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声のない会話であたたまる



玄関の扉を閉めたとき、背中を通り抜けた風がひんやりとしていた。

「……あ、冬が近い」

そう思ったのは、この季節になってから初めてだったかもしれない。


春に、そらと出会ってから、もう何度も空の色が変わった。

新生活に心がすり減っていたあの頃。何気なく開いた配信アプリで、偶然同じ部屋に入り、

「こんばんは」から始まった関係は、少しずつ、けれど確実に変わっていった。


最初はただのリスナー同士。

どちらも猫をかぶっていて、敬語ばかりだった距離感。

無難な言葉のやりとりを繰り返しながら、ほんの少しずつ、その“隙間”を埋めていった。


今では、そらのことを考えない日はない。

それが自然になっていて、気づくと日常の一部になっていた。


ダウンを脱ぎ、ストーブのスイッチを入れる。

灯りがともり、ゆっくりと部屋の空気が柔らかくなっていく頃、スマホが小さく震えた。


《今日、体育で転んだ。いてぇ》


そらからのLANE。

それだけの短い文章なのに、“伝えたかった”という気配がにじんでいて、ふっと笑みがこぼれる。


(ほんと、そらだな)


「大丈夫?」と送りかけた指を止める。

そらって、きっとああいう言葉に“過保護な心配”を求めているわけじゃない気がした。


少し考えて、こう打つ。


《ちゃんと立てた?》


既読がついて、しばらくして返ってきたのは、


《立ったけど、むかついた。てゆーか寒い》


その言葉の並べ方がなんともそららしくて、思わずくすっと笑ってしまった。

体育で転んだだけで「むかついた」なんて言うところが、素直じゃなくて、でも正直で。

そして「寒い」と続けるあたりに、ほんの少しだけ、甘えのニュアンスが混じっている気がする。


リビングで紅茶を淹れて、湯気に手をかざしながら思い出すのは、配信のこと。


誰にも話していない、初めての配信。

“チョコ”という名前で、たった30分だけ、知らない誰かと声だけでつながった。


《落ち着く声ですね》

そんなコメントが、どうしようもなく胸に残っていた。


それは、わたしの声が誰かの“夜”に触れた瞬間だった。

姿も名前も知らない誰かの、ただの言葉。

けれど、そのひと言が確かにわたしの中のなにかをやさしく撫でてくれた。


(また、やってみたいかも)


そう思う自分がいる。

でも、すぐには言葉にできない。

ましてや──そらには。


《言えないな、まだ》


スマホのメモアプリにそう打って、そっと消す。

きっとそらに話したら、すぐに察して、ちょっとだけ拗ねるだろう。

でもそれもほんの一瞬で、「へぇ、見てないけど」とか言って、照れ隠しみたいに流すと思う。


それでも今はまだ、配信のことは自分の中だけに留めておきたかった。

“誰かと話すための声”と、“そらと話す声”は、どこか少し違う気がしていた。

その両方を大切にしたいから、焦らず、言葉にできるときを待っていた。


LANEに戻って、そらへメッセージを送る。


《今夜、電話する?》


すぐに既読がついて、間を空けず返事がきた。


《うーん。あとで、気が向いたら》


そらの「気が向いたら」は、たぶん「する」の意味だ。

わたしはもう、それをわかっている。

言葉の端にある、感情のかたち。

わかるようになった、それがちょっと嬉しかった。


紅茶のカップを両手で包んで、ソファに深く沈み込む。

窓の外はすっかり暗くなっていて、街の灯りがにじんで見えた。


春に知り合った頃は、まだお互い“よそゆき”の仮面をかぶっていた。

「おつかれさま」「がんばってください」なんて、丁寧な言葉ばかり。

でも今は、そらの短いメッセージの中に、たくさんの温度があることを知っている。


わたしたちは、まだ“会っていない”。

だけど、この距離がもどかしくて、だからこそ愛おしい。

声だけのつながりが、逆に心の奥をやさしく包み込んでくれる。


ストーブの前で、じんわりとあたたまる部屋。

静かな夜。紅茶の香り。スマホの向こうに、そらがいる。


──早く会いたい。

そう思う。

でもきっと、その日が来るまでの時間さえ、今のわたしたちには必要なんだと思う。


LANEの画面をそっと閉じて、目を細めた。


外は冬の足音。

でも、心の奥には、誰かと過ごした春の記憶が、まだやさしく灯っていた。




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