第八話 三方ヶ原、家康の悪夢は首で覚める
織田家の天下布武は、信勝の「首外交」によって、もはや誰もが想像しなかった速度で進んでいた。将軍義昭は、信勝の存在に恐怖し、信長の権威を素直に認めるに至った。信長は、この勝利を喜ぶべきなのか、それとも、この恐ろしい弟に戦慄すべきなのか、わからなくなっていた。
「殿……次は、徳川殿との同盟を、より強固なものにすべきかと」
家臣たちが、信長にそう進言した。信長は黙って頷いた。武田信玄が既に討たれている今、東海道を完全に制圧することは、天下布武への道を盤石にする。信長は、家康の才覚を高く評価していた。この男は、信長と並び立つ、真の天下の器だ。信長は、家康との絆を、政治的な駆け引きではなく、心からの信頼で結びたいと願っていた。
だが、信長の脳裏に、不穏な予感がよぎる。
(まさか……)
信長は、すぐさま信勝の居所を探させた。だが、信勝の姿は、すでに城内にはなかった。信長の予感は、的中した。信勝は、またしても、信長の思惑など知る由もなく、自らの判断で行動していた。
その日の夜、信勝は、夜の闇に紛れ、ただひたすらに遠州へと向かっていた。彼の顔には、疲労も、感情もない。ただ、次なる「任務」を遂行する、冷徹な仕事人の顔があった。
遠江の三方ヶ原。
史実では、武田信玄の大軍に追いつめられ、家康が屈辱的な大敗北を喫するはずの場所だ。だが、この世界では、信玄は既に信勝に討たれている。武田軍は、信玄というカリスマを失い、統率を欠いていた。家康は、その事実を知り、この機を逃すまいと、弱体化した武田軍を討つべく、兵を進めていた。
家康は、自らの才覚を信じていた。信長との同盟、そして武田軍の弱体化という好機。すべては、家康が天下を掴むための、計算された筋書きだった。
その時だった。
家康の陣幕に、静かな足音もなく、一人の男が入ってきた。その男の顔に、家康は覚えがあった。織田信長の弟、織田信勝。信勝は、一切の返事をせず、ただ静かに一歩、また一歩と、家康に近づいてくる。家康の顔から、血の気が引いていく。その男の瞳に宿る、無感情な光。それは、今川義元、武田信玄、そして上杉謙信の命を奪った、死神の目だった。
信勝は、家康の前に来ると、懐に手をやった。家康は、思わず身を固くする。
信勝は、静かに、そしてゆっくりと、家康に告げた。
「家康殿。武田はすでに兄上に従属しております。……これ以上、攻め立てる必要はありません」
その言葉は、家康の脳裏に、雷鳴のように響いた。
(え……? 武田が……もう織田に従っているだと?)
家康の頭の中は、一瞬にして真っ白になった。信勝の言葉が、彼のすべての計算、すべての計画を、音を立てて崩壊させていく。
(では……自分の戦の意味は? 矜持は? 天下への道筋は? すべて、意味のないことだったというのか……!)
信勝は、家康の顔色など気にせず、ただ淡々と続けた。
「三方ヶ原は、武田が兄上に降伏するための儀式でした。家康殿は、その儀式を、汚そうとしている。それは、非効率的です」
家康は、全身が冷たくなっていくのを感じた。歯の根が合わず、ガチガチと音を立てる。この男は、自分を「人間」として見ていない。ただ、兄の天下布武という「仕事」の邪魔をする、余計な「手間」として見ているだけだ。
信勝は、静かに刀を抜き、その刃先を、家康の喉元へと向けた。
「それでもなお戦うおつもりなら、家康殿の首を兄上に届けるだけです」
その言葉に、家康のプライドと野心は、完全に砕け散った。彼は、信長との同盟、そして武田軍の弱体化という好機を、自らの才覚で天下を掴むための、計算された筋書きだと信じていた。だが、そのすべては、信勝の「首外交」によって、最初から無意味だった。
(夢想していた三方ヶ原での敗走すら……許されないのか……)
家康は、敗北という屈辱すら、自らの手で味わうことを許されない。信勝によって、そのすべての道筋を、完璧に、そして残酷に消し去られた。
「……従おう。織田殿に、従おう」
家康は、絞り出すような声でそう告げた。信勝は、無言で一礼し、踵を返した。去り際、家康に、静かに一言付け加えた。
「……賢明なご選択です」
信勝が去った後も、家康は、震えが止まらなかった。彼は、信勝という存在が、信長という男を遥かに凌駕する「怪物」であることに気づいた。信長は、盟友として接してくれる。だが、信勝は違う。彼は、ただ、命令を遂行するだけの、冷たい「仕事人」なのだ。
信長の天下布武は、もはや信長自身の力で成し遂げる夢ではなく、信勝という名の「死神」が、ただ黙々とこなしていく、冷たい「仕事」になりつつあった。




