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第四章:舌識──甘美と毒の境界

帝国の食事は、完全に栄養調整されていた。

パック化された人工食。個別の遺伝子と神経感応に合わせて最適化された“無味”の栄養糧。

それは「必要十分」なものとして、市民の舌から“感覚”を奪っていった。


ユリアナが“本当の味”を知ったのは、まったくの偶然だった。


それは、古書の間に挟まれていた包み。

何十年も前の食堂の領収書と一緒に、小さな飴玉がひとつ。


「……これ、本物?」


手のひらにのせたそれは、カラメル色の、ガラスのように硬い粒だった。

表面にうっすらとひびが入り、時間の経過を物語っている。

でも、なぜかそれは──香り立つような存在感を放っていた。


ふと、白い犬が低く唸った。

それは「食べろ」という促しのようにも、「気をつけろ」という警告にも聞こえた。


ユリアナは舌の上に飴玉を置いた。


瞬間──爆ぜた。


甘い。焦げた砂糖の香り。

そしてそれに続く、何とも言えない温もり。

舌の上で溶け出す何層もの味。それは単なる“糖”ではなかった。


記憶の洪水が、味覚を通して押し寄せる。

誕生日のケーキ。冬に飲んだココア。父の作った焦げたパンケーキ。

食べ物というより、感情そのものだった。




「味は記憶の鍵だ。そして毒もまた、味である。」


ヨハネスの声が、空間に響いた。


「帝国が味覚を制限したのは、“真実の感情”に市民が耐えられなかったからだ。

苦味、酸味、甘味、辛味──それぞれが魂を揺さぶり、記憶を暴き出す。」


ユリアナは気づく。

あの飴には“何か”が仕組まれていた。

その味の奥に、かすかな「苦味」があったのだ。


体がわずかに熱を帯びる。

手が震え、視界がにじむ。

これは、毒──? いや、これは「記憶の毒」だ。


体が知っていた。

これは、かつて母がくれた味だ。

亡命前夜、母がこっそり忍ばせた「最後の贈り物」。


その飴には、暗号が込められていた。

味覚によってしか解かれない、感覚によるパスコード。

「甘い→苦い→焦げ→酸味」──その順序が何かを示している。


ユリアナはふらつきながら立ち上がり、壁の端末にその味の配列を入力した。


──カタリナ・ユグドラシル:生存

──隔離地点:N-Ω256『黒域コクイキ


画面に浮かび上がったのは、死んだはずの母の名だった。




その夜、ユリアナは夢を見る。

巨大な食卓。椅子には誰も座っていない。

だが、香りだけが漂い、食器に盛られた幻の料理が湯気を立てている。


「味覚は真実だ。だが、同時に“罠”にもなる。」


テーブルの向こうから誰かが言う。

顔は見えない。声も朧だ。

けれど、その存在が“彼女自身”であることを、ユリアナは直感する。


「毒とは、真実の味に耐えられなかった人間が“逃げるために作った味”。

苦しみも、愛も、全部甘味に包んで“食べられるもの”に加工した。」


テーブルの上に、再びあの飴が現れる。

だが今度は、無数の味が交錯する飴玉だった。

その一つを口にすると、世界が反転する。


甘さの裏に、誰かの「死」があった。

苦さの中に、誰かの「希望」があった。


ユリアナの舌識は完全に開いた。

もはや単なる味覚ではない。

それは「感情を読み、記憶を解く器官」だった。




目を覚ましたユリアナは、静かに呟いた。


「私は、母の味を覚えてる。」


そして、こう付け加えた。


「この舌で、帝国の嘘を“食い破る”。」


味は、真実に届く。

そして真実は、甘くもあり、苦くもある。


(第4章・完)

※次章:第五識「身識──感覚と拷問の臨界」へつづく

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