第五章:身識──感覚と拷問の臨界
ユリアナの指先が、震えていた。
それは寒さではなかった。
むしろ空調制御されたこの帝都では、気温差など存在しない。
震えの理由は「触れた」からだ。
それも、記録されていないはずのものに。
それは旧セントラム図書館跡地の深層。
廃墟のように崩れた資料室の奥、封印された「第零保管室」。
帝国によって削除されたはずの“感覚記録”がそこに眠っていた。
それは本ではなかった。
金属の箱に封じられた、薄く、皮膚のような素材の記録媒体──「触覚データ素子」。
それに指を触れた瞬間、ユリアナの身体を異物の感覚が駆け抜けた。
痛み。温もり。湿り気。恐怖。愛撫。火傷。抱擁。絶望。悦楽。
一瞬で彼女の身体は「他者の人生」を受け取っていた。
──身識とは、触れることで他者の存在を“転写”する力。
ヨハネスの声が頭に響く。
「五感のうち、最も“暴力的”なのが触覚だ。
それは他人の境界を破るものだからだ。
身識とは、己が肉体を通じて“世界と一体化する”識だ。」
ユリアナの皮膚に、奇妙な痕が浮かび上がっていた。
微細な文様。まるで古代の碑文のように、身体の上に何かが“記録”されている。
彼女は気づく──これは感覚による暗号だ。
「これ……読める。」
その肌に刻まれた感覚をなぞるたび、記憶が蘇る。
・銃を突きつけられた感触
・母の手に包まれたぬくもり
・冷たい医療器具の震え
・誰かの頬に触れた時のやさしさ
すべてが“自分の体に刻まれた歴史”だった。
だが──中には「自分ではない者の記憶」も混じっていた。
帝国の処刑室では、最後に「皮膚感覚のデータ抽出」が行われる。
それは死者の“最期の感覚”を解析するためのもの。
快か苦か、恐怖か諦念か──それを記録し、以後の支配に利用するのだ。
ユリアナが触れた「記録素子」は、そうした“処刑感覚”のアーカイブだった。
それを受け取ったとき、彼女の身体は“千人分の死”を経験した。
指がちぎれる感覚。
火あぶり。窒息。殴打。
だがその中に──たった一つ、柔らかな掌の感触があった。
「生きろ……ユリアナ……」
それは、母の手だった。
拷問の最中、母が最後に伝えた皮膚の記憶。
愛情が、皮膚を通して彼女に刻まれていた。
ユリアナは涙を流した。
だがその涙は、痛みのためではない。
それは「生きていた証」に触れたからだ。
「人間とは、“皮膚の境界”を持つ存在だ。
しかし身識が覚醒すれば、その境界は消える。」
ヨハネスの言葉が続く。
「触れたものすべてが、君の“内部”になる。
君の痛みが、誰かの痛みになる。
君の温もりが、誰かの希望になる。」
ユリアナはその瞬間、自分が「一人ではなかった」ことを悟った。
それは他者と混ざり合う恐怖でもあり、
同時に、他者とつながる救いでもあった。
翌朝、ユリアナは市民広場に立っていた。
手袋を外し、素手で“地面”に触れた。
都市の皮膚。帝国の記憶。
そこには、無数の“生きた痕跡”が眠っていた。
そして彼女は、確かに感じた。
この地に生き、愛し、苦しみ、死んでいったすべての命の記憶が、
皮膚という“感覚の書”に刻まれていることを。
──私の体が、世界とつながっている。
そのとき、ユリアナの「身識」は完全に目覚めた。
(第5章・完)
※次章:第六識「意識──夢と現実の分岐点」へつづく