ひとりきりのスタート
その夜、わたしはLANEもZも開かなかった。
開くときっと“そら”の名前を探してしまうと思ったから。
……今日は秘密にしておきたかった。
スマホを見つめながら、深く息を吐く。
指先は配信アプリのアイコンに触れたまま動かない。
心臓の音が普段よりも少し大きく聞こえる。
「……別に、バレるわけじゃないし」
言い訳みたいにこぼして画面を開いた。
アカウント名は、チョコ。
アイコンも特に設定せずプロフィールも簡単なひとことだけ。
誰かに注目されたいわけじゃない。
ただ声を出してみたかった。
文章ではなくスタンプでもなく、
“声”という形で気持ちを誰かに届けることがどんな感じなのか──それを知りたくなった。
たぶんそらのせいだ。
初めて通話したあの日。
彼女がぽそっと言った「ちょっと元気出たかも」という言葉が、
ずっと頭から離れなかった。
もしかしたら、自分の声にも何かを渡す力があるのかもしれない。
そんな風に思ってしまったのはきっと驕りだ。
だけど……それでも試してみたかった。
「……よし」
配信ボタンに、そっと触れる。
画面が切り替わって、何もない小さなスタジオにマイクだけが浮かぶ。
誰もいない。
コメントもない。
だけどそのことに少しだけ安心した。
「こんばんは、チョコです。……初めて配信してます」
それだけの言葉が、少し震えていた。
けれど、その震えさえも“今の自分”だと思えた。
しばらくして、誰かが入室した通知が表示される。
知らない人の名前。
でもその見知らぬ誰かが「こんばんは」とコメントをくれたとき
胸の奥がふわっとあたたかくなった。
《初めてなんですか?》
《すごく落ち着く声ですね》
《夜にぴったり》
「……ありがとうございます。ちょっとだけ試してみようと思ってて」
そらの名前は、どこにもなかった。
当たり前だ。わたしは何も言っていない。
LANEにもZにも、この配信のことはひと言も載せていない。
それでも、ほんの少しだけ期待している自分がいたことに気づく。
そらが偶然見つけて、「チョコさん?」って言ってくれたら。
そんな偶然が起きたら──なんて、思ってしまった。
「……ばかだな、わたし」
ぽつりとこぼした言葉は、誰にも届かない。
それでも、初めての配信はゆるやかに続いていった。
話すことも決めていなかったけれど、
コメントがひとつ届くたびに少しずつ言葉がほどけていく。
「今日は寒かったですね。……わたし、最近ホットミルクにハマってて」
誰に向けてでもない言葉。
だけど、画面の向こうで誰かが耳を傾けてくれていると思うだけで、
不思議と心が満たされていく。
配信を終える直前。
そっとスマホを伏せながら思った。
──そらには、まだ言えない。
なんでだろう。
恥ずかしい、というのもある。
でもたぶん、
「すごいね」って言われるのも、
「似合ってる」って言われるのも、
どこかで怖い。
今はまだ、この場所は自分だけのものにしておきたい。
だからわたしは、何も言わなかった。
LANEの通知にも既読をつけず、Zも開かないまま静かにスマホを伏せた。
いつか、言える日が来るかもしれない。
でも今は──もう少しだけ、ひとりで。
ほんの少し誰かに向けた声。
その最初の夜は、まだ彼女には知られないまま、静かに終わっていった。