人間に憧れた狸の結末
即興小説トレーニングで書いた作品です。
最近、めっきりと記憶力が落ちた。
『老化』
否応なしにその2文字が迫りくる。
視力、聴力、頭髪に歯。あらゆるものが抜け落ちた。
老眼鏡、補聴器そして入れ歯。今の私に欠かせないものだ。カツラは意地でも付けない。そう決めた。
それでも日々は流れていく。私はその流れに逆らう術を知らない。一説には光の速度を超えたとき、時間の流れも超越できるとか、できないとか。そうすれば私の老化も止められるのだろうか。
まるでお伽噺。あまりにも現実的ではない。
私が生きているのは現実だ。
老い先短い人間なのだ。
いや、正確には人間ではない。もうずっと人間の形で過ごしてきたので、私自身『人間だ』と錯覚しているにすぎない。
最初は興味本位だった。一族に代々伝わる変化の術。
時代を重ねる度に変化できる同族は減っていった。しかし私は変化したかった。人間に恋をしたからだ。身も心も人間になりきることでそれは成った。
私は彼女に声をかけ、そうして結婚し、子は生せなかったが幸せな生活だった。しかしそれは私の独りよがりでもある。
私たちの住む田舎のコミュニティでは今でも『女は子を生すのが仕事』と言って憚らない輩が多いのだ。時代錯誤も甚だしいが。
子が生まれず、妻には辛い思いをさせてしまった。
「すまなかった」
病床の妻に薄くなった頭を下げる。
「いーえ」
妻は穏やかに微笑んでいる。
妻の命は風前の灯火だ。痩せこけ、若い頃の美しさは見る影もない。
しかし、今でも妻は美しい。
それは心根の美しさだ。
「あなたは狸。私は人に産まれた。それだけのことですよ」
なんだ、知ってたのか。
「それでも私はあなたがいて幸せでした」
あぁ。私も幸せだった。
後悔はある。
光の速度は超えられなかった。
種の垣根は超えてしまった。
しかし、それでも、私は確かに幸せだった。
老婆と狸が重なるように事切れていのを訪ねてきた隣人が発見した。
どちらの顔も穏やかであったという。
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