第二話 桶狭間、一瞬で終了
今川義元の首が転がされた広間は、静寂が支配していた。信勝が去った後も、家臣たちは言葉を失ったままだ。勝利の喜びよりも、得体の知れない恐怖がその場を覆っていた。香炉から立ち昇る白檀の香りは、義元の首から滴り落ちる血の、生々しい鉄の匂いにかき消されていく。その血が、畳の目を赤黒くじわじわと染めていくのを、皆がただ見つめていた。外の蝉の声だけが、やけにうるさく響いていた。この湿気と血の匂いが混ざり合った空間は、まるで死の気配を煮詰めた地獄の釜のようだった。
信長は、床に転がる義元の首と、広げられたままの血に濡れた作戦図を交互に見つめていた。その手は、無意識のうちに膝を強く握りしめ、爪が食い込み、白い筋が浮かび上がっていた。
(義元……。この信長が、己の才覚と謀略で打ち破るはずだった相手を……)
彼は、この勝利を心から喜べなかった。自らの手で天下を掴むことにこだわり、そのために戦のすべてを計算し尽くす。だが、信勝の行動は、その計算を根底から覆すものだった。
「殿……」
柴田勝家が、信長に声をかける。その顔には、悔しさと誇りが混じり合っていた。
「信勝様のなされたことは……殿の初陣を台無しにされたも同然。だが、確かに義元の首はここに……この武功、どう判断すればよいか……」
勝家は、信勝のやり方に反発しながらも、その武功の大きさに言葉を失っている。武辺者として、正々堂々たる大合戦こそが武士の本懐だと思っていた。だが、信勝のあの冷たさは、武士のそれではない。まるで、鬼か、修羅か。いや、新撰組、と信勝が呟いていたのを思い出し、勝家の思考はさらに混乱する。「新撰組……幕末の京の都を支配した人斬りの集団だと聞いたことがある。信勝様は、その生まれ変わりなのか?」
一方で、丹羽長秀は震える手で頭を掻いた。
「合理的だ……。義元公の首一つで、これほどの大軍が崩壊する。これほど効率的な策はない……」
その理屈に妙に納得してしまう自分がいることに、長秀は恐怖を覚えていた。彼は物事を論理で考えることを好む。信勝の行動は、感情や道徳を抜きにすれば、完璧な解答だ。だが、完璧すぎるゆえに、人間ではないと長秀は感じていた。
そして、前田利家は、信勝の去った襖の奥を怯えながらも見つめ、小さな声で呟いた。
「すげぇ……」
若き武者の素直な畏怖が、広間に広がる。その声に、周りの年長者たちが「軽口を叩くな!」と低く囁く。家臣たちの間で、恐怖と畏怖の波紋が広がっていく。
その日、今川軍は義元の死を知り、統率を失った。多くの兵が逃亡し、戦意を喪失した彼らは、織田軍に追撃されることもなく、散り散りになっていった。
数日後、生き延びた今川兵の証言が、清洲城に届き始める。
「夜道で、あの黒い影を見た……」
「馬でもない、風でもない、何かが夜陰に駆け抜けた。ただ、刀を引くような乾いた音だけが聞こえた気がする」
「……一瞬で終わった。あれは人間ではない……」
その証言の断片は、信勝の行動が、人の理解を超えた領域にあることを示していた。もはや信勝の存在は、城下の噂話として怪異じみたものに膨れ上がっていた。
信長は、信勝を自身の部屋に呼び出した。信勝の無表情な顔をじっと見つめる。信長の手は、内面の苛立ちを隠すかのように、持っていた扇を握り潰した。
「信勝。お前の行動は、理解できぬ。なぜ、何も語らぬのだ?」
その問いに、信勝は静かに答える。
「説明? 必要ありません。結果だけがすべてです」
信長の脳裏に、処刑場での出来事が蘇る。あの時、信勝は確かに、ただの信勝ではなかった。そして、その冷たい瞳に宿る思想は、信長の常識を遥かに超えていた。
「私にとって、義元の首を獲ることは、任務でした。軍議よりも、首一つの方が確実でしょう」
「……最短距離だと?」
信勝は静かに頷いた。
「はい。軍勢を動かし、策を巡らせ、多くの血を流す。それは、非効率的です。敵将の首さえ獲れば、すべてが解決する。そう、判断しました。私は戦を早く終わらせるために動いているだけです」
信長のプライドがえぐられる。
(俺が描いた初陣の勝利の絵図が、血の一滴で塗り潰された。天下布武を志す者として、この勝利を喜べぬ……)
信長は、信勝に問う。
「お前は……この信長の天下を、どのようにしたいのだ?」
信勝は静かに首を振った。
「天下布武……」
その言葉に、信長は息をのんだ。
「それが、兄上の望みであるのなら――」
信勝は、どこか遠い目をして、虚空を見つめた。
「私の命が、そのための道具となるのみ。私はただ、兄上の『命令』に従うだけです」
信長にとって、もはや天下布武は野心でも、嫉妬でもない。ただの、命令。ただの、仕事。その冷徹な言葉は、信長にとって、最高の武器であり、同時に、最も恐ろしい呪いでもあった。
信勝が部屋を出ていく。その背中を見つめながら、信長はただ一人、床に広がる血の滲んだ地図を眺め続ける。
去り際、信勝は振り返りもせず、ただ静かに一言、付け加えた。
「次をお待ちします。何を斬るのか、あらかじめ示していただければ、より迅速かと」
彼の天下取りは、戦術や戦略ではなく、たった一人の弟の、冷たい「任務遂行」によって、始まることになった。それは、史上最も非効率的で、そして、最も速い、天下統一の始まりだった。




