第十二話 天下統一、そして斬る相手なし
本能寺の変は、信勝の「首外交」によって、始まる前に帳消しにされた。明智光秀は、謀反の意志を砕かれ、生きながらにして死んだも同然だった。誰もが知るはずの歴史が、信勝という名の「死神」によって、一瞬で書き換えられてしまった。信長は、この勝利を喜ぶべきなのか、それとも、この恐ろしい弟に戦慄すべきなのか、もはやわからなくなっていた。
信長の天下布武は、信勝の超人的な「仕事」によって、もはや誰もが想像しなかった速度で進んでいた。今川、六角、浅井、朝倉、武田、上杉、徳川。本来ならば何年もかかったであろう戦いが、わずか数ヶ月で終わった。信長は、この勝利を心から喜べなかった。天下統一への道は開かれたが、それは信長自身の才覚や軍略によるものではなく、弟の、感情を伴わない効率的な「仕事」の結果だった。
信長は、ついに天下統一を成し遂げた。だが、その過程には、信長自身の物語が存在しなかった。軍勢を動かし、策を巡らせ、多くの血を流す。それは、すべて信勝の「首外交」によって、無意味なものに変えられた。信長は、自らの手で築き上げた安土城で、ただ一人、虚無感に苛まれていた。
安土城の天守から、信長は天下を見下ろす。琵琶湖は穏やかに輝き、城下には人々が平和に暮らしている。それは、信長が望んだ世界だった。だが、その世界は、信長が夢見た「物語」の結末ではなかった。
信長は、一人静かに、天守の最上階に座っていた。黄金に輝く天守は、信長の孤独を映し出す鏡のようだった。天下は統一された。だが、この勝利を共に分かち合う相手が、誰一人いない。光秀は、もはや生きながらにして死んだも同然。家康は、そのプライドを打ち砕かれ、信長の顔色を窺うだけの家臣と成り下がった。そして、信勝。あの男は、ただの「道具」に過ぎない。信長が語りたい「物語」など、あの男には理解できないのだ。
信長の脳裏に、これまでの戦いが走馬灯のように駆け巡る。
(今川義元……。桶狭間で、この信長が、自らの才覚で討ち取ったはずの男。だが、信勝は、わしが馬鹿な真似をする前に、そいつの首を獲ってきた。武田信玄……上杉謙信……。互いの兵を、命を、魂を削りあって、血と汗と涙で決着をつけるはずだった。だが、信勝は、わずか数日で、両雄の首を、この信長の前に並べた……)
信長は、目を閉じた。
(石山本願寺も、三方ヶ原も、そして、本能寺も……何も起こらなかった。わしが歴史書に名を刻むはずだった、すべての戦いが、何も起こらなかった……ならば、後世の歴史書には、何が書かれるのだ?)
信長の胸に、深い虚無感が広がっていく。この勝利は、信長自身の物語を、歴史から消し去った。
その日の夜、信勝を自身の部屋に呼び出した。信勝は、何も語らず、ただ静かに信長の前に座った。信長は、信勝の無表情な顔をじっと見つめる。
「お前は、この信長の天下を、どのように思う?」
信勝は、静かに首を振った。
「天下布武……」
その言葉に、信長は息をのんだ。信勝の瞳の奥にある、冷たい光。それは、かつて信長が天下布武を夢見ていた頃の、純粋な野心そのものだった。だが、信勝のそれは、感情を伴わない、ただの「命令」だった。
「それが、兄上が望む、唯一の真理であるのなら――」
信勝は、どこか遠い目をして、虚空を見つめた。
「私の命が、そのための道具となるのみ。私はただ、兄上の『命令』に従うだけです」
信長にとって、もはや天下布武は野心でも、嫉妬でもない。ただの、命令。ただの、仕事。その冷徹な言葉は、信長にとって、最高の武器であり、同時に、最も恐ろしい呪いでもあった。
信勝が部屋を出ていく。その背中を見つめながら、信長はただ一人、床に広がる血の滲んだ地図を眺め続ける。
去り際、信勝は振り返りもせず、ただ静かに一言、付け加えた。
「次をお待ちします。……何を斬るのか、あらかじめ示していただければ、より迅速かと」
信勝は、廊下へと出ると、独りごちた。
「斬る相手がいないのなら、風でも斬りましょうか……」
信勝は、静かに空を見上げた。
「……いっそ、時でも斬りましょうか」
彼の天下取りは、戦術や戦略ではなく、たった一人の弟の、冷たい「任務遂行」によって、始まることになった。それは、史上最も非効率的で、そして、最も速い、天下統一の始まりだった。




