第三話 六角、逃げるか首を差し出すか
今川との戦が、まさかの形で終結して数ヶ月が過ぎた。織田の天下布武は、信長が想像したよりも遥かに早い速度で進んでいた。今川義元の首一つで東海道を制圧した報は瞬く間に広まり、尾張の威信はかつてないほどに高まった。だが、それは信長自身の功績としてではなく、信勝という得体の知れない存在への畏怖としてだ。
家臣たちは、信勝の姿を見るたびに、顔をこわばらせるようになった。特に、武辺者の柴田勝家は、信勝の行動を「武士の本懐を欠いた行為」と口には出さないものの、その表情には複雑な感情が渦巻いていた。一方で、丹羽長秀は信勝の「合理的」な思考に惹かれながらも、その人間離れした様相に、常に一線を引いている。
次に織田家が矛先を向けたのは、近江の六角家だった。信長は、上洛への道を阻む六角家を討つべく、軍勢を動員する。
清洲城の広間では、再び軍議が開かれていた。信長は六角攻めの策を家臣に問う。
「近江は、要衝ぞ。六角の城は、堅牢を誇る。策を練らねばならぬ」
信長の言葉に、家臣たちは皆、無意識に襖の方に視線を向けている。勝家は膝を組み、苛立ちを隠せない。
(六角を正面から打ち破ることこそが、織田の武威を天下に示す機会だというのに。またあの男が現れて、戦を台無しにするのではないか……)
長秀は、静かに信長の顔色を窺っていた。
(殿は、この軍議に意味がないと、心の底ではわかっている。それでも、あ己の理想を捨てきれずにいるのだ。だが、この場でいくら策を練ろうと、あの男の前では無力だ……)
信長は、家臣たちの視線に気づき、苛立たしげに扇を握りしめる。
「聞いているのか!策を申せ!この信長が、己の才覚で道を切り拓くのだ!」
家臣たちは、口々に策を述べた。だが、その声は皆、心ここにあらずといった様子だった。
その日の夜、信勝はまたしても単身で城を抜け出した。城門の番兵は、一瞬、黒い影が夜陰に走るのを見た気がした。馬でもない、風でもない、まるで存在しないものが通り過ぎたかのような不気味な感覚。彼らは互いの顔を見合わせ、首を傾げることしかできなかった。
六角義賢は、自慢の堅城に籠もり、織田軍を迎え撃つ準備を整えていた。陣幕の中は、油の匂いと湿った夜風が混ざり合い、蝋燭の炎が不安定に揺れていた。家臣たちを前に、彼は得意げに語る。
「織田の小僧どもに、この近江の地は踏ませぬ! わしらが防壁となり、天下に我らの武威を示すのだ!」
家臣たちは皆、主の言葉に力強く頷いた。特に、蒲生定秀は、その武勇を誇り、織田軍を迎え撃つことに自信満々だった。
「殿。我ら蒲生一族が、敵の先陣を食い止めまする。この堅牢な六角の城に、織田の小僧どもなど歯が立ちませぬ!」
その言葉に義賢も満足げに頷いた。だが、その時だった。
陣幕に響いたのは、乾いた音だった。信勝の声が、どこから響いたのか分からなかった。ただ、冷たい風が陣幕の中を通り抜けたような、そんな不気味な感覚だけが残った。
「六角殿。逃げますか? それとも首を差し出しますか?」
六角義賢は、顔をしかめた。
「何者だ! つまらぬ戯言を!」
その言葉に、信勝が静かに陣幕をくぐり抜けて入室する。彼の背後には、六角の重臣たちが、まるで石像のように、青ざめた顔で立ち尽くしていた。皆の顔に浮かぶ絶望は、まるで死神を目の前にしたかのようだった。
「……まぁ、逃げられませんが」
信勝は、そう呟くと、懐から小さな布包みを取り出し、卓の上に置いた。包みが開かれ、中から現れたのは、六角義賢の重臣、蒲生定秀の首級だった。
「蒲生様……!」
悲鳴にも似た声が上がった。義賢は息をのんだ。彼の自慢の武将が、いつの間に……。信勝の顔には、感情がない。ただ、任務を遂行する者の、異様なまでの静寂があるだけだ。
義賢の思考が、混乱の中を駆け巡る。
(どこに逃げ場がある? 城は堅牢だが、城主が斬られては意味がない。裏口から逃げられるか? いや、この男は、すでにすべての道を塞いでいる。まるで、出口のない迷路に閉じ込められたようだ……)
彼は、信勝という存在が、織田信長を遥かに凌駕する「怪物」であることに気づいた。信長は、戦を仕掛けてくる。だが、信勝は違う。彼は、戦そのものを、存在ごと消し去るのだ。
「さあ、お選びください。兄に従うか、物言わぬ首になるか」
六角義賢は、言葉を失った。彼のプライドも、野心も、信勝の「首外交」によって、一瞬で砕け散った。
「……従おう。織田殿に、従おう」
六角義賢は、震える声でそう告げた。信勝は、無言で一礼し、踵を返した。去り際、六角義賢に、静かに一言付け加えた。
「……賢明なご選択です」
織田軍は、一兵も失うことなく、近江を平定した。清洲城に帰還した信勝を前に、信長は苛立ちを隠せない。
「……また、か」
信長が命じた軍議は、またもや無意味に終わった。家臣たちは皆、安堵と恐怖の入り混じった表情で信勝を見つめている。
「軍議を続けろ! 次は京へ向かうのだ!」
信長はそう命じるが、誰一人として本気で策を練る者はいない。皆、心の中ではわかっているのだ。
(どうせ、またあの男が、首一つで全部終わらせてしまう……)
信長は、この勝利を喜ぶべきなのか、それとも、この恐ろしい弟に戦慄すべきなのか、わからなくなっていた。天下布武は、もはや信長自身の力で成し遂げる夢ではなく、信勝という名の「死神」が、ただ黙々とこなしていく、冷たい「仕事」になりつつあった。




