第五話 美濃、一夜城の無意味化
浅井家の従属は、京への道を大きく開いた。だが、信長は喜べなかった。六角攻めに続き、浅井家との同盟を強化するはずだった軍略も、信勝の「首外交」によって無に帰したのだ。信長は、苛立ちのあまり、扇を何本も握り潰した。この男は、戦わずして勝利をもたらす、史上最強の武器であり、同時に、信長という人間を、無力な存在へと貶める、最悪の呪いでもあった。
信長は、次の標的を美濃の斎藤家に定めた。美濃は、難攻不落の堅城に守られた要衝だ。信長は、この美濃攻めこそ、自らの才覚と軍略を天下に示す絶好の機会だと考えていた。
軍議の席で、信長は家臣たちに命じた。
「美濃の斎藤を攻める!だが、正面から攻め落としては、多くの兵を失う。まず、一夜にして城を築き、敵を欺く!場所は……墨俣だ!」
家臣たちは、信長の壮大な軍略に息をのんだ。墨俣は、木曽川と長良川の合流点に位置し、築城には困難を極める場所だ。だが、この難題を乗り越えれば、織田の武威はさらに高まる。柴田勝家は、再び戦場に立てることに高揚し、丹羽長秀は、その合理的かつ壮大な計画に感嘆していた。
「殿!この長秀、必ずや一夜城を完成させてご覧に入れまする!」
家臣たちは皆、信長の軍略を信じ、それぞれの持ち場へと向かっていく。信長は、この光景を見て、ようやく安堵の笑みを浮かべた。
(今度こそ、お前の出る幕はない。これは、兵と知恵と、そして何よりも信長自身の創造力によって成し遂げられる、壮大な物語なのだから……)
だが、その日の夜、信勝はまたしても単身で城を抜け出した。信長は、斥候からその報を聞き、思わず天を仰いだ。
「まて! まだだ! まだ何も……!」
信長の言葉は、虚しく夜空に吸い込まれていった。信長は、翌日、墨俣へと向かう。そこでは、家臣たちが泥まみれになりながら、必死に資材を運び、城の基礎を築いていた。杭を打つたび、跳ねた泥水が冷たく背筋に貼り付く。松明の煙が目に染みて、誰もが顔を歪めた。それでも、誰も文句一つ言わない。これが、戦だ。これが、天下布武なのだ。
数日が過ぎた。一夜城は、着々とその姿を現していた。家臣たちの顔には、疲労と同時に、大きな達成感が浮かんでいた。彼らは、自らの手で歴史を創っている。そう信じていた。だが、その達成感は、ある報せによって、一瞬にして打ち砕かれる。
「殿……美濃の斎藤……斎藤義龍公が……!」
斥候が、顔面蒼白で駆け込んできた。信長は、その言葉に、胸騒ぎを覚えた。
「何を申しておる! 義龍がどうした!」
「義龍公が……家臣に裏切られ、首を斬られました! 一夜城とは関係なく……一夜のうちに、です!」
信長は、その場で言葉を失った。一夜城の築城が、まさに佳境を迎えようとしていたその時、美濃の主は、既にこの世にいなかったのだ。信長の脳裏に、信勝の無表情な顔がよぎった。
信長は、口元を引きつらせ、乾いた笑いを漏らす。「ハ、ハハ……馬鹿な……」その声は、虚しく広間に響いた。信長は、泥まみれになりながらも、誇らしげに一夜城の櫓を見上げていた家臣たちの顔を見回した。彼らの顔から、達成感は消え失せ、代わりに、虚しさと、得体の知れない恐怖が浮かんでいた。
信長は、自らの手で築き上げた一夜城を、ただ見つめることしかできなかった。それは、信勝の冷たい「仕事」によって、その存在理由を完全に失った、虚しいハリボテだった。
翌日、信勝が、静かに清洲城に帰還した。信長は、信勝を自身の部屋に呼び出し、怒りをぶつけた。
「信勝! なぜだ! なぜ、この信長が築き上げたものを、ことごとく無意味にする!」
信勝は、無表情のまま信長を見つめ返した。彼の手に、血の滲んだ布包みはなかった。
「兄上。私は、ただ兄上の『命令』に従っただけです」
「命令だと!? この信長は、お前に何も命じておらん!」
信勝は、静かに首を傾げた。「いいえ。兄上は、『美濃を攻略せよ』と命じました。であれば、最短距離で解決するのが、最も合理的かと」
その言葉に、信長は息をのんだ。
「軍勢を動かし、策を巡らせ、多くの血を流す。それは、非効率的です。敵将の首さえ獲れば、すべてが解決する。そう、判断しました」
信勝は、信長の顔など見ていない。ただ、機械のように淡々と、事実を述べるだけだ。信長の天下布武は、もはや夢でも、理想でもない。信勝という名の「死神」が、ただ黙々とこなしていく、冷たい「仕事」になりつつあった。
去り際、信勝は振り返りもせず、ただ静かに一言、付け加えた。
「一夜城より、一夜首の方が、効率的でした。では、次をお待ちします」
彼の天下取りは、戦術や戦略ではなく、たった一人の弟の、冷たい「任務遂行」によって、始まることになった。それは、史上最も非効率的で、そして、最も速い、天下統一の始まりだった。




