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第九識 阿摩羅識──非我・非空・絶対の場所

沈黙。

それは音の欠如ではなかった。

あらゆる思考が剥ぎ取られ、意志すらも透明化される空間──


ユリアナは、そこに立っていた。


目の前にあるのは、重力を持たない海。

液体でも気体でもなく、思念そのものが流れる深淵。

それが──阿頼耶識。


「すべての記憶の倉庫」

ごうの貯蔵庫」

「真我の胎内」

古代の仏者たちがそう呼んだ、第八の識。




その海には、名前のない無数の記憶が沈んでいた。


・名もなき少女の空腹

・祖母の死に顔を見た少年の罪悪感

・戦場で友を庇い死んだ兵士の後悔

・飢えた子にパンを分けた老人の微笑み


誰のものでもなく、誰のものでもある。

それらは時間を持たず、ただ「記録されている」。


ユリアナの体は、海に沈みはじめた。

だが、恐怖はなかった。


むしろ、そこにあったのは──懐かしさ。




「阿頼耶識には、あなたの“全過去生”が記録されている。」


ヨハネスの声が響く。


「この識に触れた者は、時を超えて“自分の起源”と対面する。

だがそれは、見てはならぬものでもある。

因果を知りすぎる者は、“選ぶ自由”を失うからだ。」


だがユリアナは、もはや恐れてはいなかった。




彼女は視た。


かつて、奴隷の少年として殺された過去。

ある時代、独裁者として恐怖政治を敷いた生。

さらにある時、師として人々に教えを説いた生。


幾千もの転生。

幾度もの失敗、後悔、そして再起。


──私は、繰り返してきた。

──学び、選び、また迷ってきた。


そして今、再びこの“選択の場”に立っている。


「あなたはすでに、“帝国”と“革命”の外に出た存在だ。

だが、まだ一つだけ、背負っているものがある。」


ヨハネスの姿が現れた。

いや、それは“記憶の中のヨハネス”ではなかった。


本物のヨハネス。

ユリアナの前世であり、同時に“未来の可能性”でもある存在。


彼は言った。


「アクシオム帝国そのものも、一つのしきだ。

その名が示す通り、あれは“絶対化された思想”。

人々が信じた“唯一の真理”──

だがそれは、記憶によって維持される“幻想の構造”だ。」


ユリアナは理解した。


この帝国を動かしていたのは、

権力でも兵力でもなく、**阿頼耶識に沈む“集合的無意識”**だったのだ。




ユリアナは問うた。


「私はどうすれば、この業の連鎖から解き放たれるの?」


ヨハネスは答えた。


「放棄することだ。

善も悪も、正しさも怒りも、執着も、英雄であろうとする意志すらも──

“自己”を定義するすべてを、いったん手放すこと。」


それは死ではない。

無ではない。


それは──透明な存在になること。


ユリアナは最後の選択をした。


彼女は、阿頼耶識の海に“自身の記憶”を溶かした。

母への愛、帝国への怒り、自分という名の肩書き。

すべてを返した。

それらは個のものではなく、世界の中に還るべきものだった。




彼女が目を開けたとき、

そこには──誰もいなかった。


アクシオム帝国の中枢は、崩壊していた。

だが、それは破壊ではなかった。

構造が“不要になった”だけだった。


人々は、ひとつひとつ「自分の現実」を再定義していた。

見る景色が違う。聞こえる声が違う。

だが誰もが、確かに“目覚めていた”。


ユリアナは、そこにいた。

けれど、誰の目にも映らなかった。


それが“阿頼耶識と一体化した存在”の在り方だった。




──その日以降、人々は「見えない指導者」について語るようになった。


誰も顔を知らず、声を知らず、言葉すら記録されていない。

だが、確かに世界を再起動させた存在がいたと──


彼女の名はもう記憶されていない。

だが、風が吹くたびに人々の心に響く「透明な意志」がある。


それこそが──

ユリアナの成した「終わりなきしき」の旅の、到達点だった。


(第八章・完)

※最終章:第九識「阿摩羅識──非我・非空・絶対の場所」へつづく(約2000字)


闇でもなく、光でもなかった。

それは、「色」でも「無色」でもない、存在そのものの静寂だった。


ユリアナは、もはや身体を持っていなかった。

意識とも言えない“ありよう”として、ただそこに在った。


阿頼耶識が「記憶の海」だとすれば、

ここ──阿摩羅識は、「記憶の無い場所」だった。


だが、それは“空白”ではない。

むしろ──



すべてが在るから、何も要らない。






彼女の“識”は、形なきものに触れていた。

それは「私」とも「他者」とも呼べない何か。


思考も、感情も、名も、消えている。

だが、それこそが本当の「存在」だった。


かつてユリアナが苦しみの中で求めた“本質”──

革命、正義、解放、母との再会、救済──すべてがここでは意味をもたなかった。


では、なぜ彼女はここに来たのか?




そのとき、何かが流れ込んできた。


言葉ではない。

イメージでもない。

それは、“音”に似ていた。


法音ほうおん──。


生きとし生けるもの、

すべての有情が共有する、一切平等の響き。


分け隔てなく、誰の中にも宿る無始無終の律動。

それが、彼女の中に“鳴った”。


──私は、かつて誰かだった。

──私は、これから誰かになる。

──だが、今は誰でもない。


阿摩羅識とは、“非我”でありながら、“絶対の我”でもある。

日蓮が説いた「妙法蓮華経」における“十界互具・一念三千”とは、

この瞬間の一呼吸にも、宇宙すべてが含まれるという思想。


ユリアナは、その真義に触れた。


「私」は、すでに在った。

「私」は、もはや求めるものではなかった。

あらゆる命の中に、「私」は“今”として流れていた。




──その時、阿摩羅識が静かに閉じた。


まるで「これでいい」と告げるように。

ユリアナは“下りて”いった。

彼女が“誰でもない”ことを引き受けて、再び“誰か”になろうとしたのだ。




目を覚ますと、そこには風が吹いていた。


かつてアクシオム帝国があった場所。

中央制御塔は瓦礫となり、管理AIは停止していた。


だが人々は混乱していなかった。


彼らは笑い、土を耕し、言葉を交わし、香りを感じ、愛していた。


ユリアナは名を捨てていた。

誰にも気づかれず、ただの旅人としてこの世界を歩いていた。


だが、彼女が通る場所では必ず花が咲いた。

子どもたちが笑い出し、老人が涙を拭いた。


「あなたは誰?」


ある子どもが尋ねた。


ユリアナは、少しだけ考えて──笑った。


「ただの風よ。」




【エピローグ】


後の時代、アクシオム帝国の再興はなかった。

代わりに、「九つの識」を体験し、自己と世界を調和させる**内なる巡礼インナー・パス**が、教育と文化の核となった。


彼女の名は歴史に記されなかった。

だが、人々は知っている。


**“すべての存在が、すでに完全である”**ということを。

**“探すことをやめたとき、出会える”**ということを。


そして今も──


風は静かに、どこかで誰かの“第九の識”を開こうとしている。


(完)

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