第六話 川中島、終わりの首
美濃の攻略は、信勝の「一夜首」によって呆気なく終わった。信長は、自らの才覚を賭けた「一夜城」が虚しいハリボテと化したことに、深い虚無感を覚えていた。天下布武への道は開かれたが、それは信長自身の努力の積み重ねではなく、弟の、感情を伴わない効率的な「仕事」の結果だった。
信長は、苛立ちと焦りを募らせながらも、次の手を打った。上洛を阻む者たちを排除するため、畿内へと兵を進める。だが、その前に、天下の趨勢を左右する、ある重大な報せが信長のもとに届いた。
「殿! 武田信玄、上杉謙信が、川中島にて再び対陣! いよいよ、両雄の雌雄が決せられるかと!」
信長は、その報せに息をのんだ。武田信玄と上杉謙信。戦国最強の二人の武将が、ついに決戦を迎える。信長にとって、これは絶好の機会だった。両者が疲弊したところで、一気に天下を狙う。それが、信長の描いた筋書きだった。
だが、信長の脳裏に、不穏な予感がよぎる。
(まさか……)
信長は、すぐさま信勝の居所を探させた。だが、信勝の姿は、すでに城内にはなかった。信長の予感は、的中した。
その日の夜、信勝は、雨が降りしきる夜の山道を、ただひたすらに走っていた。彼の足音は、雨音にかき消され、誰にも気づかれることはない。彼の顔には、疲労も、感情もない。ただ、次なる「任務」を遂行する、冷徹な仕事人の顔があった。
川中島。
霧が深く立ち込める平野で、武田軍と上杉軍は、互いに睨み合っていた。湿気を含んだ甲冑がじっとりと肌に張り付く。鼻腔に広がる汗と馬糞、そしてかすかな血の匂い。遠雷と太鼓の音が交錯する中、兵たちの緊張は最高潮に達していた。
武田信玄は、軍配を手に、上杉謙信の動きを読み解く。
(この軍配を振るのが、人生最後の仕事か……)
信玄は、静かにそう覚悟を決めていた。一方、上杉謙信は、馬に跨り、毘沙門天の旗を掲げていた。
(毘沙門天の化身として、武を証明する時が来た)
謙信は、心を燃やし、静かに敵陣を見つめていた。戦国最強の二人が、互いの命運を賭け、雌雄を決する。兵たちの高揚は、もはや狂気に近いものになっていた。
「これが天下分け目になる!」
足軽の一人が、震える声で呟く。
「この合戦を見届けられるのは、武士の冥利ぞ!」
武将たちが、高揚した声を上げた。
その時だった。
戦場の空気が、一瞬にして凍り付いた。遠雷と太鼓の音が消え、ただの静寂が広がる。霧の中から、血に濡れた布包みを携えた、一人の男が、音もなく現れた。彼の足音はしない。だが、兵たちは、彼が確かに近づいてくるのを感じ、錯覚に苛まれていた。
「し、信玄公が――!」
武田軍の陣営から、悲鳴が聞こえる。兵たちが、呆然とある一点を見つめている。武田軍の陣幕から、どさりと重い音が落ちる。太陽に照らされた草地に、重々しい甲冑とともに、巨体が横たわる。
ざわ……ざわ……。
謙信も、家臣たちも、言葉を失った。
「勝ったのか……?」
誰かの震える声が、その場に木霊した。
信勝は、謙信の前に来ると、ドサリと布包みを床に置いた。包みが解け、中から現れたのは、血に濡れた武田信玄の首級だった。
謙信は、信勝の顔を見て、息をのんだ。その瞳に、怯えも、怒りもない。ただ、任務を完遂した男の、異様なまでの冷たさだけがあった。
信勝は、静かに、そしてゆっくりと、謙信に問いかけた。
「さあ、お選びください。兄に従うか、物言わぬ首になるか」
謙信は、意味を理解できなかった。兄? 誰のことだ? この男は、いったい何者なのだ?
彼の脳裏に、毘沙門天の教えが蘇る。義を重んじ、武を極める。この男は、そのすべてを、首一つで無意味にした。
(まさか……この男こそ、地獄の化身では……?)
信仰と自己認識が、音を立てて崩れていく。謙信は、信勝の瞳に、ほんのわずかな感情もないことを悟った。それは、生者に対する、感情を伴わない、ただの評価。彼の命は、信勝にとって、従属か、排除か、その二択でしかなかったのだ。
「……従おう」
謙信は、絞り出すような声でそう告げた。信勝は、無言で一礼し、踵を返した。去り際、謙信に、静かに一言付け加えた。
「兄上に伝えておけ。川中島は、霧ではなく血で晴れた、と」
謙信は、最後まで、その“兄”が誰を指すのか、理解できなかった。だが、この日、武田と上杉の雌雄は決した。
清洲城。
「武田と上杉が、織田に従属……だと?」
信長は、報せを聞き、茫然自失の表情で呟いた。信勝が、たった一人で成し遂げた功績。それは、信長が想像していたよりも遥かに大きなものだった。
信長の脳裏に、安堵の念がよぎった。
(これで、この信長が、天下布武を為すために、泥にまみれる必要はなくなった……)
だが、その安堵は、すぐに深い虚無感に変わる。
(いや、まて。これは、この信長が望んだ勝利ではない。これは、この信長の、物語ではない……)
信勝の顔が、信長の脳裏に鮮明に浮かぶ。天下布武は、もはや信長自身の力で成し遂げる夢ではなく、信勝という名の「死神」が、ただ黙々とこなしていく、冷たい「仕事」になりつつあった。




