あの日の出来事
ーside 孝成ー
“あの日”。もう取り返しのつかないあの日。
夜ご飯を一緒に食べて、いつもならこれからソファで二人でくつろごうという時間。
アオイは、どこか思い詰めたような顔で俺の前に立った。
なんとなく、嫌な予感がした。
「ねえ、コウセイ。僕、この家 出ようと思う」
「は……? なんで……?」
「僕がこの家にいることが、ひょっとしたらコウセイのストレスになってるんじゃないかなって。
僕たち、ちょっと距離を取ったほうが、これからもいい関係でいられるかもって思ったんだ」
「それは……別れたいってこと?」
「違うよ! ここに住むのをやめるだけ!」
「つまり、俺から逃げたいってことだろ?」
「逃げたいわけじゃない。別れるつもりもない。コウセイのこと、ずっと変わらずに大好きだよ。 ──でも、殴られるのだけは嫌い」
「嫌い……」
「少し離れて、週の何回か、とか、外で待ち合わせてさ。付き合いはじめの恋人みたいに。
お金も貯まってきたから、コウセイに迷惑かけずに部屋も借りれると思う。保証人にはなってもらわないといけないかもしれないけど……。
バイトも再開する。でね、そうやってちょっとずつ……」
アオイは何かずっと必死に言っていたけれど、”嫌い“という言葉の後から、俺の頭の中では その単語ばかりがずっと繰り返し響いていた。
「コウセイ? 聞いてる?」
「聞いてるよ。嫌いだから、俺から離れたいって」
「全然、聞いてないじゃん!」
「うるせぇよ! いつから口答えできるようになったんだ⁉︎」
あぁ、ダメだ。まただ。でも、こうなってしまったら、自分を抑えることなんて、出来やしなかった。また“自分”が、すっと遠くに行く感覚がする。
“俺”は、アオイを 殴った。蹴った。
「やめて! おねが……っ 痛っ…… やめっ……!」
「あれぇ? お前、痛みなんて感じんの? 殴ってる俺の方が痛いんだけど?」
「いた、くない……! でも、やめて!」
「なんでわかってくれないんだよ! なんで別れるなんて言うんだよ!」
「わかってない……のは、話を聞いて、くれてないのは……コウセイのほう!」
「だから、口答えしてんじゃねぇよ」
俺は、アオイの口を手のひらでふさいだ。
「んん!……ぐぅ……うう!」
「しゃべるな。もう、二度としゃべんなよ」
もう、力の加減なんてわからなかった。とにかく今は、アオイの声を、言葉を、聞きたくなかった。
次にアオイが口を開いた時、何を言われるかと思うと、ついに別れの言葉を吐かれるのではないかと思うと。
「んんっ……んっ……」
こわい。こわい。こわい。
お願い、嫌いだなんて言わないで。俺から離れて行かないで。
──そのうち、アオイのバタバタと暴れていた足は抵抗をやめて、指の跡がつくほど俺の腕を握りしめていた手が、力なく離れた。
「わかって、くれた?」
……返事がない。動かない。
「……あれ? アオイ……?」
「────」
「なあ、おい。気絶してんじゃねぇよ。起きろよ」
「────」
「アオイ! なんか言えって! 寝たふりすれば終わるとでも思ってんのか⁉︎」
「────」
「ねぇ、起きる……よね?」
おしまい。




