第十話 安土城、斬る相手がいない男の憂鬱
石山本願寺との戦は、信長が想像していた長期戦にはならなかった。顕如は、信勝の「首外交」によって完全に戦意を喪失し、わずか数日で信長に降伏した。信長は、この勝利を心から喜べなかった。天下統一への道は開かれたが、それは信長自身の才覚や軍略によるものではなく、弟の、感情を伴わない効率的な「仕事」の結果だった。
信長は、天下布武の拠点として、琵琶湖のほとりに壮麗な安土城を築いた。五層七重の天守は、信長の権威と理想を象徴していた。信長は、この城を訪れるすべての武将に、自らの圧倒的な力を示そうとした。
だが、安土城の完成から数ヶ月、信勝は、城の片隅で、ただ静かに過ごしていた。彼の顔には、疲労も、感情もない。ただ、次なる「任務」を待つ、冷徹な仕事人の顔があった。だが、その任務は、いつまで経っても下されない。
信勝は、城内を一人で散策していた。豪華絢爛な装飾、金箔、天井絵、唐獅子屏風。信勝の瞳には、それらはただの「非効率的」なものとして映っていた。
(兄上は、なぜ、これほどまでに手間をかけるのだろうか……)
信勝にとって、城はただの入れ物だ。天下統一という「任務」を遂行する上で、城の豪華さなど、何の意味もなさない。信勝は、静かに天守の最上階に立ち、琵琶湖を眺めた。
安土城の豪華絢爛な装飾は、信勝の冷徹な目に、別の意味で映っていた。「金箔は、埃が溜まりやすく、手入れが面倒だ。天井絵は、火事になれば延焼が早い。唐獅子屏風は、いざという時に、逃げ道を塞ぐ」信勝は、静かにそう考えていた。
信長の理想が詰まったこの城は、信勝の存在によって、その存在理由を完全に失っていた。信勝の「首外交」によって、天下は既に統一されつつある。安土城は、もはや天下布武の象徴ではなく、信長自身の虚栄心と、信勝の効率的な「仕事」との、埋められない溝を象徴する、虚しいハリボテだった。
その日の夜、信長は信勝を自身の部屋に呼び出した。信勝は、何も語らず、ただ静かに信長の前に座った。
「信勝……」
信長の声は、どこか疲れていた。
「お前の『仕事』のおかげで、天下はほぼ統一された。もはや、我らに敵対する者はおらぬ」
信勝は、無表情に頷いた。
「よって、お前の『任務』は、もうない」
信勝は、その言葉に、わずかに瞳を揺らした。それは、驚きでも、喜びでも、悲しみでもない。ただ、任務がなくなったことに対する、戸惑いだった。
信長は、信勝の瞳の奥にある虚無を見つめ、思わず身震いした。
(これで……この信長は、ようやく心安らかに眠れる……。もう、いつ弟が勝手に動き出すのかと、怯える必要はないのだ……)
信長の心の奥底で、安堵の念が広がっていく。だが、その安堵は、すぐに別の感情に侵食されていった。
(しかし……この勝利は、この信長が望んだものだったのか? この信長の物語は……どこへ消えた……)
信長のプライドが、音を立てて崩れていく。天下布武という夢は、たった一人の弟によって、ただの事務作業に貶められた。
信長は、信勝に問う。
「お前は……この信長の天下を、どのように思う?」
信勝は静かに首を振った。
「天下布武……」
その言葉に、信長は息をのんだ。
「それが、兄上の望みであるのなら――」
信勝は、どこか遠い目をして、虚空を見つめた。
「私の命が、そのための道具となるのみ。私はただ、兄上の『命令』に従うだけです」
信長にとって、もはや天下布武は野心でも、嫉妬でもない。ただの、命令。ただの、仕事。その冷徹な言葉は、信長にとって、最高の武器であり、同時に、最も恐ろしい呪いでもあった。
信勝が部屋を出ていく。その背中を見つめながら、信長はただ一人、床に広がる血の滲んだ地図を眺め続ける。
去り際、信勝は振り返りもせず、ただ静かに一言、付け加えた。
「次をお待ちします。……何を斬るのか、あらかじめ示していただければ、より迅速かと」
信勝は、廊下へと出ると、独りごちた。
「斬る相手がいないのなら、風でも斬りましょうか」
彼の天下取りは、戦術や戦略ではなく、たった一人の弟の、冷たい「任務遂行」によって、始まることになった。それは、史上最も非効率的で、そして、最も速い、天下統一の始まりだった。




