序章
この世界には、かつて多くの神々が存在していたと言う。
夜と冥界の神、モールテム。
混沌と悪徳の神、テネブリス。
美と勝利の女神、ウィクトーリア。
秩序と祝福の女神、ベネディクティオ。
創造と運命の女神、ファートゥム。
主にこの五柱の神々が、世界中のさまざまなことを支配していたとされている。
モールテムは地上に住む人間達の安らかな死を。
テネブリスは地上に住む人間達の悪しき心を。
ウィクトーリアは地上に住む人間達の燃える魂を。
ベネディクティオは地上に住む人間達の曲がらぬ意を。
ファートゥムは地上に住む人間達の正しき業を。
神々は、人間達を意思のある道具と認識し、自分達が優位に立っていることを信じてやまなかった。
しかし、神々をも唖然とさせる恐るべき事態が生じた。それ故にある一人の人間に敗北し、神々は辺境の地へと追いやられることとなった。
このとき世界中の誰もが知らなかった、およそ千年前に起きた神と人の決裂がこれから始まる新たな物語のただの序章に過ぎなかったことを。
……否、正確には二人を除いてになるが。
***
誰かが言った、そこは『最後の楽園』だと。
誰かが言った、そこは『地獄の狭間』だと。
誰かが言った、そこは────。
────そこは、美しき幻想の世界というにふさわしい場所だった。
柔らかな月の光が辺りを包み込み、地にある花が咲き乱れ、空には満天の星達が広がっている。
けれども、変化は訪れない。風は吹かず、月も星も一向に動かぬまま。なぜなら、この世界には時間という概念がなく、不可侵領域のただ一人が為の世界だからだ。
────そこは、世界と断絶された何処でもない何処かの場所だった。
そこで悠久の時を過ごした、一人の生命体がいる。
月の光を浴び銀色に輝く髪、汚れを知らぬ白雪のような肌、瑠璃の如き美しい眼を持つ、神秘的な人形じみた美貌の少女がそこに座っている。
「ふわあぁーー」
胡座を組ながらぐいっと背を伸ばし、その人形じみた美貌が半減する勢いで、口に手を当てて大きな欠伸をする。
少女は地面へばたんと倒れ、ごろごろと寝転がっていく。自分の髪の毛でぐるぐる巻きになったり、ならなかったりしながら、ふと仰向けになり空を見上げた。
「────ああ、もうすぐ会えるぞ、私の運命」
天へと両手を伸ばしながら、宣言する。
空に浮かぶ星達を見つながら、少女は悠然と微笑む。
そして、手を下ろし隣へ目を向けた。視線の先には、少女よりも幾分大きな棺がぽつんと存在していた。
その棺は、人が二人ほど入りそうな黒塗りの代物だった。蓋の下部辺りには、神代文字で小さく『黄金の乙女』と記されている。
この幻想の世界において、あまりにも異質なそれは少女がそれを望んだが故に置いてあるものだ。
ここは最果ての幻想郷、ただ一人が為の世界。
「ふぁ、また眠気が襲ってきたぞ」
ごしごしと手で片目を擦り、愛おしそうな顔をして棺を胸に抱える。
「おやすみなさい」
束の間の起床だった少女は再び深い眠りに吸い込まれていく。
少女はそこでただただ待ち続けている、いずれ訪れる目覚めの時を。
***
エテルニタ歴九九四年 第一の月 一日
草木も眠る丑三つ時、この世界唯一の衛星たる月は血のような赤で満ち、夜空に浮かぶ星達がらんらんと光り輝いている。
夜は一等肌寒くなる雪深き砂漠の森林に一人の少年がいた。道なき道を緩慢な動作で歩いている。
その少年は、背に大きな荷物袋を背負い、外套を羽織ってはいるものの、少年の胸辺りには刃物で突き刺されたかのようにぽっかりと穴が空き、周りに血が染み込んでいる。
よく見ると顔色は青白く、足も覚束ない。
けれども、少年はただひたすら歩いている。目に涙を浮かべ唇を噛みながらも、真っ直ぐと前だけを見つめて。
「あっ」
段差につまづき少年は倒れ、荷物袋の紐がぱさりとほどけた。荷物が辺りに散らばり、そしてその中から転がり落ちてきた、月の光によって柘榴色にきらりと輝く《《何か》》が宙を舞う。
「ま、まって」
それは少年の目の前でころんと転がっていき、近くにある湖の中へ落ちていった。湖の波紋が広がり、やがて徐々に消えていった。湖に映る真っ赤な月がゆらゆらと揺れている。
慌てた様子で少年は立ち上がろうとするが、足がもつれ再び転んだ。先ほどは雪が衝撃を吸収し大事なかったが、今度は顔からだったためか額に血が滲んでいる。
額の血を手で抑え、少年はふと後ろを振り返った。
後方より、轟々《ごうごう》と炎が燃え盛る音が聞こえてくる。ここに来るまできっと少年の耳にも届いていたはずだが、ただの一度も振り返りはしなかった。
けれども、少年は振り返ってしまった。
────少年は分かっていた、振り返ってしまったらもう二度と前へ進めなくなってしまうことを。
なぜなら、今まさに燃えている場所こそ少年が生まれ育った大切な故郷だった。
国も、街も、人も、全てが紅蓮の炎に包まれている。建物は徐々に崩れていき、最早以前の面影は存在しない。
そして少年は両親達に生かされ、ただ一人だけあの惨劇を生き残ってしまったのだから。
「あ、あぁ、あああぁ、ああああああああぁ!!」
耳がつんざくような絶叫を上げ、少年は泣き叫ぶ。少年の声に反応したのか、炎の勢いは徐々に増していく。
眼より涙は溢れ、世界を呪うかのごときその絶叫は静かなる夜の世界に響き渡った。
今思えば、この悲劇は今日、否、昨日の朝より始まっていたのかもしれない。