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短編

ヴァルミニスキの聖職者と私

作者: きしの

 外国人が、うじゃうじゃいる。

 いや、そんなにたくさんはいない。でもどこを見渡しても高い鼻に白い肌。髪は金や茶。そしてぽつんと低い鼻、黄色みがかった肌に黒い髪の私。

 友達と遊びに行った帰りだった。靴もブラウスもスカートもコートも、お気に入りのものばかり。今日は新調したコスメでメイクしたから、いつもよりいい感じになった。映画を見て、クレープを食べて。完璧な一日の終わりにこれとは一体、どういうことなのだろう。

 密集した建物を眺める。活気が溢れているとは言い難い町。しかし確かに人々の生活の様子が伺える。冷たい風が頭を冷やして、これは現実なのだと私に知らしめる。

「珍しい出で立ちですね、お嬢さん。お困りのようでしたら教会へいらっしゃるといいですよ」

 しばらくぼんやりしていると、一人の男性が声を掛けてきた。外国人というのは実年齢より老けて……大人びて見える。もしくは日本人が若く見えるか。

 夕暮れ、怪しげな光が彼に落とす影。私には彼が何歳なのか、到底推測できなかった。

「それは……ご親切に、どうもありがとうございます。お邪魔します」

 不可解なことに私は彼の言葉を解し、彼もまた私の話す言葉を解すのであった。

 知らない人に着いて行ってはいけない。今どき幼稚園児でも知っているだろう。ましてや高校生の私が迂闊にもそんなことをするなど、普段ならばあり得ない。

 しかし私に教会へ行かないという選択肢はなかった。なぜなら行くあてが無いからだ。

 私は典型的な日本人であり、信仰心はそこそこあるが、ほとんどない。つまりは新年は初詣に行き、節分には豆まきをし、ハロウィンやクリスマスを楽しみ、法事では念仏を聞き、受験期にも神社に行き、困った時には神頼みをするということである。

 それでも教会はきっと受け入れてくれるだろう。迷える子羊を見捨てないだろうという打算。

 くっきり二重の彼は私の答えに深く頷き、自分はカノンなるものであってうんにゃ、などと話した。聞き返すとリツシュウジサイだとの返答。神父みたいなものだろうか? どちらにせよ、よく分からない。

 それから彼が歩き出したので、私も慌てて続く。私が隣に並んでから、彼はコペルニクと名乗った。

 思わずへえ、と言ってしまって、怪訝な顔をされたので慌てて弁解する。

「似た名前で歴史に残る発見をした人がいたんです。四、五百年前の人なんですけど」

「なるほど。その偉業とは一体?」

「地動説の発見ですね」

 ニコラウス・コペルニクス。彼はガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンに並んで、有名な天文学者であると思う。

 私の答えを聞いたコペルニクさんの表情が一瞬こわばった。そういえば教会っていうのは基本的に地球が中心になって宇宙が回ってると信じてるんだったけ。

「アリスタルコス以降にも地動説を提唱した人がいたのですか?」

「アリスタルコス?」

 思っていたのと違う反応。タブーでなかったのか。というかコペルニクスが地動説を提唱した最初の人間ではなかったのか。それが何者なのか聞き返す前に、彼は話を切った。

「いえ、知らないようでしたら別に。そこまで重要なことでもありませんから」

「そうですか」

 アリストテレスなら知っているけれど、アリスタルコスは知らない。少し響きが似ているから、ひょっとすると私がアリストテレスと聞き間違えたのかもしれないな。

「そうだ、名乗り遅れました、私はケイ・イチノセです」

「ケィイチ・ノセ?」

 それだと男性になってしまう。なんてまさか彼は知らないだろうけれど。

 内心苦笑して訂正した。

「一ノ瀬です」

「ああ、そこで区切るのですね。……あそこですよ」

 コペルニクさんが指をさす。立派な十字架付きの、可愛らしいこじんまりした建物。花畑の中に建っていそうだ。カトリックかプロテスタントかは知らないけれど、十字架と言えばキリスト教。正教会は玉ねぎ型のドームがくっついているから絶対違う。

 彼はどこからともなく鍵を取り出し扉を開いた。教会と言うのはシスターが在住しているイメージだったけれど、違うらしい。修道院と混同している可能性はある。

 日はほとんど沈んでいて中は真っ暗だった。コペルニクさんが入り口に置いてあった燭台に明かりを灯す。現代人の私にはほのかな明かりは新鮮で、そして闇の恐怖をより感じさせる代物だった。

 彼は燭台を持って、教会の奥の小部屋へ私を招いた。小さな机と、椅子が数脚。私たちはそれぞれ腰掛け、机を挟んで向かい合って座った。コペルニクさんは燭台を机の上に置いた。

 今から怪談をするのだと言われても過言ではない。そんな雰囲気。でもきっと、彼から見ても私の顔は、不気味に照らされているのだろうなあと思う。

「イチノセさん、あなたは何者ですか?」

「一介の女子高生です」

「ジョシコーセー」

「要はまあ、学徒ですね。様々なことを広く浅く学びます」

「女性なのに、ですか」

「男女平等に門戸が開かれているので」

 コペルニクさんは軽く目を見開いた。

 そういえば地動説のくだりでも変な反応を返してきたな。まるで私の言っていることが突拍子もないような、そんな反応だった。

「私迷子なんですよね。ずっと遠いところから来たんです。だから文化や風習、考え方が違うのも当然のことかと。ええと、ここはどこですか?」

「ヴァルミニスキです」

「どこの国でしょう」

「どこって、ポーランドですよ。私もあなたもポーランド語で話しているのに」

「あはは……そうですよね」

 全然あははじゃなかった。

 私が話してるのは日本語じゃなかったのか。いや、言葉が通じている時点でおかしいなと思うべきだったのだろうけれど。というかなぜにポーランド。

「……今何年でしたっけ?」

「一五〇五年ですよ」

「ありがとうございます」

 これで不信感を抱かれない方が、不思議というものだ。

 一五〇五年のポーランド。十六世紀、日本は室町時代の終わりか戦国時代あたり。私はどうやらタイムスリップしてしまったらしい。本当に行くあてが無くなってしまった。

「イチノセさん?」

「いえ、これからどうしようかと思って」

「あなたは学徒なのですよね?」

「学徒でした。もう行くあてがないんです」

 笑顔で返す。私は日本人お得意の作り笑いを上手く習得していると思う。きっと自然に笑えているだろう。

 私はあまりにも非現実的な現実と現状を咀嚼するのでいっぱいいっぱいで、それなのになぜか冷静でいられたのだった。衣食住何一つない私に必要なのは、確かに冷静でいることだ。

 生きるためには糧を得なくてはならない。でも、どうやって。

 必死に考える私に、コペルニクさんの優しい声がかかる。

「学校では何を学んでいたんですか?」

「先ほども言ったように広く浅く、色々なことを。数学、外国語、歴史、生物学、地学、芸術などです」

「生物学、とは医学にも通じるものがありそうですね。私は聖職者でありますが、医師としても生活しています。とても忙しいので、看護師として手伝っていただけたらとても助かります」

 私は驚いた。聖職者で医者って、なんだそれ。とても人々に貢献している感じしかない。

 そして彼の申し出は私にとって、とてもありがたかった。おかげさまでルンペンを回避である。

「ぜひお受けさせていただきたいです」

「それはよかった」

 コペルニクさんは微笑んでゆっくりと立ち上がった。私もつられて椅子を離れる。

 ずっと座っていたので体はすっかり冷えていた。膝に乗せていたバッグのぬくもりがゆっくりと消えるのが悲しい。

 彼はさらに奥の部屋の戸を開けた。ベッドと机のある小さな部屋。

「ここの鍵を渡しておきますから、今日はここで休んで下さい」

「ありがとうございます」

 至れり尽くせりだなと思いながら、小さな鍵を受け取った。

「私は普段司祭宮殿にいます。朝食を済ませてから来てください、ゆっくりでいいですよ。このあたりで医師というと私ですから、街の人に聞くといいでしょう」

「分かりました」

「おやすみなさい、良い夜を」

 コペルニクさんは机の上にあった蝋燭に火を灯し、燭台を持って出ていった。ドアの閉まる音を聞くまで、私はそのまま突っ立っていた。


 すっかり独りになってしまってから、私は緩やかに部屋を見渡した。簡素だが綺麗に整えられているように見える。暗いからよく分からない。ひとまず寝るところを確保したことに安堵する。

 バッグを机に置こうとしてふと見ると、小さな袋が置かれていた。硬いパンが二つ入っている。いつの間に、と思うと同時に少々の申し訳無さがこみ上げた。何から何までお世話になりすぎだ。

 クレープを食べて以降は何も口にしていなかったので、パンを一つ手に取って、なんとか半分にして口に運ぶ。味なんて分からない。からっぽの胃に食物が入る喜びと、やるせなさが混じり合って床を濡らす。さっきまでなんともなかったのに。

 一度何か食べてしまうと、胃は空腹を訴えてきた。しかし明日の朝食分まで平らげる訳にはいかない。寝ることにした。

 卓上にあった銀色の道具で蝋燭の火を消す。鳴らない小さなベルに棒がついたものだ。使い方は間違っていない……はず。

 建物内とはいえど、かなり冷え込む。コートは脱がないことにした。そのまま横になると溜まりに溜まった疲れが眠りの波を伴って押し寄せる。ベットが少しごわごわしていたが、それも気にならないほどだ。

 一瞬脳裏をかすめた「メイク落としてない」の一文もさらりと流されて。抗う理由もないのでゆっくりとまぶたを閉じた。



 ◇



「随分と早いですね」

「そうでしょうか」

 コペルニクさんに鍵を差し出して答える。丁度いいと思ったけれど、違うのだろうか。

 腕時計はもはや用をなさない。さんさんと太陽が輝いているにも関わらず、五時を示しているのだ。時間が知りたければ太陽を見るしかない。

 今朝、目が覚めてまずは寒さに震えた。時計を確認して、すわ午後になってしまったと驚いたものの、外に出てみれば太陽は東にあった。安堵の息をついてもそもそとパンを齧り、街をゆっくりと歩きながらやって来たのだ。遅いくらいかとも思っていたというのに。

「疲れていたでしょうから、もう少し遅いかと思っていたんですよ」

「故郷には、働き者は食うべからず、ということわざがあるんです」

 コペルニクさんは苦笑して、私に別の鍵を渡した。

「これは?」

「長持ちの鍵です」

 彼は紙を一枚出して、簡単に図を描いた。

「ここに来るまでに、こんなところを通って来たでしょう。ここの家の一室があなたのものです。三階の一番奥ですね」

 この時の私はなにも知らなかったのだが、中世ヨーロッパでは一つの部屋に複数人が生活していることが普通だった。むしろひとりで一部屋使っている私はかなり贅沢な部類に入っていたのだ。

 それから彼は私に仕事内容を告げる。ぬるま湯で育った私にもできそうな、簡単な内容だった。

 ただ如何せん量が多い。即座に手を挙げた。

「あの、書き留めておくものを頂いてもよろしいですか?」

「紙とペンですね。どうぞ」

 彼は机をかき分け、無地の紙を発掘した。インク壺と新品のペンも渡してくれる。ペンはいかにも鳥の羽だ。少しカッコイイ。壺の蓋を開け、ペン先にインクをつける。そして私は挫折した。

 意外とうまく書けない。紙も質が荒くてペン先が引っ掛かる。

 四苦八苦して、ようやく書いた文字は、ひどく不格好だった。

「変わった文字ですね」

「母国語なんです」

 彼はしげしげと私の手元を見おろす。

「どこの国ですか?」

「東のほうですよ。オスマン帝国よりも向こうの。とても遠いです」

 オリエントとすら言わない。

 今は一五〇五年。今こそ日本史選択者の実力を発揮するときだ。ザビエルが日本に来たのは一五四九年、戦国時代だった。天正遣欧使節がさらにそのあと、一五八二年。現段階で日本という小さな島国が認知されている可能性は低い。

 いや、東方見聞録は知っているだろうか。著者マルコ・ポーロが仕えていたのはモンゴル帝国の皇帝フビライ・ハン。彼の在位中に二度にわたって行われた対日本侵攻、すなわち元寇は文永の役一二七四年、弘安の役一二八一年。二百年と少し前だ。

 そうだとしても、この時代の人々はジパングという島のことは知っていたとしても、日本のことは知らないかもしれない。仮令知っていたとしても、私の知る日本を知る人はいない。そういうことだ。もはや別にそれでも構わない。

 私はコペルニクさんに業務内容の続きを催促し、慣れないペンで文字を書き連ねていった。


 仕事は基本的に掃除洗濯などの雑務と、コペルニクさんのもとを訪れて来た人たちの相手だ。何人待っているかを伝えたりとか、ちょっとした世間話だとか。それからコペルニクさんに、誰のところは自宅に訪問してほしいそうだとかを伝える。

 西洋人ではない私は浮いていて、初日から質問攻めに遭った。

「コペルニク先生とはどういう関係で?」

「変わった服ね。染色も綺麗だわ」

「ポーランド語は完璧だけど、この辺の育ちじゃなさそうだね。出身は?」

 一つ助かったのが、彼らが怪しげな外国人に寛容だということだ。コペルニクさんがこのあたりでそこそこの有名人だというのも幸いしたのかもしれない。善い人の下にいるのは善い人だという方程式が存在するのだろうか。

 私は彼らを適当にあしらい、私だけで処置ができる人にはそのようにした。彼らは私にライ麦やはぎれや、果物をくれた。

 コペルニクさんから労働の対価として渡されるのも、またお金でなく食べ物だった。食べるものに困る経験のなかった私には渡される食料は充分とは言えず、貰った分はその日の内に無くなるのが常だった。

 街での買い物は、物々交換でも問題なかった。私は針と糸を入手し、私の知るものよりもはるかに使い勝手の悪いそれらで、なんとか針仕事をした。出来上がったもので新しい糸や食べる物を得る。

 布は意外に高級品だった。パンを焼くかまどもある場所が限られているから、コペルニクさんがパンをくれるのはありがたかった。

 質素で丁寧な暮らしは、現代日本で大量の情報に囲まれ疲弊した私を緩やかに、しかし確実に回復させた。私はその一日を生きることに必死だった。けれども心にゆとりを持てるようになっていった、気がした。


 ある日のことだった。前日に、翌日は早く来るようにと伝えられていた私は、いつもより急いでパンを食べ、小走りで司祭宮殿に向かった。

 朝焼けに照らされた道は、別世界に続いているのではないかと私に錯覚させる。冷たい風が頬をなぜて、これは夢ではないのだと囁いた。未だに日本に戻ることを期待している私がいたことに少し、驚く。

 コペルニクさんはいつもと変わらぬ様子で私のことを待っていた。

「あなたに読んでいただきたいものがあるんです」

 そう言って、ずっしりとした紙の束を私に寄越す。

 会話に不自由しない私でも、残念なことに文字は読み書きできないらしい。私にとって何の意味もなさないアルファベット群を眺めて、何枚か紙をめくる。

 そもそも文書が筆記体なのだ。ブロック体に慣れた私には、簡単な英単語であっても解読は困難を極めたに違いなかった。ところどころ添えられた図も何を意味するのか分からない。

「すみません。こちらの文字は分からなくて」

 学問を修めていた私が文盲というのは怪しさ満点だろう。いや、日本語ならば読み書きできるけれども。

 コペルニクさんはそんな私を訝しむことはしなかった。ただぽつりと呟く。

「女性にも開かれた学校は、聞いたことがありませんからね。ラテン語を読み書きできなくても不思議ではありません。あなたが日ごろ使っている不思議な文字、あれは本当にあなたの母国のものなのですね」

 ラテン語。長くヨーロッパで公用語として使われてきた言語だ。学問を修めている者ならば知っていて当然のはずだが、残念ながら私が学問を修めたのは現代日本だ。

 彼の言葉が皮肉なのか何なのか分からないまま、曖昧に誤魔化すしかなかった。

「そう、ですね。遠すぎて、もう帰れません」

 距離だけでなく、時間軸も絶たれてしまった。コペルニクさんは私を一瞥して、今度こそ何も言わなかった。



 ◇



 私と彼はほぼ毎日、日中を共に過ごしたが、会話内容はもっぱら業務連絡だった。

 湯を沸かしてほしい、今日訪問する家をリストアップしておいてほしい、今日はもう帰宅しなさい。

 私たちの精神的な距離は、出会った時からさほど変わりない。


 その日は珍しく訪れる人が少なく、すぐに私とコペルニクさんだけになった。彼は忙しそうだから、毎日これくらいがちょうどいい。

 私は彼から報酬を受け取り尋ねる。

「私にラテン語を教えていただけませんか?」

 以前渡された文書。あれを読むことができなかったことは、ずっと私の心に引っ掛かっていたのだった。コペルニクさんの方をそっと伺う。彼はにっこりとほほ笑んだ。

「いいですよ」

 即答だった。彼は私に何も尋ねなかった。私なら彼が唐突に、私の使う文字を覚えたいと言ったら動機を聞くだろう。そして答える。とても種類が多く難しい、と。

 諦めるようには言わない。遠回しに断るのだ。

 しかしコペルニクさんはとても好意的だった。

「それならば文字を覚えるところからですね」

「英語を勉強していたので、アルファベットは分かります。ただ、崩してあると読めません」

「そう、ですか」

 ここは明らかな動揺が見えた。英語に関して何も聞かれなかったから、この時代には既に、英語が英語として成立しているのだろう。東出身の私が、西で話される言語を学んでいることが意外だったか。

 しかし彼は決して私を詮索しない。それが彼の掟なのか、彼なりの気遣いなのか。

「明日から少し早く来れますか? もしくは少し残っていただくか」

「コペルニクさんのご都合に合わせますよ」

 彼は少し考えこむ素振りを見せた。

「実は大学で天文学も修めていて、しばしば天体観測をしているんです。ですから夕方のほうが……」

 聖職者で医者の彼は、天文学者でもあったらしい。私は自分のスキルの低さに悲しくなった。しかし私はぬるま湯で育った、ハングリー精神のかけらもない現代日本人。

 今ここで初めて自分から勉強したいと思ったものがある。これは私史上最も偉大な記録だ。だから落ち込む必要はないのだと言い聞かせ、努めて笑顔で会話に臨む。

「天体観測ですか」

「そうなんですよ。星を見て、周期を記録することはとても興味深い。古代より人々は星を見て暮らしてきましたから、彼らと同じ景色を私も見ているのだと思うと心躍りますね」

 彼は自分の専門分野について話すことが楽しいのか、いつもより少し饒舌だった。

「私も星を見るのは好きです。プラネタリウムとか」

「ぷらねたりうむ?」

「え……っと、星の動きを再現するんです」

「それはとても素敵ですね」

 言葉選びを間違えたかもしれない。せいぜい星が綺麗に見える場所とでも言っておけばよかった。彼は新しい考え方だと呟き、手元の紙に何か書き留めていた。

「では明日から早く診察を切り上げましょうか」

「はい、ありがとうございます」

 裁縫の他に、私の日課が増えた。


 ◇


 ポーランドに来てから、二回冬を越した。十六だった私は十八になった。私は日曜日になれば街の人たちと共に教会に向かったが、洗礼は受けていない。それでいて聖職者であるコペルニクさんのもとに通う私の評価はまちまちだ。

 彼らは異教徒である私のことを図りかねているようではあるが、なんだかんだ言って結婚話も持ち出されていた。私はどれも受ける気がなく、断り続けたため彼らもそういうものなのだろうと認識しているらしかった。

 今後も結婚するつもりはない。街の女性たちは一年中妊娠しているように思う。子供の死亡率が高いことと、娯楽が少ないことが影響しているのだろう。私はそれに耐えられる気がしないのだ。

 そしてもうすぐ三度目の冬が来る。ここでの冬は長く、昏い。


 私がここに来たのは春だったらしく、初めての冬に私は大いにうろたえた。ポーランドは四月や五月でもとてつもなく寒い。錯覚するのも仕方がなかった。内陸ではなかったと思うが、純粋に緯度が高いのだろう。

 雨、雪、曇りの日が増えるにつれ、私は食べる量を減らして、保存食として長持ちに詰め込んでいった。重ね着するための服も何着も縫った。

 そして本格的に冬に入る頃、私はコペルニクさんから休みを貰った。彼は二つ返事で承諾した。私は基本的に一日中ベッドの上で何重もの布にくるまり、食料を節約するためにしばしば一日一食のこともあった。そして二十一世紀のものに比べれば、おそらく圧倒的に質の悪く度数の低いビールで体を温めた。

 その結果、なんと栄養失調で死にかけたらしい。

 らしい、というのも気が付けば日付が何日か飛んでいて、なおかつコペルニクさんからお叱りを受けたからだ。誰が発見してくれたのかは分からないが、大変ありがたいことである。ただしありがたくないことに、病み上がりの頭に彼の小言はかなり響いた。

 比較的食糧事情の改善されたこの時代で、栄養失調で死にかけるのは珍しいそうだ。特に医者である彼のもとで働いていた私は。

 彼は私がここでの生活に馴染みすぎて、異邦人だということを忘れていたらしい。ポーランドの冬はこのあたりのどの国と比較しても、とても寒い部類に入るのだそうだ。故に旅人が冬にポーランドにとどまることはない。

 東は暖かいのかと聞かれても、答えに困る。私は日本のことしか分からないのだ。少なくとも私のいたところでは、雪は降っても積もらないのだと言うと、とても驚かれた。雪が積もらないのは地球温暖化と、アスファルトの保温効果が大きいのだろうけれど。

 ともかくおかげで私は、日本人はどんな環境におかれても高い適応力を発揮する、ということを、我が身を持って実感した。もちろんコペルニクさんにはチクチクと嫌味を言われた。今思うと彼にしてはとても珍しいことだ。

 多大なるご迷惑をおかけしましたと謝ると、迷惑には思いませんが心配しましたと返される。社交辞令や表向きの言葉でなく、きっとそれが彼の本音。優しい世界だった。


 二回目の冬は比較的楽に越せた。こちらでの暮らしに充分慣れたことと、一年目の反省を十分に活かした結果だ。

 最近は天体観測も手伝うようになった。資料の整理や簡単な統計、記録は天文学を修めていない私でも可能だ。彼が何を知ろうとしているのか、私に知る余地はない。星を見ることは好きだけれども、だからと言ってそこから導かれるものにはさして興味がないのだ。

 彼は曰く私の話を参考にして、実際に天体の軌道を再現する装置なるものを作ったらしく、意見を求められることもあった。そんな話をした記憶はない。わあ凄いですねなんて、その程度の返事しかできなかった。

 この人は本当に星を見るのが好きなんだな。ついでに研究者気質も作用しているのだろう。何かが脳裏を一瞬通りかかったような気がして、でも私はそれに反応することはなかった。

 

 少し俯いて、寒さを紛らわすために小走りになった。左右から投げられるおはようの挨拶を返し、私は宮殿に向かう。まだ薄暗く静かな街の空気に私の白い息が溶ける。


 滑り込むようにして入った建物内は、いつもと変わらず静まり返っていた。静かにコペルニクさんのいる部屋に向かう。

 彼は最近机に向かっていることが多い。医者として活動することが減ったが、私は依然として彼に雇われている状態である。今は天文学者としての研究に力を注いでいるのだということは薄々感じていた。

 彼は湧いた湯を椀にそそぎ、息を切らした私に差し出した。ありがたく受け取って口をつける。味噌汁が恋しくなるのはこういう時だ。

 コペルニクさんはお湯で暖を取る私を見下ろして、静かに言った。

「初めて会ったときに、あなたが私に地動説の話をしてくれたのを覚えていますか?」

「ええ、まあ」

 業務連絡かと思ったら、二年前のことだった。そんなこともあった気がする。てきとうに返事をしたことを少し後悔しながら、薄れつつある記憶を必死にかき集める。

 私は初対面の彼に地動説について話したのか。いや、確か地動説の話ではなかった。単にコペルニクさんと名前が似ている人が地動説を唱えた、ということを言っただけである。

「それがどうかしましたか」

「太陽中心説、と呼んでいたんですけどね。私も、実は、その着想を得ていまして」

 やけに歯切れが悪い。私は静かに続きを待った。

「太陽中心説は、紀元前にも提唱した人がいました。あなたはご存知ありませんでしたが……アリスタルコスと言います。古代ギリシアの天文学者であり、数学者でもありました」

 あのときのあれは、聞き間違いではなかったのだ。私は一人で勝手に納得した。

 ところで話が見えてこない。だからなんだと言うのだろう。

「私は、あなたが地動説について何か知っているのではないかと思って……。太陽中心説には批判が伴うことが常ですから。あなたに仕事を与え、私の近くに居るようにしたのは、ただの打算でした」

 打算。全ての聖職者が芯まで清らかだとは限らない。だからと言って私に彼を軽蔑する資格なんてないのだ。私も打算をもって彼の申し出を受けたのだから。

「声を掛けるまでは、私が地動説についてどう思っているかなんて分からないでしょう」

 それに、私は確かに助かったのだ。彼が、コペルニクさんが屋根のあるところと、仕事を与えてくれなければ、きっと野垂れ死に、ネズミにかじられていただろう。

「あなたの格好はどんな貴族や庶民のものとも異なっていた。どの大国にもこんな高度な技術を持つ職人はいないでしょう。ですからあなたは他の誰とも異なる考え方を持っているのではないかと……」

「……コペルニクさん、私の居たところでは地動説が一般に支持されていました。そりゃ宗教の都合で地動説を否定する人もいたみたいですけど……。でも宇宙から地球を見る技術も確立していたので、それが正しいと科学的にも証明しているんですよ。つまり地動説が正しいことを証明する手段を私は持ちませんが、知識として知っています」

 たった今感じたこと、思ったことを忘れないうちに彼に伝えなくてはならない。言葉が口からあふれ出す。息継ぎですら煩わしい。

「だから研究してください。私が、コペルニクさんの考えていることが正しいとを知っています。正しいことを正しいと言うことは悪くない。それに学者なら宗教観念に囚われずに物事を判断するでしょう。世界の真理を突き詰めようとすることは当然の欲求で、制限されるべきではないと思うんです」

 最後は自然と早口になった。肺に酸素を送り、どうしたら彼の背を押せるだろうかと考える。

「声高らかに宣言しなければ教会に処断されることはないでしょう。それではいけませんか」

 彼はうなだれた。研究結果が認められないというのは、研究者にとって無意味でしかないだろう。きっとそれはとても心苦しく、辛く、歯がゆい。

 しかし、どう頑張っても教会は地動説を良くは思わないに違いない。現にガリレオ・ガリレイは弾圧されてしまった。もう一人の天文学者、コペルニクスの場合はどうだっただろうか。

 私が記憶に検索を掛けていると、彼は静かに、私に紙の束を差し出した。論文だ。タイトルはラテン語。

 三年前のあの日が重なる。あの時は読めなかったけれど、今は少しは読める。一日の終わりに彼に習い、朝起きて復習してから彼のもとに向かうのが日課だった。庶民は家具を持たないのが一般的で、私は家で長持ちの前に跪いて書き取りをしている。英語でさえこんなに必死になって勉強した記憶はない。

 というのも残念なことに、文章を読み上げると私の耳には日本語に翻訳されて届く、なんて便利な機能は備わっていなかったのだった。ポーランド語では試せていないが、言葉が通じているからその場合は効果があるのだろう。それに自分から学びたいと言った手前、私は自分でもなかなか真面目な生徒なのではないかと思うくらいには熱心に取り組んでいるつもりだ。

 頭の中に辞書を開き、タイトルに目をやる。コメンタリオルス、小論。そのままだ。

 くすりと小さく笑って、しかしタイトルの下に控えめに記された著者名を認識した瞬間私は凍り付いた。思わず目を見開く。口から音がこぼれ出る。

「Nicolaus Copernicus」

 そこで私は、彼がニコラウス・コペルニクスその人だと気がついたのだった。


 ミコワイ・コペルニク、もといニコラウス・コペルニクス。もしかすると私は既に彼が何者なのか、気が付いていたのかもしれない。いや、きっと気が付いていたのだ。だから私は蓋をした。これは私の防衛本能。

 彼は天動説の根付いた中世後期のヨーロッパで、聖職者でありながら教会の世界観に背き、星を見ながらひっそりと死にゆくのだろう。そして私の知る通り、天文学上最も重要な発見をした人物として、死してなお半永久的にその名は語り継がれるのだろう。

 家族は私の失踪宣告を請求しただろうか。生きていると信じているのだろうか、あるいはきっと既に死んだことになっている私、私は。


 歴史に名を遺す彼と、決して残ることのない私。

 高層ビル、新幹線、飛行機、原子力発電、インターネット。ここで生きる彼らにとっては奇跡以上に信じ難いものたち。でもそれらは確かに、当然のように私の身の回りにあったのだ。遥か彼方の時間軸に存在する私の故郷。四季の移ろいが美しい、色彩豊かな極東の島国。

 里心も未練も何もないと言えば嘘になる。それでも私はここで生きていくのだ。生きていかざるを得ないのだ。これが私の生きる道。幸運にも得ることのできた唯一の選択肢。


 私は二度と見ることの叶わない景色に思いを馳せて、そっと肺の中の空気を吐きだす。そして偉大な天文学者の書いた論文のページをめくった。

なんちゃって十六世紀でした。

近世なのか中世なのかよくわからなくて、かなりてきとうです。

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