天晴
梅雨が近いらしい。
野球の投手のようなポーズをとった。そのまま振りかぶって、サイドスローの様に石を放った。
放られた石は与えられた加速度と回転速度のまま川の上を滑るように跳ねて行って、やがて持ったエネルギーを全て水面を揺らす波へと変えて沈んだ。
「すごい!水切り上手がなんだね!」
好きだった女の子がそうやって褒めてくれたのをよく覚えている。いや勿論、褒めてもらったのはそれが最初でも最後でもない。ただ、世辞や周りの空気に後押しされない彼女の本心からの賛辞だと感じたのはその時だけだったという話だ。
だから僕はその一時とそのセリフをラブレターの様に一生涯握りしめて、そのまま墓に入って土になるだろうという確信めいた思いと共に生きている。
僕は目覚ましを止めた。フライパンに油を目分量垂らして、ガスコンロのスイッチを目いっぱい回してから半分に戻す。洗顔材を指先ひとつ分くらい出して顔に塗り、水道水で洗い流す。冷蔵庫からベーコンと卵を取り出して、ベーコンだけを三枚、火にかける。それから卵を脇へ置いて、髭を剃って眉を整えた。…左を少し短くしすぎたかもしれない。まぁいいか、そこまで僕の顔面を注視する人間などいないだろう。
やや焼けたベーコンを隅へと追いやって卵を割る。片手ではなく両手で。やろうと思えば片手でも割れるのだが、万一破片が入ったり黄身が割れてしまった場合のことを考えればどれほど手慣れたとしても両手で割るべきだと思う。卑しく限界まで白身を流し込んでから蓋をした。
もう一度鏡の前に立って、人は左右非対称に対して敏感であったことを思い出す。誰に聞かせるわけでもないため息をついてから、右の眉を一ミリ削った。冷蔵庫から野菜の詰まったタッパーを手に持って、フライパンからベーコンと卵を(黄身が割れないように極めて慎重に)取り出し、それらをまとめて盛り付けた。マヨネーズと醤油を別の小皿へ投入してテーブルへつく。
「いただきます」
娯楽と呼べるインテリアが本棚だけという人が見れば「つまらない」と形容されてしまうほどに物が少ない部屋だが、僕はかなり気に入っている。目移りすることがないのだ。ただ愚直に、生きることだけに注力できる。
いつもと同じ朝食を摂りながらスマートフォンの電源を入れる。ホーム画面に表示された時計は八時二十分を指し、天気予報は晴れのち雨。今日は折り畳み傘の出番のようだ。そういえばそろそろ梅雨入りも近い季節か。日差しが強いばかりで気温はあまり高くない日が続いていたがどうやらそれも終わりみたいだ。過ごしやすい季節に別れを告げるのは名残惜しいが、時の流れと言われればそれも仕方がない。
撥水と浸水防止加工の靴を装備し、午後からの雨対策は万全となっている。駅までの道のりは綺麗に舗装された道と田んぼ道があってどちらも大して距離は変わらない。少し迷ってから帰りに使えないならと荒い道を選んだ。
革靴に慣れていない頃はこちらの道を通ると靴擦れをしたものだが、社会での面の皮と共にアキレス腱近くの皮膚も厚くなるらしく今はどこ吹く風といった具合だ。そうして畦道を進んでいると周りを蛙に囲まれていることに気が付いた。囲まれていることに気が付くと、うるさいくらいにゲコゲコという鳴き声が聞こえてくるようになる。
「気が早いな」
こんな調子じゃすぐに干からびてしまいそうだ。踏みつぶしてしまわないよう、足音を大きめに立てて歩く。一歩踏み出す度に何匹かが飛び跳ねて、そしてちゃぷりちゃぷりと水へ飛び込む音がする。昔はこの『カエルびびらせ』で一時間は遊んでいたような。
十字路に差し掛かった。ここを右へ曲がると川へ。左へ曲がると学校へ向かう。だから僕は直進をした。童心を振り切って、まっすぐ駅へと。
電車を降りて人の流れの最後方をついて行った。大通りを避けて寂れた道の方を進む。なんとなく集団の中に紛れ込むという行為が苦手だった。周りと同じ動きができているかが気になってしまうのだ。どうしても、どうしても。
だから行進だとかラジオ体操は嫌いだった。鏡を見ながらどんな競技よりも必死に練習して、歯を食いしばりながら本番に臨んだ。今でもそれは克服されておらず、電車でももっぱら隅でスマホを眺めている。
賑やかなのは自動販売機ぐらいの道を行く。車通りもあって人通りもないわけではないが、足を止める人はいない。そんな道だ。昼になれば昼食を求める人で賑わうもそれまでは閑散としていて鳥も鳴き放題である。
そして僕は地面に横たわる奇妙なものを目にした。
落ちている、というか寝そべっていると形容した方が近いような、青色で半液体状の物質があった。物質、といっても蠢いている。何故だが僕は、それが苦しんでいるように思えた。
ゲームの世界に出てくるスライムのように蠢くその生き物はプルプルとしながらどこかへ向かおうとしているみたいだった。というかこれは本当に生き物なのだろうか。ただ揺れているだけなのでは。でも風はないし、地面が揺れているわけでもない。なんとなく辺りを見回して人がいないことを確認してから近寄った。
眺めても特段不思議な箇所はない。…不思議と言えばこの生き物の全てが不思議なのだが。内臓のような器官は見られず、アメーバの類でもナメクジやウジでもないようだ。ここまで三十秒ほど眺めて五センチほど進んでおり、進んだ後には濡れたような跡が残っている。どうやら本当に生きているらしい。
足で突くのも躊躇われるその生物(ひとまず断定)は矢張り必死に前へ進もうとしているようだった。そんな様子を見て、行きに見た蛙みたいだと思った。
「カエル?」
ああそうか、と合点がいく。湿気のある空気に誘われて外に出てみたが、雨が全く降っておらず、ここで干からびそうになっているということか。
でもどこから出てきたのだろう。これがここにいる理由は分かったが、どこから来てどこへ向かうのかが不明だ。恐らく水のある場所へ向かいたいとは思うのだが、こうコンクリートばかりの道では水など全く求めるべくもない。いずれこのまま干上がって野垂れ死ぬのだろう。それもまた自然の摂理といれば是非もない。是非もない、が。
「なんとなく、目の前で死にそうな命は放っておけないんだよな」
昔からだ。そう、昔から。地面に落ちていたあの小さな野鳥を助けようとした頃と何も変わらない僕は、鞄の中から水の入ったペットボトルを取り出して蓋を開け中身を全てその生き物へ向けてぶち撒けた。水が掛かったその瞬間、ビクリと震えた後にウゴウゴと先程よりも機敏に動き出す。どうやらこの対処は正解だったように思われた。達者でな、と心の中で声をかけて、後は雨が降るかどうかの天任せにしようとその場を去った。
どうやらあのスライムは相当に幸運だったようで、天気予報は天に裏切られ僕が会社について十分もしないうちに浴槽をひっくり返したような轟々とした雨が降った。始業ギリギリに出社した同僚は傘を差していたにも関わらずズボンの裾がびしょびしょになったと愚痴っていた。アレについて尋ねようと思ったが、僕の様に遠回りまでして大通りを避ける人は他にいないだろうと口を噤んだ。もしかしたら変な奴に思われるかもしれないし。
昼食の時間に握り飯と野菜の詰まったタッパーを取り出してから、
「あ」
と思い出す。そう言えば持ち込みの水はあの生き物の為に全て使い切ったのだった。一階のロビーには自販機が設置してある。割安と言うわけでもないし品揃えも悪いが、飲み水にこだわりはない。よしんば水が無いにしてもお茶ぐらいはあるだろう。
そう思い財布を持って席を立つ。と、最近頭が寂しくなってきた上司が驚いたように声をかけてきた。
「珍しいな。いつも周到に鞄から全て取り出して見せるのに」
「いやいや、天気予報だって外れます」
そう言うと彼はしてやられたようにニヤリと笑った。どうやら僕の冗談は通じたらしい。分かりにくいだとか回りくどいとよく言われてしまう洒落も、通じれば案外嬉しいものだ。お目当ての水を購入して自分の席へ戻り、いつも通りの食事を胃へと通す。今日の具はシーチキンマヨネーズと塩昆布の海鮮コンビだ。コンビニなどでおにぎりを買う時も必ずツナマヨは購入するようにしている。それぐらいに定番で皆勤な存在だと思っている。宗教と言われてしまえばそれまでだが。
標準的な回数だけ口を動かしてそれらを飲み込み、最後に水を口に含む。何の気なしに窓を見ると雨は随分と小降りになっているようだった。明日は晴れと書いてあったから、この分だと今日の天気予報は二度嘘をつくらしい。なんともまぁ信用ならないやつである。常に嘯く人間よりも、たまに嘘をついたり時々真実を交えてくる奴の方が厄介である現象に似ている。降るものが降らないのなら気にするほどではない。奥底に眠る折り畳み傘は二度寝ができるらしかった。
やれやれ、随分と嫌われたものだ。何がって?そんなの決まっているだろう。定時を少し過ぎてから切りの良いところで作業を終えて退社すると、空はカンカンもカンカン。雲一つない快晴だった。言い換えれば雲量ゼロ、文句のつけようがない天晴れである。ここまで晴れてしまえば多少の嘘であれば目を瞑ってしまえるだろう。
そんなことを考えながら歩くが、今朝のあの生き物が気になって仕方がない。大通りを逸れて、やはり人気のない道を行く。そしてあの電柱の陰に…。
「いないな」
どうやら這ってどこかに行ったらしい。カリカリの板のような死体を目にしなくてよかったと思った。僕の昼食時にかかった百六十円は無駄ではなかったらしい。いやしかし、かの生き物が干物になるかどうかは分からない。もしかしたら全て蒸発してしまったのやも。…それは考えても栓のないことか。
雨上がりの凄まじい湿気と強い日差しによって最悪に暑い。このままでは雨に降られずともずぶ濡れになってしまうだろう。こんなところで立ち止まらずに早々に立ち去ってしまうことにしよう。
そうしてまた僕は行きと同じように列の最後尾に並び、電車の隅でスマホを弄った。しかし、帰りは雨でぬかるんでいるであろう畦道を避けて行かねばならない。あの蛙たちは束の間のシャワーを楽しんだろうか。
「暑いなぁ」
じめじめとしたこの気候は本当に気に入らない。年々気に入らなさが増しているとも言える。この国で暮らすうえでこのサイテーな環境とは切っても切り離せないので、僕は我慢して生きていくのだろう。それもまた、過去の記憶と同じように定まっていることなのだ。
ゲコゲコと蛙の声が少し遠くに聞こえる。まだ水が足りないとでも言うのか。空腹のときにお菓子を齧ると腹の虫が騒ぎ出すように、少しだけ願いが叶った方が、欲望が満たされた方が却って欲求が強くなるのは人だけではないようだ。しかしそれもまた、くどい様に繰り返される是非もなし。恨むのならこの地に生まれたことを恨むのだ両性公。
顎の下を通った雫を拭う。元々早い方ではない足が更にノロノロとしてしまう。このまま過ごせば僕だって例外でなく干からびてしまうだろう。帰り道を半分ほど過ぎてからペットボトルを取り出して口をつける。気づかぬうちにほとんど飲んでしまったようで、上を向いて中身を全て煽るが口いっぱいの量もない。喉を鳴らして飲み込んでも満たされない。
なるほど、この感覚か。どうやら田んぼ在住の蛙とこの僕とでは境遇が変わらないらしい。そんな風に落語にあるようなないような(きっとない)状況を少しだけ楽しみつつ次の歩を踏み出すと、
ザパーーーッ
と、上から大量の水が降った。途端に僕はびしょ濡れになる。髪どころかシャツもズボンもパンツ靴の中靴下まで余すところなく水浸しだ。通り雨にしてはタチが悪いと言うか、日が照っているはずなのに急に振り出すのは奇怪が過ぎる。狐の嫁入りと言うのはこんなあり得ないくらいの量が降るものだったか。
驚いて思わず上を見上げると、
そこにはプルプルとした大きな青いスライムが浮いていた。今朝干からびかけていたそいつは、笑うようにくねくねと揺らいでいる。しばらくそいつと見つめ合っていたが、やがて少しずつ浮いて行って、雨雲の後を追いかけるように見えなくなった。
水を吸ってそこまで大きくなったのか、とか。空から落ちてきて空へ向かう生き物なのか、とか。これは恩返しなのかはたまたただのイタズラなのか、とか。聞きたいことは様々にあったがいずれも問わずに見つめるだけだった。そうした問いの全てを無粋に感じていた。
しかし、
空から来りて空へ向かうというのはなんとも楽しそうだ、混ぜてほしいとは思わないが。こんな風に僕はずっと変わらず明日を生きていくのだろう。きっと、そうなのだ。
そうして僕は、家へと帰った。