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第一章:眼識──虚構の視界)

アクシオム帝国の空は、常に曇っていた。いや、曇って「見えた」と言うべきだろう。

天候は人工衛星によって完全に制御されているはずで、雲が発生する理由などない。だが、ユリアナにはずっと、灰色の空が広がっているように感じられた。


「空は、青くなかった?」


ある日、図書館で幼い子どもの絵本をめくっていた彼女は、思わずそう口にしていた。ページには、青空の下に咲き誇る花畑が描かれていた。視界に飛び込んだその青が、あまりにも鮮烈で、現実の色彩とあまりにかけ離れていたからだ。


「青空なんて、誰が描いたの?」

友人のノアが笑った。「プロパガンダだよ。絵本は管理外だから、まだ手が加えられてないんだ。」


そのとき、彼女の視界に“違和感”が走った。ページの中の青が、ゆらりと波打ち、外の景色と入れ替わるような錯覚に襲われたのだ。




夜、ユリアナは自室で鏡の前に立ち、自分の目を見つめていた。

虹彩は淡い金色、人工調整によって与えられた識別色だ。だがその奥で、何かが揺れている。見えているものが、どこか「本物」ではないような──そう、皮膜を通して加工された視界のような、まるで映像フィルターをかけられた映像のような。


──フィルター。

アクシオムでは、全市民の視覚は政府の中枢システム「レギオン」によって管理されていた。

暴力、血液、遺体、非正規市民など、不穏と判断された映像は自動的に“削除”される。

つまり、見えないのではない。「見せられていない」のだ。


その夜から、彼女の目に異変が起き始めた。

ベッドの脇に、白い犬が座っていた。

どこか憂いを帯びた瞳で、静かにこちらを見ている。呼吸の音すらない、完全な沈黙の存在。

翌朝目を覚ますと、犬はいなかった──はずだった。だが玄関の前に、明らかに“誰か”の足跡が残されていたのだ。




翌日、街に出たユリアナは、普段とは違う道を選んだ。

中央通路を外れ、使用が制限された旧工業地区へ。そこは視覚制御の範囲が曖昧なエリアで、いわば“視界のバグ地帯”と呼ばれている。


そこには、あった。

壁に書かれた無数の落書き。

「みんな見えていないだけ」「レギオンを疑え」「お前の目は本物か?」


胸がざわついた。誰が書いたのか分からない。だが、自分の内側にある恐怖が文字となって現れているように感じた。


そのときだった。

ユリアナの視界がぐにゃりと歪んだ。

まるで水中に沈んだかのように、色と形が波打ち、目の前の街並みが崩れ始めたのだ。


見慣れた街の背後から、焼け焦げた建物が浮かび上がる。

転がる死体。泣き叫ぶ子ども。血まみれの制服。


「これが……現実?」


それは“過去”だった。フィルターで覆い隠された、アクシオム帝国の暗黒の記憶。

ユリアナは、完全に視覚制御が解除された瞬間を経験していた。

彼女の眼識がんしきは、他の市民とは違っていた。何かが、“壊れて”いた。いや、逆かもしれない。壊れていたのは、他の人々の目の方だった。




その夜、再び白い犬が彼女の部屋に現れた。

犬はゆっくりと、一本の細いコードを口にくわえて差し出してくる。

その先端には、古いインターフェースチップ。おそらく違法な記憶拡張装置。


ユリアナは手に取り、自分のこめかみに差し込んだ。

一瞬、激しい痛みが脳を貫く──そして、何かが開いた。


眼識の奥、視覚の深層に眠っていた「現実を見通す力」。

彼女は、もう“見たいもの”ではなく、“見たくなかったもの”を見ていた。

世界は、違う色でできていた。青空も、焼け野原も、死も、生も──。


彼女は呟いた。


「私の目は、私のものだったんだ……最初から。」


その瞬間、ユリアナの内側で何かが静かに目を覚ました。




(第1章・完)

※次章:第二識「耳識──沈黙の声」につづく

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