ゆっくり近づくあなたの声
あの夜から、わたしは自然と“あの部屋”に足を運ぶようになった。
とくに決定的なきっかけがあったわけじゃない。
でも、仕事を終えて、夕食を済ませて、ふと手が空いたとき。
あのやわらかい声と、“そら”という名の誰かの気だるげなコメントが、ふと思い出される。
《そら:チョコさん、今日もおつかれー》
《チョコ:ありがとうございます。そらさんも、お疲れさまでした》
そんな、なんでもないやりとりが、日常の一部になっていた。
まるで深夜ラジオのような空間。
そこにいると、なぜか孤独が少しだけ和らぐ気がした。
最初は配信アプリ内でのチャットだけだった。
けれど、ある晩、そらさんがふと聞いてきた。
《そら:チョコさん、Zとかやってます?》
《チョコ:一応、鍵垢ですけど……》
《そら:DMのほうが話しやすいかなって。よかったら、教えてもらえますか?》
それが、わたしたちの関係がひとつ外に出た瞬間だった。
Zでのやりとりは、最初はお互い敬語で、どこか他人行儀だった。
でも、数日経つうちに、言葉づかいが少しずつほぐれていって──
いつの間にか、LANEで連絡を取り合うようになっていた。
そらは、学校のことをよく話してくれた。
授業のこと、友達のこと、昼休みに食べたパンの話。
「そらさんって、まだ高校生なんですよね?」
『うん。いちおう受験生ってやつ笑』
『でもさ、最近ちょっと学校だるくて』
そのひと言が、なぜだか心に引っかかった。
その頃からだった。
ときどき届くメッセージの中に、疲れた色が混ざるようになったのは。
『朝、起きられないんです』
『友達のLANE、返す気力がない』
わたしよりもずっと若いはずの彼女が、時折見せる静かな苦しさ。
配信ルームでの軽やかなコメントの裏に隠れていたそれを、わたしはやっと気づいた。
そして、どんなに忙しくても、そらからのメッセージには必ず返した。
『大丈夫。あなたは、ちゃんとがんばってると思いますよ』
『ごはん、今日は食べられましたか?』
何か特別なことは言えない。
でも、言葉をひとつずつ選びながら、そっと心を撫でるようなメッセージを送り続けた。
それでも、画面越しの距離は、やっぱりどこか遠いままだった。
ある夜のことだった。
「今日もおつかれさま」と、いつものように送信したあと、しばらく通知はなかった。
だけど数分後、そらから届いたひとつのメッセージに、思わずスマホを握りしめた。
『……あの、ネットのお友達と通話って、したことありますか?』
短い言葉。でも、それはたぶん──
“声を聞きたい”という彼女からの、小さな勇気だった。