イーストハーヴの花嫁たち
顔を合わせたことのないアンジェルの婚約者は、年に数回の贈り物だけは欠かさなかった。
その中には竜用の鞍もあり、それはマンドラゴラ畑にやってくる銀色の竜の背にぴったりはまった。
この鞍が贈られてきた時、イーストハーヴ辺境伯家の者たちは大いに混乱の渦に陥った。竜人族の夫を尻に敷けるような妻になれという、夫からの無言の挑戦状だとアンジェルは受け取った。母曰く、これもまた花嫁修行だとか。
アンジェルは竜にその鞍をつけて飛び立った。目指すは魔王領、もといタレーラン辺境伯領だ。
襲撃者の処理は両親に任せてきた。とはいえ証言者がいたほうが都合がいいので、一人だけ簀巻きにして竜の腹にくくりつけて引っ提げた。
そうして竜とともにタレーラン辺境伯領の上空にやってきたアンジェルは、土煙が上がる防壁を見つけて目を眇めた。
「タレーラン辺境伯も大変ね」
「ぐるるぅ」
ブレイブ神国との小競り合いが起きているらしい。
アンジェルは状況を確認すると、悠々と降下していく。眼下の防壁の上で、エバーグリーンの髪を持つ少女がアンジェルに手を降っていた。その横に黒髪の青年も見える。
「アン姉様!」
「ドゥ、無事?」
「余裕余裕! でもどうして来たのさ」
「ふふ。馬より早く、お届けしたいものがあったから」
これよ、と竜の腹にくくりつけていたブレイブ神国産の襲撃者を差し出す。簀巻きにされての空輸は心底恐ろしかったのか、襲撃者の顔色は真っ青を通り越して土気色になっていた。
「フェリクス様、だいぶ手こずっているようですわね。うちの領にまで遊びに来ていらしたの」
「イーストハーヴならそれくらい対処できるでしょう?」
「分かって放置されても困ります」
長女。イーストハーヴを巻き込まないでくれます? この腹黒魔王。
魔王。婚約を承諾したのですから、あなた方もタレーランの盤上の駒です。
アンジェルとフェリクスの視線の間に火花が散る。笑顔で牽制し合う二人の間に、割って入ったのはドゥニーズだ。
「フェリクス、アン姉様、戦争中」
「分かっていますよ。もうすぐ彼が来るので、決着は近い」
フェリクスが視線を向けるのは防壁の前方、東寄り。その先から土煙が迫ってくるのが見えた。
アンジェルが目を細めてその土煙の下にはためく軍旗を確認していると、パタパタと軽い足音が近づいてきて。
「アンお姉さま!」
「トロワ!」
背後からかけられた末妹の声に、アンジェルは振り向いた。トロワーネはえへへ、とはにかみながらアンジェルに抱きつく。
「銀色の竜が見えたので、もしやと思い来ましたの!」
「どうしてトロワがここに? アニマーレにいると思っていたのに」
「反ヒト族主義者がブレイブ神国と手を組んだと聞きまして、馳せ参じましたの!」
アンジェルはフェリクスを睨みつけた。可愛い末妹まで呼びつけるなんて。
フェリクスは氷の彫刻のような微笑を浮かべる。使えるものは全て使うのがタレーランだ。
「グラシアン殿があのまま横から攻めれば、油断したブレイブ神国を混乱させられます。そこを我が軍が――」
フェリクスが片手を上げる。その手から火の玉が打ち上がり、それを合図に防壁に待機していた兵士たちが弓を構えて。
ここからではどんな弓の名手であっても、ブレイブ神国の兵士たちには届かない距離。それをフェリクスはその身の希少な魔法の力でブーストし、敵兵たちへと届かせた。
「運が良ければ防壁にまでたどり着く時もありますが、今回はグラシアン殿のおかげで完全敗走。イーストハーヴもアンジェル様が対応してくださいましたし、これでしばらくはお相手も大人しくなるでしょう。今のうちに各位結婚式をすれば完璧です」
にっこりと満足げに頷くフェリクスにアンジェルは呆れたし、次女ドゥニーズは頬をちょっぴり赤くする。末妹のトロワーネなんかはにこにこと嬉しそうだ。
そんな中、がくがくと震える簀巻きがいた。イーストハーヴから連れてきた襲撃者。フェリクスが「何か言いたそうですね」とその猿轡を外してしまう。
「魔王はとうとう竜までも支配下においたのか……!?」
アンジェルはおや、と眉を跳ね上げた。侵略にきたわりには、イーストハーヴ辺境伯家の事情を知らないらしい。
ドゥニーズは面白そうに目を細めているし、トロワーネはくすくすと笑っている。フェリクスは何を思っているのかは知らないけれど、宿題のこともある。どうせならここで伝えても良いかも知れない。
アンジェルは竜の鼻頭を撫でながら、襲撃者へと艶めいた視線を流して。
「支配するとは人聞きが悪いわ。こちらは我が夫、エヴァリストです」
襲撃者がぽかんとする。呆然としたまま、ぽつんと呟く。
「竜と番うなんて、そんなことあるはずが……」
「ですって、エヴァリスト様。いい加減お顔を見せてくれませんと、離婚させられますよ。次女の夫になる方は魔王と悪名高いのですから」
アンジェルが茶化すように竜を脅した瞬間、ぶわりと突風が吹き荒れた。
「――それは、困る。アンジェルと一緒にいたいのに」
「でしたら変な意地をはらずに、こうして会いに来てくだされば良かったのよ」
「うぅ……アンジェル、好き」
むぎゅうむぎゅうと苦しいほどにアンジェルを抱きしめる腕。苦しいわと彼の背中を叩けば、アメジストの瞳がアンジェルの顔を心配そうに覗いた。その左眼から頬にかけて、痛々しい傷がある。竜人族の独特な衣装は下履きに羽織を被っているだけなので、その胸から腰にかけても大きな傷があるのがよく見えた。
竜人族エヴァリスト・ギーン。
先祖返りで竜化できるエヴァリストは、竜の時に負った醜い傷を見せたくなくて、今の今までアンジェルの前に人化した姿を見せることがなかった。アンジェルとしてはエヴァリストの傷は自分が治療したものだから、まったく気にしていないのに。
人化したエヴァリストがアンジェルを抱きしめたまま周囲に威嚇し始めたので、アンジェルはどうどうと夫を窘めた。
「白い結婚と伺ってましたが、夫婦仲は良好なようですね」
「言ったでしょう? 大丈夫だと」
呆れたようなフェリクスの言葉にアンジェルはにっこりと返す。それから恐れ慄く襲撃者へと向き直って。
「貴方を開放します。ブレイブ神国に伝えなさい。イーストハーヴを侮るなと」
トロワーネとドゥニーズがアンジェルの左右にそれぞれ並ぶ。これまでの一連の会話を聞いていた襲撃者は今にも泡を吹きそうだ。
「今あちらで指揮を取っているのは私の婚約者、グラシアン・カニャール様です」
戦場で勇猛に戦う獅子獣人を手のひらで指し示し、トロワーネがおっとりと微笑む。
「あんたたちが魔王と恐れるのは私の婚約者、フェリクス・タレーラン辺境伯」
魔族の青年の肩を抱き、ドゥニーズが挑発的に口の端を吊り上げる。
「そして我が夫エヴァリスト・ギーンは、高位種族である、竜人です」
大きな傷のある青年がアンジェルの頭頂にキスをした。
「イーストハーヴもまたサピエンヌ国の守護者です。今後、タレーランの隣にはイーストハーヴがあることを、努々お忘れないように」
アンジェルはイーストハーヴの魔女と名高い母譲りの美貌で嫣然と笑う。
その後、ブレイブ神国のみならず、反ヒト族主義者間にまでも『イーストハーヴの花嫁には手を出すな』という共通認識ができたとか。
◇ ◇ ◇
ある晴れた日のこと。
サピエンヌ王国の教会にて一組の結婚式が執り行われた。
新婦はエメラルドグリーンの髪を綺麗に結い上げて、真っ白なウェディングドレスに身を包んでいる。
結婚した噂はあったものの、長らく夫が不在だったアンジェルは、ようやく一年越しに夫をお披露目することが叶った。
アンジェルの隣には銀の髪を丁寧に撫でつけ、タキシードを身に着けたエヴァリストが立っている。格好がつかないと顔の傷を気にしていたけれど、私が誠心誠意をこめて手当したのだから、恥ずかしがることは何もないとアンジェルは夫に言い聞かせた。
神父により誓いの言葉を求められる。
種族が違うと慣習が違って大変なことも色々とある。それでもエヴァリストはアンジェルと一緒になりたいと望んでくれて、ヒト族と交じって生きることを選んだ。先祖返りだったエヴァリストがヒト族の国に婿に来るためには一筋縄ではいかず、一族の説得に時間がかかってしまったのもお披露目が遅れた理由だった。
だからアンジェルは白い結婚だと言われようと、彼を待ち続けて。
エヴァリストがアンジェルにかけられたヴェールを持ち上げる。視界が晴れた先で見えたエヴァリストは緊張しているのか、アメジスト色の瞳が不安そうに揺れていた。
アンジェルはにっこりと微笑むと、彼に敬意を評して誓う。
「たとえ種族の壁があろうとも、ともに困難を乗り越えて幸せになりましょうね」
「……もちろんだとも。アンジェルが死にかけていた僕を助けてくれたあの日から、君は僕の希望の光なんだ。君がいればなんでもできる気がする」
エヴァリストがアンジェルを抱きしめる。
ヴェールがふわりと落ちる。
ヴェールが隠したのは、情熱的な口づけ。
アンジェルはほんのりと頬を赤く染めながら思う。
母に寄り添われて父が泣いているけれど、すぐに今度はトロワーネが、さらにその後にはドゥニーズの結婚も控えている。イーストハーヴの三姉妹にやって来た春は、まだまだこれからだ。
【イーストハーヴの花嫁たち 完】




