第四話 浅井朝倉、首を前にした選択
六角家の攻略は、信長が想像したよりもあっけなく終わった。一兵も失うことなく、信勝の「首外交」によって近江を制圧した報は、周囲の武将たちを戦慄させた。だが、信長は喜べなかった。六角家を正面から打ち破ることで、上洛への道を自らの手で切り拓くはずだった。その大仕事が、弟によって、ただの「通過点」に矮小化されてしまったのだ。信長は、苛立ちを扇に込めて握りしめ、その都度、家臣たちの顔色をうかがう。皆が皆、次の「軍議」はいつ開かれるのか、そして、その軍議がまたも無意味に終わるのではないかと、怯えているのが見て取れた。
信長は、次の標的を越前の朝倉家に定めた。朝倉攻めは、浅井家との同盟を破ることを意味する。信長は、義理堅い浅井長政が、まさか同盟を破ることはないだろうと信じていた。だが、内心では、信勝がまたしても勝手に動くのではないかと、得体の知れない不安に苛まれていた。このままでは、己の軍略はおろか、天下布武という夢そのものが、弟という「怪物」によって、ただの事務作業に変えられてしまう。
その不安は、的中した。
その日の夜、信勝はまたしても単身で城を抜け出した。信長は、斥候からその報を聞き、思わず天を仰いだ。
「また、か……」
苛立ちのあまり、信長は持っていた扇を握り潰した。紙と竹が軋む音が、信長の胸の内の葛藤を代弁しているようだった。だが、その胸の奥底で、ほんの一瞬、安堵の念がよぎった。
(これで……この信長が、浅井長政との間で、血を流す必要はなくなった……)
信長は、浅井家との同盟を、政治的な駆け引きや策略ではなく、心からの信頼で結んだつもりだった。だからこそ、朝倉攻めを命じることに苦悩していた。その苦悩を、信勝は、有無を言わさぬ暴力的な手段で解決してしまった。それは、信長にとって屈辱であり、同時に、心の底からの解放でもあった。
信勝は、雨が降りしきる夜の山道を、ただひたすらに走っていた。彼の足音は、雨音にかき消され、誰にも気づかれることはない。彼の顔には、疲労も、感情もない。ただ、次なる「任務」を遂行する、冷徹な仕事人の顔があった。
小谷城の広間は、静かな夜を迎えていた。外は雨が降り、雷鳴が遠くで鳴り響いている。浅井長政は、座敷で向かい合う家臣たちと、信長との同盟、そして朝倉への義理について、重苦しい議論を交わしていた。
「信長殿は、我らの義理を理解しておられるはず。まさか、朝倉を攻めるような真似は……」
その時、一人の家臣が、広間の隅に立つ一人の男の姿に気づいた。男は、雨でずぶ濡れになりながらも、静かに立っていた。
「殿……! 何者です!?」
男の顔を見て、長政は息をのんだ。それは、織田信長の実弟、織田信勝だった。信勝は、一切の返事をせず、ただ一歩、また一歩と、静かに広間の中心へと歩みを進めていく。彼の背後には、雨に打たれたのか、赤黒く濡れた大きな布包みが背負われていた。
布から滴る赤黒い雫が、畳に点々と落ちていく。その鉄の匂いが、湿った城内の空気に、じわじわと広がり始めた。家臣たちは、それがただの雨水ではないことを本能的に察し、顔色を失っていく。長政の額から、一筋の冷や汗が流れた。
信勝は、長政の前に来ると、背中の布包みを、音もなく床に下ろした。そして、布を解き放つ。
「浅井殿。遠路はるばる、手土産を持って参りました」
その言葉は、まるで親しい友人への挨拶のようだった。だが、その言葉とは裏腹に、布包みから現れたのは、血に濡れた朝倉義景の首級だった。
広間が凍り付く。
長政は、目の前に置かれた首を見て、絶句した。それは、つい先日、共に酒を酌み交わした男の顔だった。信勝の顔には、何の感情もない。ただ、任務を完遂した男の、冷たい静寂だけがある。信勝から漂う血の匂いに、長政の額から、また一筋、冷や汗が流れた。
長政の脳裏に、これまでの人生が走馬灯のように駆け巡る。父・久政から教えられた、武士の義理。朝倉への恩義。そして、何よりも、愛する妻・お市と、子の未来。この男は、それらすべてを、首一つで無意味にしようとしている。
(私は、織田信長を信じた。信長殿は、私を友と呼び、義を重んじる。だが……この男は違う……)
長政は、信勝の瞳に、ほんのわずかな感情もないことを悟った。それは、生者に対する、感情を伴わない、ただの評価。彼の命は、信勝にとって、従属か、排除か、その二択でしかなかったのだ。
信勝は、静かに、そしてゆっくりと、長政に問いかけた。
「さあ、お選びください。兄に従うか、物言わぬ首になるか」
長政は、絞り出すような声でそう告げた。
「……従おう。信長殿に、従おう」
信勝は、無言で一礼し、踵を返した。去り際、長政に、静かに一言付け加えた。
「……賢明なご選択です」
織田軍は、一兵も失うことなく、浅井家を従属させた。信長の「上洛」への道は、信勝の「最短距離での任務遂行」によって、あっという間に切り拓かれていく。
信長は、この勝利を喜ぶべきなのか、それとも、この恐ろしい弟に戦慄すべきなのか、わからなくなっていた。天下布武は、もはや信長自身の力で成し遂げる夢ではなく、信勝という名の「死神」が、ただ黙々とこなしていく、冷たい「仕事」になりつつあった。




