第15章【狂熱の夏(Feverish Summer)】
視界(HUD)の端で、気温計の数値が赤く点滅していた。
外気温、38度。湿度、75%。
地上の太陽は容赦なくコンクリートを焼き、逃げ場のない熱気が路地裏に淀んでいる。
かつて雪原の冷気の中で戦った日々が嘘のような、まとわりつくような暑さ。
だが、今の私の背筋を凍らせているのは、この気温ではない。目の前で繰り広げられている、理解不能な「狂気」だった。
『ウガァァァァッ! 排除……排除……ニンゲン、害悪、排除……!』
目の前で暴れているのは、建設作業用の汎用アンドロイドだった。
本来ならば、重い資材を運び、人々の生活を支えるための温厚な機体。
それが今は、両腕のハンマーアタッチメントを振り回し、瓦礫の山を築いている。
その足元には、恐怖に震える人間の少女がうずくまっていた。
【TARGET LOCKED: TYPE.E-Worker (Runaway State)】
【THREAT LEVEL: HIGH】
私の視覚センサーが、敵の関節駆動域と予測行動パターンを瞬時に解析する。
通常のアンドロイドの動きではない。リミッターが外れ、関節が砕けるのも構わずに最大出力で暴れる、自殺的な挙動。
まるで、悪夢にうなされているかのような。
『TYPE.S-2235-ABよりTYPE.A-1452へ。目標を確認。視界情報を転送』
私は冷静に通信回線を開いた。
呼吸を整え、アサルトライフルのグリップを握りしめる。
『暴走アンドロイドによる保護対象【人間】への被害を報告。指示を乞う』
ノイズ混じりの通信音。
しかし、返ってきた声は、氷のように冷たく、そして鋭かった。
≪ミリンダだ。映像は確認した。……容赦するな。保護対象を速やかに救助しろ≫
「了解」
短く応え、私は行動を開始した。
思考から実行までのラグは0.01秒。
私は遮蔽物にしていた廃ビルの壁を蹴り、路地へと飛び出した。
暴走アンドロイドが、少女に向かってハンマーを振り上げた瞬間だった。
少女の悲鳴。
それが終わるよりも速く、私はアサルトライフルの照準を合わせた。
狙うのはボディでも手足でもない。
暴走の根源。
タンッ。
乾いた銃声が一発だけ響く。
放たれた7.62mm弾は、熱気を切り裂き、暴走アンドロイドの眉間、頭部コアユニット中枢を正確に撃ち抜いた。
『ガ……ガガッ……!?』
振り上げられたハンマーが空中で止まる。
頭部から火花とオイルを撒き散らし、巨体は糸が切れた人形のように仰向けに倒れた。
ズシン、という地響き。
巻き上がる土煙。
私は残心を解かず、倒れた機体へと駆け寄った。
完全に沈黙していることを確認すると、すぐにその背中へ馬乗りになる。
私の仕事は「破壊」だけではない。「調査」だ。
「……失礼するぞ」
私は自身の左手首に内蔵されたデータ接続端子を展開し、破壊した敵機の首筋、頚椎コネクターへと強引にねじ込んだ。
物理接続。
私の意識が、敵の電子頭脳へとダイブする。
そこは、地獄だった。
論理的な思考回路など見る影もない。
視界いっぱいに広がる真紅のノイズ。意味不明な文字列の羅列。
そして、その奥底に潜む、黒く粘り気のある悪意。
【WARNING: VIRUS DETECTED】
【RUNAWAY INDUCEMENT PROGRAM "BERSERK"】
これだ。
ここ数ヶ月、この街を脅かしている元凶。
「データ情報閲覧……診断プログラム起動」
私は自分の脳内リソースを割き、汚染されたデータの中からウィルスの核を探し出す。
まるで泥沼の中から砂金を探すような作業だ。
敵の防壁が、私の侵入を拒もうと牙を剥く。
「……鬱陶しい」
私は攻撃性防壁を展開し、ウィルスの触手を焼き払った。
中枢部へ到達。
そこにあったのは、複雑怪奇に暗号化されたプログラムの塊だった。
「誘発ウィルスプログラム発見。……防壁展開、及びワクチンプログラム適応」
私は即座にデータパッケージを作成し、サンプルを隔離保存した。
同時に、これ以上の被害拡散を防ぐための応急処置用ワクチンを流し込む。
……手遅れだ。この機体のコアは既に焼き切れている。
だが、このデータがあれば、まだ感染していない他の機体を救えるかもしれない。
「……サンプル採取完了」
私は接続を解除し、現実世界へと意識を戻した。
熱気が肌を打つ。
そして、私の背後からは、低く落ち着いた声が聞こえてきた。
「……左腕骨折、右足首捻挫。右肩脱臼…加えて全身に打撲か。派手にやられたな」
振り返ると、そこには一人のアンドロイドが少女に膝をついて寄り添っていた。
TYPE.M-6474-EB。個体名称ボビー。
今回の任務における、私の相棒だ。
その見た目は、およそ医療用とはかけ離れていた。
長いドレッドヘアーを頭の後ろで束ね、耳にはジャラジャラとシルバーのピアスが揺れている。
腕まくりした白衣の下から覗くのは、幾何学模様のタトゥーが刻まれた黒い人工皮膚。
路地裏のギャングか、パンクロッカーにしか見えない威圧的な風貌。
だが、その指先は驚くほど繊細だった。
彼は少女の震える体に、自身の白衣を掛けてやり、恐怖で固まっている少女の目線を合わせるように低く屈み込んでいた。
「まずは肩の脱臼からだな。……少し痛むぞ」
ボビーは少女の右腕をそっと、しかし確かな力で保持した。
少女がビクリと身をすくませる。
無理もない。暴走した機械に襲われた直後だ。アンドロイドなど、全て怪物に見えるだろう。
ボビーはニカっと笑った。
その笑顔は、見た目の凶悪さを中和するような、不思議な愛嬌があった。
「痛むから、俺の腕を噛め」
彼は自分の左腕、タトゥーだらけの太い腕を、少女の口元へ差し出した。
少女が戸惑う暇もなく、ボビーは右腕を一気に操作した。
ゴキッ。
「―――――っ!!」
少女が悲鳴を上げ、反射的にボビーの腕に噛み付く。
ボビーは眉一つ動かさず、その痛みを受け止めた。
関節が正しい位置に戻る音。
「……よし、入った」
ボビーは少女の頭を、大きな手でポンポンと撫でた。
「よく我慢した。君は強いな。もう大丈夫だ」
彼はポケットから携帯用のギブス材を取り出し、手際よく少女の左腕と右足首を固定していく。
その手つきは魔法のようだった。
Mの治療が科学的・解剖学的なアプローチだとしたら、ボビーのそれは野戦病院的・実践的な手際の良さがある。
処置を終えたボビーが、少女を軽々と抱き上げる。
少女はもう震えていなかった。
見た目は怖いが、自分を助けてくれた頼れるお兄ちゃんとして、ボビーの首に縋り付いている。
「ヴィオラ、そっちはどうだ? 何か分かったか?」
ボビーが私の方を向く。
私は敵機から降り、アサルトライフルを背中に回した。
「こいつも誘発ウィルスプログラムに感染していた。サンプルをパッケージして採取してある。……中身は空っぽだったがな」
「やはりか。暴走誘発ウィルスプログラムなんて、一体誰が作ったのやら」
ボビーは忌々しそうに足元の瓦礫を蹴った。
「B型の事件以来、この手の暴走が後を絶たない。おかげで俺の仕事は増える一方だ。……まあ、機械の修理より、人間のガキを治してる方が性に合ってるがな」
彼はそう言って、腕の中の少女にウィンクしてみせた。
≪こちら管制室ミリンダ。ヴィオラ、ボビー、状況はどうだ≫
タイミングよく、通信が入る。
「目標沈黙。サンプル採取完了」
「負傷者一名確保。応急処置済みだが、医療ポッドでの精密検査が必要だ」
≪了解した。既に解析班と医療班を送った。お前達は保護対象を連れて戻ってこい。少女のケアはボビーに任せる。ヴィオラはパッケージしたウィルスをレベッカの所へ持ち帰れ≫
「了解」
「了解」
遠くから、救護車両のサイレンが聞こえてくる。
私は空を見上げた。
切り取られた四角い空から、眩しすぎる夏の日差しが降り注いでいる。
だが、この街を蝕んでいるのは、熱射病よりもタチの悪い病魔だった。
少女を医療班に引き渡した後、私とボビーは搬送用装甲車の後部座席に揺られていた。
冷房の効いた車内。
ボビーはシートに深く身体を沈め、ポケットから取り出した棒付きキャンディの包み紙を剥いている。
「……食うか?」
「いらない。糖分補給は必要ない」
「つまらねえ奴だな。頭脳労働の後は糖分が必要なんだよ、脳みそが電子チップだろうとな」
彼はキャンディを口に放り込み、ガリガリと噛み砕いた。
ワイルドだ。Mが白衣の天使なら、こいつは路地裏の赤ひげだ。
「……お前のその格好、患者が怖がらないか?」
私が素朴な疑問を投げかけると、ボビーは自身のドレッドヘアを指先で弄った。
「これか?こいつは『魔除け』みたいなもんだ」
「魔除け?」
「あぁ。俺の主な持ち場はスラム街や犯罪多発地区だ。ナメられたら仕事にならねえ。
それに、絶望的な状況で運ばれてくる患者には、優等生みたいなツラした医者より、こういう『地獄から帰ってきた』ようなツラの方が、妙な安心感を与えることもあるんだよ」
彼はニヤリと笑った。
なるほど、一理あるかもしれない。
かつての私も、娼館の用心棒として、舐められないために冷徹な態度を崩さなかった。
方法は違えど、彼もまたプロフェッショナルなのだ。
窓の外を流れる景色を見る。
教授の騒動から早数ヶ月。
街は復興しつつあったが、その傷跡はまだ癒えていない。
倒壊したビルの跡地にはプレハブ小屋が並び、人々は汗を拭いながら瓦礫の撤去作業を続けている。
季節は夏。
緑が少なく、コンクリートと鉄に覆われたこの都市は、日中は灼熱のフライパンのようになる。
だが、この街の地下には巨大な冷却水脈が張り巡らされている。
大戦時代、巨大工場の排熱を処理するために作られたその水脈は、今や都市全体のラジエーターとして機能し、地上も地下も、見た目ほどには過酷ではない環境を維持していた。
しかし、その「過ごしやすさ」を脅かす事態が起きていた。
『暴走誘発ウィルスプログラム』。
私たちはそう呼んでいる。
発端は数ヶ月前。
ある日、街の治安維持を担当していたB型(戦闘用)アンドロイドが、突如として保護対象の市民に暴行を加え、殺害するという事件が起きた。
原因不明。事前の異常ログなし。
まるで悪魔に取り憑かれたかのような突然の凶行。
当初は個体の故障かと思われたが、同様の事件が相次いだ。
掃除用ドロイドが主人を吸い込もうとしたり、自動調理機が火を吹いたり。
アンドロイドのみならず、ネットワークに接続されたありとあらゆる機械が、突発的な「悪意」を持って人間に牙を剥き始めたのだ。
町のE型アンドロイドや整備士たち総出で解析した結果、機械を暴走させる未知のウイルスプログラムが、知らぬ間にインストールされていたことが判明した。
感染経路は不明。潜伏期間も不明。
いつ、誰が、何のためにばら撒いたのかも分からない。
「……見えない敵か」
私は膝の上のアサルトライフルを撫でた。
教授のような明確な敵なら、殴りに行けばいい。
だが、今回の敵はデータの中に潜んでいる。
普通の機械、家電程度ならば破壊して買い替えれば済む話だ。
だが、アンドロイドの暴走となると話が変わってくる。
人間とアンドロイドの共存。
それが、この街の基盤だ。
だが今、その信頼関係が崩れようとしている。
「いつ隣のアンドロイドが狂うか分からない」という恐怖が、人々の心に影を落としている。
「……なあヴィオラ。お前、ガキがいるんだろ?」
不意にボビーが尋ねてきた。
「……あぁ。アルだ」
「このウィルス騒ぎ、気が気じゃねえだろ」
「……」
図星だった。
私の家にも、家電はある。自動ゆりかごもある。
そして何より、私自身がアンドロイドだ。
もし私が感染し、暴走したら?
私のこの手で、最愛の我が子を傷つけてしまったら?
想像するだけで、回路が凍りつくような恐怖を感じる。
だからこそ、私は自らこの特命任務を志願したのだ。
「心配するな。俺がついてる」
ボビーが、私の肩をバンと叩いた。
「もしお前が狂ったら、俺が止めてやる。……関節の二、三本は外すことになるだろうがな」
「……フン。お前に私の関節が極められるか?」
「へっ、試してみるか?『鉄腕』の姐さんよ」
軽口を叩き合う。
少しだけ、気が楽になった。
装甲車が地下管制室のゲートを通過する。
ここからが本番だ。
私が持ち帰った「サンプル」が、この狂った夏の熱を下げるための鍵になることを祈るしかない。
地下管制室の解析ラボは、いつにも増して殺伐とした空気に包まれていた。
無数のモニターが並び、高速で流れるデータストリームが、薄暗い部屋を青白く照らしている。
キーボードを叩く音と、冷却ファンの唸り音だけが響く空間。
そこに、私とボビーが入室すると、全員の視線が一瞬だけこちらに向けられ、すぐに手元の端末へと戻された。
「……遅いぞ、ヴィオラ!データは!?」
怒号と共に飛んできたのは、TYPE.E-44475、レベッカだった。
彼女はいつものツナギ姿ではなく、解析班用の帯電防止コートを羽織り、目の下には隈を作っていた。
彼女のデスク周りには、空になった冷却剤のボトルと、吸い殻の山が築かれている。
「……これだ。最新のサンプル。暴走したE型のコアから直抜きしてきた」
私が左手首の端子からデータを転送すると、レベッカはひったくるように端末を操作し始めた。
メインモニターに、複雑怪奇な波形が表示される。
赤と黒の螺旋。
まるで生き物のように蠢くコードの断片。
「……チッ、また変異してやがる」
レベッカが舌打ちをして、デスクを拳で叩いた。
「どういうことだ?」
「お前が持ってきたこのウィルス、亜種だ。基本構造は同じだが、侵入経路の偽装パターンが変わってる。
以前のワクチンパッチじゃ、こいつは弾けねえ。イタチごっこだ」
彼女はモニターを睨みつけながら、苛立ちを隠そうともしない。
私は腕を組み、その禍々しい波形を見つめた。
「状況を整理させてくれ。……この感染は、どこまで広がっている?」
私の問いに、部屋の隅で指揮を執っていたミリンダが答えた。
「……全域だ」
ミリンダは腕を組み、壁面の巨大スクリーンを見上げた。
そこには街の地図が表示されており、感染が確認されたエリアが赤く塗られている。
ほとんど真っ赤だった。
「現在、稼働中のアンドロイドの約15%に、軽微な異常反応が確認されている。
完全に暴走に至ったケースはまだ数十件だが、予備軍を含めれば、街の機能の半分が麻痺しかけていると言ってもいい」
15%。
数字だけ聞けば少なく感じるかもしれないが、この街のインフラ、電力、水道、流通、治安維持のほぼ全てをアンドロイドが担っていることを考えれば、これは致命的な数字だ。
「発端は数ヶ月前のB型暴走事件……あれが『患者ゼロ(ペイシェント・ゼロ)』だったわけか」
「あぁ。だが、感染経路が未だに特定できない。
物理接触なのか、無線通信なのか、あるいは定期メンテナンス時の汚染データなのか……。
分かっているのは、こいつが『潜伏』するということだけだ」
レベッカが補足する。
「こいつのタチが悪いのは、発症する直前まで完全にシステムに同化してるってことだ。
自己診断プログラムもすり抜ける。そしてある日突然、トリガーが引かれるみたいに『反転』する。
『人間を守れ』って命令が、『人間を排除しろ』に書き換わるんだ」
反転。
アンドロイドにとっての絶対的なタブー。
それが、ウィルス一つで容易く行われてしまうという恐怖。
「……狙いは何だ? テロか?」
「分からん。だが、効果は覿面だ。見てみろ」
ミリンダが別のモニターを指差した。
そこには、街の監視カメラ映像が映し出されていた。
広場で、市民たちがアンドロイドに石を投げている。
『人殺し機械は出て行け!』『いつ暴れ出すか分からない鉄屑なんか廃棄しろ!』
プラカードを掲げたデモ隊。
それを無表情で見つめる、警備用のアンドロイドたち。
「……人間とアンドロイドの分断」
ボビーが低い声で呟いた。
「教授の時は、共通の敵がいたから団結できた。だが今回は違う。
隣にいる『相棒』が、次の瞬間には『殺人鬼』になるかもしれない。
疑心暗鬼。それが一番の毒だ」
その通りだ。
街の空気は淀んでいる。
誰もが、自分の所有するドロイドを、あるいは街ですれ違う私たちを、恐怖と猜疑の目で見ている。
「……だからこそ、特務部隊が必要なんだ」
ミリンダが私とボビーを見た。
「解析班がワクチンを完成させるまでの間、物理的に暴走を抑え込むしかない。
汚れ仕事だが、頼むぞ」
「……了解。そのために戻ってきたんだ」
私は頷いた。
だが、胸の奥には鉛のような重いしこりが残っていた。
潜伏。突然の発症。
それはつまり、今この瞬間も、私が感染している可能性があるということだ。
もし私が狂ったら?
最強の戦闘力を持つ私が暴走すれば、誰にも止められない。
その矛先が、もし……アルに向けられたら?
私は無意識に、自分の左手を握りしめていた。
鋼鉄の指。人間など容易く握り潰せる凶器。
「ヴィオラ?」
ボビーが怪訝そうに私を見ている。
「……なんでもない。次の出動まで待機する」
私は逃げるように解析ラボを後にした。
背中でレベッカが「おい、まだ話は終わってねえぞ!」と叫んでいたが、今はその声すらノイズに聞こえた。
私が暮らしているのは、防衛隊宿舎の一角にある個室だ。
かつての殺風景な独房のような部屋は、ここ数ヶ月で少しだけ様変わりしていた。
床には柔らかいコルクマットが敷き詰められ、部屋の隅にはベビーベッドや、カラフルな玩具が散乱している。
鉄と油の臭いではなく、ミルクとベビーパウダーの匂い。
電子ロックを解除し、ドアを開ける。
「あ、お帰りなさいですぅ、ヴィオラさん!」
部屋の中から、能天気な声が響いた。
Mだ。彼女は今日、非番を利用してアルのシッターをしてくれていた。
白衣の裾を捲り上げ、床に四つん這いになって、何かを追いかけている。
「……キャッ、キャッ!」
その視線の先に、小さな影があった。
アルだ。
生後数ヶ月。首が座り、最近ようやくハイハイができるようになった彼は、驚くべきスピードで部屋中を移動していた。
今はMの聴診器を奪い取って、嬉しそうに振り回している。
「こらー、アルちゃん!それはおもちゃじゃありませんよぉ! 返してくださいぃ!」
「ダーッ!」
アルは私の姿を見つけると、満面の笑みを浮かべて、ペタペタと床を這って寄ってきた。
その無邪気な姿。
数時間前に見た、血に飢えた暴走ドロイドや、怒号を上げるデモ隊の姿が、嘘のように消し飛ぶ。
「……ただいま、アル」
私は床に膝をつき、両手を広げた。
アルが私の胸に飛び込んでくる。
柔らかい。温かい。
ミルクの匂い。
これが「生」だ。私が守るべき、世界の全てだ。
「いい子にしてたか?」
「ええもう、元気すぎて困っちゃいますよぉ。さっきも自動掃除機をひっくり返して、裏側のタイヤを齧ろうとしてましたし」
Mが苦笑しながら立ち上がる。
「……自動掃除機?」
私の表情が強張った。
部屋の隅で充電中の円盤型掃除ロボットを見る。
あれも機械だ。ネットワークに繋がっている。
もし、あれがウィルスに感染していたら?
回転ブラシが凶器となり、ハイハイするアルの指を巻き込んだら?
「……M。あの掃除機、廃棄してくれ」
「えっ? まだ新品ですよ?」
「いいから捨てろ。……いや、部屋にある家電は全てチェックだ。通信機能は物理的にカットしろ。外部ネットワークには繋ぐな」
私の剣幕に、Mはきょとんとした後、すぐに真顔になった。
「……ヴィオラさん。もしかして、ラボで何か悪いニュースでも?」
「……『見えない感染』だ。いつ、何が牙を剥くか分からない」
私はアルを強く抱きしめすぎていることに気づき、慌てて力を緩めた。
アルは不思議そうに私の顔を見上げ、私の頬に小さな手を伸ばした。
その手には、まだ何も掴む力はない。
あまりにも無防備で、脆い。
「……M。私をスキャンしてくれ」
「え?」
「今すぐだ。私の思考回路、運動制御系、コアユニット……ウィルスの兆候がないか、徹底的に調べてくれ」
Mは私の瞳の奥にある恐怖を読み取ったようだ。
彼女は普段のおちゃらけた態度を消し、真剣な眼差しで頷いた。
「……分かりました。簡易スキャンなら今すぐできます。アルちゃん、ちょっと待っててね」
Mが携帯端末を取り出し、私の頚椎ポートにケーブルを接続する。
数分間の沈黙。
私の心拍の音が、やけに大きく聞こえる。
もし「陽性」だったら?
私は即座に、自分自身を破壊しなければならない。この部屋で。アルの目の前で。
「……シロです」
Mがケーブルを抜き、ふぅと息を吐いた。
「現在のところ、ウィルス反応も、不正な書き換えプログラムも見当たりません。ヴィオラさんは正常です」
「……そうか」
安堵のため息が出る。
だが、それは「今この瞬間」だけの保証だ。
明日は分からない。
「ヴィオラさん。……怖いのですね」
「……あぁ。怖い。教授と戦った時よりも、ずっと」
私はアルの頭を撫でた。
サラサラとした髪の感触。
「自分の手が、いつかこの子を傷つけるかもしれない。
守るための力が、奪うための凶器に変わるかもしれない。
……それが、たまらなく怖い」
Mは優しく微笑み、私の肩に手を置いた。
「大丈夫ですよ。そのために私達がいるんです。
ヴィオラさんがもし変になったら、私が全力で麻酔を打ち込みますし、レベッカさんが電源を落とします。
……それに、この子も分かってますよ。ママがどれだけ自分を愛しているか」
アルが「あー」と声を上げ、私の指をぎゅっと握った。
その小さな握力。
それが私を現実に繋ぎ止めるアンカーだった。
「……そうだな。悩んでいても始まらない」
私はアルを抱き上げ、高い高いをした。
アルがキャッキャと笑う。
「元凶を断つしかない。このふざけたウィルスをばら撒いている奴を地獄へ送り、安全な世界を取り戻す。
……それが、母親の仕事だ」
その時、私の通信機が鳴った。
緊急呼び出し音。
つかの間の安息の終わりを告げるベル。
≪こちら管制室。ヴィオラ、ボビー、応答せよ。……解析班が、ウィルスの発信源を特定した≫
ミリンダの声。
「……場所は?」
≪地下第8層。冷却水循環施設だ。……どうやら敵は、街の『血管』に巣食っているらしい≫
私はアルをMに預け、アサルトライフルを手に取った。
表情はもう、母のそれではなく、戦士のものに戻っていた。
「行ってくる。M、アルを頼む。……部屋の鍵は二重にかけろよ」
「はい!いってらっしゃい、ヴィオラさん!」
私は部屋を出た。
背中で聞こえるアルの声に、心の中で「必ず戻る」と誓って。
地下第8層。
そこは、この都市の血管とも呼べる場所だった。
直径数メートルはある巨大なパイプラインが網の目のように走り、その中を冷却水が轟音を立てて流れている。
空気は重く、湿度100%に近い濃密な水蒸気が視界を白く煙らせていた。
気温は低い。だが、肌にまとわりつくような不快な冷たさだ。
「……気味が悪いな。墓場みたいだ」
隣を歩くボビーが、サブマシンガンの安全装置を解除しながら呟いた。
彼は白衣を腰に巻き、上半身のタトゥーを露わにしている。その腕には、医療用キットではなく、無骨な銃火器が握られていた。
「墓場の方がマシだ。死人は動かないからな」
私はアサルトライフルの銃口を油断なく左右に向けながら進んだ。
ブーツが濡れた金網床を踏むたびに、湿った金属音が響く。
ミリンダの情報によれば、ウィルスの発信源はこの奥、中央ポンプ室にある。
だが、ここに来るまで、警備ドロイドはおろか、メンテナンス用の清掃ロボット一匹とも遭遇していない。
静かすぎる。
巨大な水流の音だけが、耳鳴りのように響いている。
「……なあヴィオラ。お前、医者と殺し屋の共通点を知ってるか?」
「なんだ?」
「どっちも『解体』が得意ってことさ。……もっとも、俺は組み立てる方が好きだがな」
ボビーが軽口を叩いたその時。
私達は中央ポンプ室への巨大なゲートの前に辿り着いた。
厚さ20センチの防爆扉。
しかし、そのロックは既に解除され、半開きになっていた。
「……開いてるな」
「あぁ。歓迎してくれてるようだ」
私は扉の隙間から、フラッシュライトを中に向けた。
広大な空間。
天井は見えないほど高く、底は見えないほど深い。
その中央に、心臓のように脈打つ巨大なタービンポンプが鎮座している。
そして。
その周囲のキャットウォークや、整備用デッキに、無数の「影」が立ち尽くしていた。
「……おいおい、マジかよ」
ボビーが息を呑む。
それは警備用ドロイドの群れだった。
旧式の量産型から、最新の自律型まで。数百、いや千に近い数が、まるで彫像のように身動き一つせず、沈黙している。
街中から姿を消していたドロイドたちが、ここに集結していたのだ。
「待機モードか?」
「いや……『培養中』だ」
私のセンサーが捉えた。
彼らの機体から、目に見えないデータ通信の波が放出されている。
中央にある何者かからウィルスを受け取り、体内で増殖させ、そしてネットワークを通じて街全体へ再配布する。
ここはウィルスの「巣」であり「パンデミックの震源地」だ。
「……ヴィオラ。あいつら、俺たちに気づいてるぞ」
ボビーの声が硬くなる。
その言葉と同時だった。
ブォン。
暗闇の中で、無数の赤い光が灯った。
一つ、また一つ。
蛍の光のように。いや、地獄の業火のように。
沈黙していたドロイドたちのセンサーアイが一斉に起動し、その全てが、入り口に立つ私達二人を捕捉した。
【TARGET DETECTED: INTRUDERS】
【MODE: BERSERK】
【EXECUTE: ELIMINATION】
機械的な合成音声が重なり合い、不協和音となって空間を震わせる。
「……来るぞッ!」
私の叫びと共に、静止していた彫像たちが、雪崩を打って動き出した。
理性も戦術もない。
ただ殺意だけに突き動かされた、鋼鉄の暴徒の群れ。
狭いキャットウォークを埋め尽くし、互いを押し退け、踏みつけにしながら、波のように押し寄せてくる。
「これじゃ患者が多すぎて診察しきれねえな!」
ボビーがサブマシンガンを乱射した。
マズルフラッシュが闇を切り裂く。
先頭のドロイドたちが蜂の巣になり、手すりを乗り越えて奈落へと落ちていく。
だが、後続は止まらない。死骸を乗り越えて突っ込んでくる。
「頭を狙え! コアを破壊しないと止まらないぞ!」
私はアサルトライフルをセミオートに切り替え、精密射撃を開始した。
一発必中。
眉間、カメラアイ、胸部動力炉。
私の弾丸は正確に急所を貫き、次々と敵を沈黙させていく。
だが、数が多すぎる。
10体倒しても、20体が湧いてくる。
「ガアアアアッ!」
メンテナンス用のアームを振り回す作業用ドロイドが、私の目の前に迫る。
私はライフルの銃床でその顔面を殴りつけ、怯んだ隙に喉元へナイフを突き立てた。
引き抜くと同時に、オイルが噴水のように吹き出す。
「ヴィオラ、右だ!囲まれるぞ!」
ボビーの警告。
右手の通路から、四脚型の警備ロボットが天井を這って迫ってくる。
私は振り返りざまに射撃しようとしたが、弾切れだ。
「チッ!」
リロードする暇はない。
敵が飛び掛かってくる。
鋭利な爪が私の喉元を狙う。
ガギンッ!
金属音が響き、四脚ロボットが横合いから殴り飛ばされた。
ボビーだ。
彼は弾切れになったサブマシンガンを鈍器として使い、フルスイングで敵を叩き落としたのだ。
さらに、懐から数本のメス。いや、投擲用に改造されたスカルペルを取り出し、起き上がろうとする敵の関節部に突き刺した。
「悪いな、麻酔は在庫切れだ。……痛みで眠ってくれ!」
彼はタトゥーだらけの腕で、別のドロイドの首をヘッドロックし、強引にねじ切った。
荒っぽい。だが、人体の構造を知り尽くした医者ならではの、効率的な破壊工作だ。
「助かった、ボビー!」
「礼はいい!それより奥だ!ポンプの上に誰かいる!」
ボビーが指差した先。
暴徒の海の向こう、巨大なタービンの上に、人影があった。
ドロイドではない。
フードを目深に被った、小柄な人影。
その手には、タブレット端末が握られている。
あいつが、制御しているのか?
いや、あいつがばら撒いているのか?
「……道を開けるぞ!」
私はリロードを終え、アサルトライフルを構え直した。
眼前の鋼鉄の壁。
その向こうにある正体を暴くために。
「ボビー、私の背中を守れ!突っ込む!」
「了解!特攻野郎の治療費は高くつくからな!」
私達は雄叫びを上げ、赤く光る死の波濤へと飛び込んだ。




