7. 目的地の井戸は蟻塚の裏側で
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もうすぐ終わるけど…。
目的地の井戸は蟻塚の裏側で、好き放題に伸びた雑草にすっかり隠れてしまっていた。
ギリギリまで井戸に寄せた車から降りた私と6月の妹が草をかき分けて足を進めると、驚いたバッタが飛びのいていく。
何匹かはそのまま車体にぶつかったらしく、金属に柔らかいものが当たって脆く爆ぜるような音がいくつもする。
鳥の鳴く声が上から聞こえてきて、私はそれがハタオリドリの鳴き声なのかもしれないと思う。
話に聞いただけのハタオリドリがどんな見た目で、どんな風に鳴くのか知らないのにもかかわらず。
「間違いありません、マダム。
この井戸です。」
6月の妹がそう言える根拠が何なのかわからない私は、とりあえず彼女の言葉に頷く。
その枯れ井戸は、地下に続いているであろう竪穴の回りを赤土と砕いた岩と砂利とをこね合わせた素材で作った土壁で囲っているだけの、極めて原始的な作りをしていた。
まだこの国に赴任したばかりの時、伝統的に使われている水源がどんなものなのかを把握するために訪れた集落で見た、昔からある手掘りの井戸にそっくりだった。
水が出なくなったこの手の井戸を補修するのにはすごい手間とお金がかかるので、絶対に関わらないようにしている。
補修を頼まれても、重機を現場に入れられないのを理由に断固お断りさせていただくタイプの井戸だった。
「よくこんなところまで、独りで歩いてきましたね。」
直線距離で言えば、大家さんの農場からここまで60kmだが、実際にはその1.5倍は距離があるのではないかと思えた。
これを子供の足で1日半で踏破するのは現実的ではない。
私の理性は目的地がここであるはずがないと警鐘を鳴らしている。
それでも、6月の妹があまりにもまっすぐにこっちを見るせいか、そう口に出すのは躊躇われた。
「マダム、井戸を見てみてください。
水がなく、枯れているのがわかっていただけると思います。」
6月の妹に言われて、井戸を覗きこむが、底には何も見えない。
枯れ井戸には蓋がされていないので、細かい砂が入って、埋め立てられつつあるのだろう。
スマートフォンの懐中電灯機能を使って、底を照らしてみても、水らしき光の反射は確認できない。
「確かに、水はないみたいですね。」
そう言って私が6月の妹の方を振り返ると、彼女の隣にはディズニーのキャラクターが描いてある白のTシャツに、穴の開いて膝が抜けた綿の生地のパンツを穿いている男の子がいて、嘲笑うような表情で私を見ていた。
突然現れたその男の子の姿に言葉を継げず、私は6月の妹とその子の間で視線を往復させる。
「やっと会えたね。」
白のキャラTの少年は、12年後に離婚する相手とフランスの空港で初めて会った作家が口にしそうな言葉で私に話しかけた。
私はそれに何と答えたらいいのかわからず、呆気に取られて彼の方を見ていると、6月の妹が不思議そうに聞く。
「マダム?
どうかされましたか?」
「どうも、何も。」
彼女に返事をしながら、相変わらず私が言い淀んでいると、白のキャラTの少年はイタズラが成功したかのように悪く微笑んだ。
「見えてないんだよねえ、姉さんには。
邪魔が入らないようにと思って、そうしたんだけど、どう?
蝶々夫人は邪魔されるのがお好みかな?」
軽薄に過ぎる台詞回しは、初めて会った時の私の勤務先の社長よりも酷い。
礼儀正しさや実直さに溢れる6月の妹達の弟だとはとても思えないその態度に私は腹を立てた。
「姿を見せるなら姿を見せるで、全員に見えるようにしてもらわないと困ります。
このまま見えないあなたに向かって話していると、私の気が触れたと思われてしまいます。
それができないと言うのなら、話は終わりです。
あなたのお姉さんは嘘つきではないし、2人のお兄さんはお姉さんを騙してもいません。
3人のご両親が彼らを捨てたなら、国境まで3人を連れて行った事実は何だったのでしょうか。
お姉さんにわかるように説明できないあなたの問題は、お姉さんにも私にも関係のないことです。
あなたが何をやり直したいのか知りませんが、別にあなたに雨を呼んでもらえなくても、雨季が来れば雨は降るので構いません。
好きなだけ私の不幸を祈っていてください。」
私が一息にそこまで言うと、末の弟は呆気に取られた表情を浮かべ、それからお腹を抱えて笑い始めた。
彼の笑い声に合わせて森が騒めき、それに驚いた6月の妹が不安そうに周りを見回す。
「いいね、蝶々夫人。
あなた、すごくいいよ。」
「そういうのは間に合ってるので、早いところ全員に姿を見えるようにするのかどうか、はっきりしてもらえませんか?
こちらも来たくてここに来たわけではないし、早く帰れるなら帰りたいので。」
「まあそうおっしゃらず。
せっかく来たんだから、ゆっくりして行きなよ。
せっかちだと上手くいくはずのものも上手くいかなくなるよ。」
「ここに来ることになった時点で上手くいっていないと思ってますが。」
「それはまた、何というか。
不可抗力ってことかな。」
そこまで話したところで、末の弟は指を弾いて音を鳴らした。
すると、隣にいた6月の妹が驚いた声を上げて、弟の方をじっと見つめた。
見えるようになったのだろう。
「マダム、弟がいます。」
「ええ、私もさっきから見えています。」
「人聞きの悪い。
まるで人を幽霊か何かみたいに。」
「幽霊でしょう。
しかも嘘ばかり言う質の悪いタイプの。」
「ひどいなあ。
正解が最下位で、正解が最低ってこともあるんだよ?
そこは思いやりで曖昧なままにしておくのが優しさなんじゃないの?」
「それは優しさではありません。
思考停止です。
プロジェクトマネジメントには必要のないものです。」
末の弟は肩を竦めた。
それを見て私はより一層腹が立った。
「まあ、何でもいいので、とりあえず要求は何なのか教えてもらえますか?
やり直すとか、雨を呼ぶとか、正直どうでもいいので、要点だけ簡潔に言ってください。
できるかどうかはそれから判断しますので。」
無粋だなぁ、と大きな独り事を口にしながら、末の弟は言葉を継ぐ。
「端的に言うと、蝶々夫人、あなたにスイカを調達してもらいたい。」
「スイカ?」
「そう。
できるだけたくさんのスイカを。
姉さんは蝶々夫人が買ってきたスイカをしこたま枯れ井戸に投げ入れる。
スイカで枯れ井戸が埋まったら、蝶々夫人はいつも飲んでる高いウイスキーをスイカの上に流し込む。
その後、姉さんは、僕の弔いをやり直す。
そうしたら僕は雨を呼べるようになる。」
「ちょっと待ってください。
ウイスキーをスイカの上に垂らすのはまた何故?」
「触媒だよ。
いい年したプロジェクトマネージャーのくせに、そんなことも知らないの?」
何の召喚術なのか、問いただしたくなるような回答に頭が痛くなる。
「そんな根拠と論理に乏しい非科学的な行為はプロジェクトマネジメントに必要ありませんので。」
「科学と論理に捕らわれた、寂しくも可哀想な悲劇のプロジェクトマネージャーってことだよね。
自己憐憫はみっともないよ。」
「そうですか、勉強させてもらいました。
お暇しますので、どうぞご達者で―」
「お願いだ、後生だから。」
話を打ち切って帰ろうとした途端、さっきまでとは打って変わって、真剣な声で末の弟は言う。
「助けてほしい、蝶々夫人。」
気が付くと、森の騒めきはすっかり収まっていた。
私は行き場のない苛立ちと、素直に首を縦に振りたくない気持ちを抱えたまま、じっと押し黙っていた。
「マダム、私からもお願いします。」
6月の妹は、私の上着の袖を引っ張って言った。
「弟は生意気で腹が立ちますが、安らかに眠れないのであれば、気の済むようにしてやりたいんです。」