秘密の声が今日を優しくする
目覚ましが鳴る前に、自然と目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ほんのりまぶしい。
まだアラームまでには少し時間がある。けれど、もう眠気はどこかへ行っていた。
──あ、ちゃんと起きれてる。
それだけのことが、なぜだか少しうれしかった。
普段は在宅勤務で、朝は始業5分前にPCを立ち上げれば間に合うから、いつもギリギリまで布団にくるまっている。
朝が苦手になったのは、ここ最近の話じゃない。誰とも喋らないまま一日が終わる日も、もう珍しくなくなっていた。
でも、今日は週に一度の出社日。
わざわざ満員電車に乗って、雑音にまみれたオフィスへ行くのは正直、少しだけ気が重かった。
昨日の夜までは、気分も沈みがちだったのに──なぜか今は、ほんの少しだけ違う。
昨夜のことを、ふと思い出す。
誰にも言っていない、初めての配信。
匿名で、顔も出さずに、ただ“チョコ”という名前でマイクを開いた。
たった三十分。
でもその短い時間が、思った以上に胸の奥に残っていた。
「こんばんは」
「初めてなんですね」
「すごく落ち着いた声」
「夜の声、って感じです」
──夜の声。
その言葉が、まだわたしの心の中で、やわらかく灯っている。
わたしの声が、誰かの“夜”に届いていた。
ただそれだけのことで、こんなにも胸があたたかくなるなんて。
スマホを胸の上に置いたままベッドに寝転んだあの夜の感触が、まだ残っている。
“チョコ”という名前でそこにいた自分は、誰でもない誰かと、確かに“存在”を交わしていた。
たったひと言、やさしい言葉をもらっただけで──わたしは、自分が自分でいていいんだって、少しだけ思えた。
「……不思議だな」
シャワーのあと、まだ少し湿った髪をタオルで巻きながら、鏡の前でぽつりと呟いた。
今日はいつもより、ほんのすこしだけ丁寧にメイクをする。
服も、ネイビーのニットを選んだ。
“チョコ”として声を出した昨日の夜の自分と、どこかで重ねたくなった。
LANEには、そらからの通知が届いていた。
昨夜、配信を終えたあとに来ていた、短いメッセージ。
《明日寒いって。風邪ひかないようにね》
それだけ。
それだけなのに、どうしようもなく胸に染みる。
何気ない言葉。気まぐれみたいなタイミング。
だけど、そのひと言がまるで心の底をそっとなぞるようで、思わず小さく笑ってしまった。
「ありがと、気をつけるね」
そうLANEに返して、スマホをバッグにしまう。
歩き出した道は変わらず寒いのに、なぜか足取りは軽い。
コートのポケットに手を入れながら、吐いた白い息を見上げる。
仕事が劇的に楽しくなったわけでもない。
人間関係がうまくいっているわけでもない。
だけど、わたしは“声を出した”。
そのことが、ただそれだけのことが──
今日のわたしを、昨日とはほんの少しだけ違う自分にしてくれている。
そらには、まだ言っていない。
きっと笑ってくれるとは思う。
「え、なにそれ」って、気怠そうに目を細めて。
でも、まだ伝えたくない。
この気持ちは、わたしの中で、もう少しだけ温めていたい。
あの夜の配信は、わたしにとっての“灯り”みたいなものだったから。
知らない誰かの言葉が、あんなにもやさしくて。
知らない誰かに“落ち着く声ですね”って言ってもらえたことが、こんなにも自信になるなんて。
今朝、ベッドから迷わず起き上がれた理由は、それだった気がする。
改札を抜けて、電車に揺られる。
窓の外の街は、何も変わらず流れていく。
でも、わたしの中には、まだあの夜の空気が残っている。
音も、色もないのに、確かに心をあたためてくれた時間。
──チョコという名前で、わたしはわたしを少しだけ好きになれた気がした。
そんな小さな変化が、今日という一日を
ほんの少し、やさしくしてくれている。