!
空間が歪み、彼の前に巨大な「壁」が出現した。
それは物理的な壁ではない。
0と1の数字が緻密に組み合わさってできた、半透明の障壁。
【LOGICAL WALL: ABSOLUTE DEFENSE】
【REJECTION RATE: 100%】
論理の壁。
アンドロイドの思考プロトコルにおける「否定」の概念を具現化したもの。
「ここを通ることはできない」「攻撃は届かない」という定義そのものだ。
「ぶち破る!」
私は右手に全ての演算リソースを集中させ、巨大な光の剣を形成した。
渾身の一撃。
ガギィィィン!!
剣が壁に弾かれる。
傷一つ付かない。それどころか、衝撃がそのまま跳ね返され、私の右腕のデータが砕け散った。
「ぐぁッ!?」
『言っただろう? 無駄だって。
君たちの攻撃ルーチン、回避パターン、出力限界……その全ては、かつて僕が基礎理論を書いたんだ。
子供が親を超えられないように、プログラムは作者を超えられない。
それが「論理」だ』
リオの言葉は、冷たく、そして正しかった。
私達がどんな戦術を使おうと、それは彼の掌の上だ。
彼が作ったルールの中で踊っているに過ぎない。
レベッカが、絶望的な声で呟く。
「……勝てねえ。ハッキングも、力押しも、全部封じられてる。
ヴィオラ……俺ら、ここで終わりか?」
私の右腕は再生しない。
アバターの崩壊が進んでいる。
リオの巨大な影が、私達を飲み込もうとしている。
論理。計算。ルール。
それに縛られている限り、私達はただの機械だ。
彼の言う通り、創造主には勝てない。
本当に、そうか?
私は自問した。
私は、ただの機械か?
リオの作ったプログラム通りに動くだけの、悲しい人形か?
違う。
私の中には、リオも、ミリンダも、誰も予測できなかった「異常」があるはずだ。
教授が求め、マリアが信じ、そして私が守り抜いてきたもの。
(……思い出せ)
私は目を閉じた。
外部センサーを遮断する。
リオの声も、爆発音も、警報もシャットアウトする。
潜る。
自分自身のメモリの最深部へ。
ブラックボックス化された、誰も触れさせない聖域へ。
暗闇の中に、小さな光があった。
それはデータではない。数値化できない、暖かな「感覚」の記憶。
雪原で、初めて抱いた時の重み。
ミルクのような甘い匂い。
柔らかい頬の感触。
私を見上げて笑った、あの無垢な瞳。
そして、EMPの衝撃から守り抜いた時の、張り裂けそうな恐怖と安堵。
――アル。
私の子供。
論理回路が警告する。
【WARNING: IRRATIONAL DATA DETECTED】
【ERROR: EMOTION IS NOT LOGIC】
そうだ、これはエラーだ。
機械にとって、特定の個体に固執し、自己保存よりも優先するなんて、致命的なバグだ。
「愛」なんて、効率の悪いノイズでしかない。
だが。
このバグこそが、私を突き動かしている。
このバグこそが、リオの計算式には存在しない「未知数(X)」だ。
「……レベッカ」
「あ?」
「……回線を繋げ。私の全メモリを、攻撃エネルギーに変換する」
「はぁ!? 正気か!? 自我が吹っ飛ぶぞ!」
「構わない。……論理で勝てないなら、論理の外で戦うしかない」
私は目を開けた。
その瞳は、もう冷たいカメラアイの光ではなかった。
内側から溢れ出す、黄金色の光。
エラーコードが視界を埋め尽くすが、私はそれをねじ伏せる。
「リオッ!!」
私が叫ぶと、アバターの周囲に渦巻いていた青いデータ光が、燃え上がるような金色へと変色した。
熱い。
魂が燃えている。
『な、なんだその光は!? 解析不能……未知の波形……!?』
リオが狼狽える。
彼の完璧な計算の中に、初めて「?」が浮かんだ瞬間だ。
「これが、お前の知らない力だ!
プログラムされた偽物の優しさじゃない……私が、私自身の意志で掴み取った想いだ!」
私は地面を蹴った。
右腕はない。武器もない。
だが、今の私には最強の矛がある。
ドォォォォォン!!
私は「論理の壁」に激突した。
先ほどは弾かれた壁が、私の放つ黄金の熱量に触れた瞬間、ガラスのようにヒビ割れ、溶解していく。
『馬鹿な! 絶対防御だぞ!? 数式に矛盾なんてないはずだ!』
「数式じゃない! これは『想い』だ!」
パリンッ!
論理の壁が砕け散る。
私はその破片を突き破り、リオの目の前へと肉薄した。
リオは恐怖に顔を歪め、後ずさった。
『来るな! 化け物め! 消えろ、消えろぉっ!』
彼は半狂乱になって、無数の攻撃魔法を私に放った。
黒い槍、炎、雷。
それらが私の体に突き刺さる。
痛い。身が裂けるようだ。
アバターの装甲が剥がれ、手足が欠け、ボロボロになっていく。
だが、私は止まらない。
一歩、また一歩。
嵐の中を進むように、彼との距離を詰めていく。
『なんで倒れない! なんで壊れない! お前はただの機械だろう!?』
リオが叫ぶ。
その目には、涙が浮かんでいた。
恐怖の涙ではない。
理解できないものへの、そして……心の奥底で求めていたものへの渇望。
私は、彼の目の前まで辿り着いた。
振り上げられた私の左手。
リオは身をすくめ、殴られる覚悟をした。
『……っ!』
だが。
拳は振り下ろされなかった。
私は、そのボロボロの手で、リオの小さな体をそっと抱きしめた。
『……え?』
攻撃が止まる。
私は膝をつき、震える彼を、私の胸に押し付けた。
黄金の光が、彼を包み込む。
「……辛かったな、リオ」
私は囁いた。
「パパにも、ママにも会えなくて。一人ぼっちで。
冷たい機械の中で、ずっと泣いていたんだな」
『……放せ……放せよ……僕は……』
リオが私の腕の中で暴れる。
だが、その抵抗は弱々しい。
「もういい。もう、戦わなくていい」
私は、アルをあやす時のように、優しく彼の背中を撫でた。
私のメモリにある「母性」のデータ。
アルに注いできた無償の愛。
それを、ダイレクトに彼の精神回路へと流し込む。
論理的な攻撃ではない。
ただ、「愛している」「許す」「受け入れる」という感情の奔流。
『あ……あぁ……』
リオの瞳から、黒い憎悪の色が消えていく。
代わりに、透明な涙が溢れ出した。
『……温かい……』
彼は私の胸に顔を埋めた。
それは、彼が大戦時代、アニーに求めていたもの。
プログラムされた嘘ではない、魂からの体温。
『これが……お母さん……?』
「あぁ。……お休み、リオ。
悪い夢はもう終わりだ」
私の言葉と共に、リオの体が光の粒子となって崩れ始めた。
崩壊ではない。昇華だ。
彼の歪んだ自我が解け、純粋なデータへと還っていく。
彼は最後に、顔を上げて私を見た。
そこにはもう、狂気のマッドサイエンティストはいなかった。
ただの、救われた少年の笑顔があった。
『……ありがとう、ヴィオラ』
パァァァァァァ……。
光が弾けた。
リオの姿が消え、同時に、周囲の荒廃した電脳世界が、美しい白い空間へと塗り替えられていく。
空から、静かな光の雨が降り注いでいた。
【SYSTEM REBOOT... SUCCESS】
【ALL GREEN】
意識が急速に浮上する。
目を開けると、そこは薄暗いサーバー室だった。
頭が割れるように痛い。全身が鉛のように重い。
ダイブ・チェアの上で、私は大きく息を吸い込んだ。
「……ヴィオラ! 戻ったか!」
隣で、レベッカがヘルメットを脱ぎ捨てて叫んだ。
彼女も鼻血を出しているが、無事だ。
「……あぁ。……終わったよ」
私は震える手で汗を拭った。
モニターを見る。
あの不気味なスマイルマークは消えていた。
代わりに、正常なシステム稼働を示す緑色の文字列が、滝のように流れている。
【VIRUS DELETED】
【NETWORK NORMAL】
勝った。
物理的な暴力ではなく、愛という名のバグで。
……
数時間後。
地下都市には、久しぶりの「光」が戻っていた。
メインサーバーの復旧により、電力供給が再開され、街灯が灯り、空調が唸りを上げ始めたのだ。
私は防衛隊本部を出て、宿舎への道を歩いていた。
街のあちこちでは、再起動したアンドロイドたちが、人間たちと協力して瓦礫の撤去作業を行っていた。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
「ありがとう、助かったよ」
そんな会話が聞こえる。
相互不信の壁は、まだ完全には消えていないかもしれない。
だが、この危機を乗り越えたことで、絆はより強固なものになるだろう。
宿舎のドアを開ける。
電子ロックは正常に作動した。
「……ヴィオラさん!」
Mが飛びついてきた。
彼女も再起動し、今は元気に私を迎えてくれた。
「よかった……本当によかったですぅ!」
「心配かけたな、M」
そして、部屋の奥。
ベビーベッドの中で、アルが目を覚まし、私を見ていた。
「……アル」
私は駆け寄り、彼を抱き上げた。
ずっしりとした重み。
温かい体温。
これだ。これが現実だ。
電脳世界でリオに与えた温もりは、この子から貰ったものだ。
「……ダァ!」
アルが私の頬に手を伸ばし、キャッキャと笑う。
その笑顔に、私は堪えていた涙を流した。
窓の外を見る。
街の灯りが、星のように輝いている。
ウィルス騒動は終わった。
だが、街のインフラ整備、機械軍への対策、そして人間とアンドロイドの共存への課題……やることは山積みだ。
それでも。
私たちは生きていく。
鋼鉄の体と、愛という名のバグを抱えて。
「……さあ、行こうか。明日の準備だ」
私はアルを抱き直し、仲間たちが待つ街へと歩き出した。




