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第二章:耳識──沈黙の声

アクシオム帝国の街には、音がなかった。

正確には「必要最低限の音」しか存在しなかった。機械の稼働音、交通案内の音声、国家認可の音楽。

だがそれらもすべて、「レギオン」を通して加工された“公認の音”だ。

市民はそれを「清音せいおん」と呼び、その他すべての“雑音”を排除していた。


ユリアナはいつも、あの犬が発する音を聞いたことがなかった。

あれほど目立つ白い毛皮に、存在感のある姿。けれど、足音ひとつしない。

ただ、あるときから、誰もいないはずの場所で「声」が聞こえるようになった。


最初は夢の中だった。

どこまでも白い部屋で、誰かが言った。


──聞こえるか?


はっと目覚めても、部屋には誰もいない。

しかし耳の奥に、まるで耳鳴りのような“音の残り香”が残っていた。


翌朝、ユリアナは街に出た。

耳に装着する「音識フィルター」を、こっそり外して。


耳識フィルターはすべての市民に義務付けられた、音の制御装置。

生の音は感情を不安定にするため、帝国では完全に「音の衛生管理」が行われていた。


外した瞬間、世界は一変した。

風の音。人々の足音。遠くの塔で鳴る鐘の音。

聞こえる。あまりにも、多すぎるほどに。


頭が割れそうだった。

だが同時に、彼女はその中に“混じってはいけない声”があることに気づいた。


──ユリアナ。聞こえるなら、旧オペラ劇場へ来い。

──君の“耳識”は解かれつつある。


「……誰?」


誰にも届かないような小声が、脳の奥に直接届いてきた。

音としての声ではなく、“響き”そのもの。




旧オペラ劇場は、都市の北端にある閉鎖区域にあった。

かつて帝国がまだ芸術と感情を許していた時代に、音楽と演劇の殿堂だった場所。

今は立ち入り禁止区域。音響空間は封鎖され、残響が一切残らないよう制御されている。


その空間で、ユリアナは再び“声”を聞いた。


──音は真実を隠さない。

──目に見えるものは編集できるが、音は心に直接届く。


声の主は、ヨハネスと名乗った。

フィルター管理網から逸脱した、亡命科学者。レギオン中枢にいたが、帝国の真実を知って追われる身となった。


「君の耳は、覚えているんだよ。母の声も、笑い声も、あの日の叫びも。」


ユリアナの耳に、低く濁った「叫び声」が蘇った。

幼い頃、炎に包まれた都市の片隅で、誰かが叫んでいた。

その声を、政府は「消音処理」した──はずだった。


けれど記憶のどこかに、“生の声”は残っていたのだ。




「耳識とは、音の知覚だけじゃない。“響きの真理”を感じ取る能力だ。

言葉にならない声。沈黙の訴え。宇宙そのものの鼓動……」


ヨハネスの言葉は続く。

「君がこのまま識を開いていけば、第六層──意識の分裂が始まる。だが恐れるな。

まず、耳で世界を聴くんだ。誰もが忘れた“声”を。」


そのとき、ユリアナの耳に何かが届いた。

それは“言葉”ではなかった。ただただ懐かしい“旋律”だった。

母が昔、囁くように歌ってくれた子守唄。記録にも残っていない。どこにも存在しない歌。


けれど、確かにそれはユリアナの心の奥に生きていた。




ユリアナはそっと耳を澄ませる。

街のざわめきの中に、電子ノイズの向こうに、誰かが叫ぶ声がある。

助けて。わたしはここにいる。消されないで。

無数の魂の声が、音に乗って流れてくる。


そのとき、彼女は悟った。


「聞こえることは、つながること。」


そしてそのつながりが、次なる“識”へと彼女を導いていく。


(第2章・完)

※次章:第三識「鼻識──禁断の香気」へつづく

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