ミッドナイト・イーテリー
ふと、目が覚めた。
眠りが浅かったのだろう。頭に靄がかかったようで、思考がまとまらない。
感覚はまだ深夜のはずだと言う。やけに明るいのは、部屋に帰った時明かりを消さなかったのか。
昨日帰ってからの行動を思い出す。電気を消した記憶は確かにない。いや、正確に言えば家に帰った記憶自体が頭の中に見当たらなかった。
眩さに耐えて目を開く。まずは時間だけでも確認しよう、と時計のある方を見ようとして、血の気が引いた。目に飛び込んできたのは、緋色。緋色のシートであった。
何事かと起こした体を強い横揺れが弄ぶ。不快に感じたが、それでいくらか思考が冴えた。自分の置かれた状況を理解する。私は電車で眠ってしまって、降りるべき駅を寝過ごしたらしい。
面倒なことになった。どうしたものか、と迷うより先に電車はゆっくりと速度を落として停まり、私の座っていたシートの横のドアが白々しい音を伴って開いた。冷たい夜の空気が流れ込んで、体を冷やす。
とりあえず、降りてから考えればいいだろう。私は荷物を掴んで開かれたドアから駅に降り立った。
迫る冬を感じさせる寒気に身震いをして立ちすくむと、すぐ後ろで自動ドアの閉まる音がして電車は逃げるように走り去った。運転手がせっかちだったのか、私の頭がまだ目覚めていないから周囲の動きについていけないだけなのか。どちらにせよ、一人残された寂しさのようなものを微かに感じながら、私は改札を探した。
知らない駅だった。いつも使っている電車ではあるが、自分の利用しない区間のことは全然わからない。とはいえ、駅の機能などそう変わるものでもない。ちょっと探せば出口は見つかるし、駅員もいるし、自動販売機で懐炉代わりのホットコーヒーを買うことも出来るはずだ。
しかし、どこを探しても改札のようなものは見つからない。それどころか建物と呼べるようなものも目に入らず、降りたところにひっそりと建つ屋根付きベンチだけが、唯一設備と呼べそうなものであった。
これは参った。寒い中だというのに薄く汗をかいてしまう。降りればなんとかなるだろうと思ったが、こんなことなら終点か、そうでなくともある程度大きな駅まで乗っていくべきだった。まさか、こんな無人駅があるとは思ってもみなかった。
だが、無人駅と言っても改札が無いのはおかしな話だ。料金をとれないのでは駅に停まる意味がない。それとも、車内で何らかの手続をしなければいけなかったのだろうか?
冷や汗が止まらない。咎めるように寒気が肌を焼いた。どうあれ、このまま駅で立ち尽くしていては体温が奪われてしまう。鉄道会社に問い合わせるにしても、一度コンビニか何かを探して自分の身を守るべきだ。私は緩やかなスロープを降りて、建物のありそうな方へ足を向けた。
灯り一つ無い暗闇が辺り一帯を支配していた。人家や店のようなものもあるが、一様に光は無く、昼間の活動を感じさせない。曇っているのか、空に星の光を見ることも出来なかった。その中を一人歩くのはあまりに心細かった。
微かな風音ひとつとっても恐怖を誘う。自分の呼吸までやけに大きく響くように思う静寂の中をあてもなく歩いていく。自販機一つでもあれば心強いのに、存在するのは車道と歩道の区別も曖昧な頼りない道を見失わない程度の弱々しい自然光だけだった。
寒気はいよいよ体を芯まで冷やして、骨にまでその手を伸ばしていた。まだ初冬のはずなのに、取り返しのつかないような極寒が体を震わせた。知らない駅で降りなければ、安心な駅まで待っていれば、そもそも電車で眠ってしまわなければ、家を出る時に上着一枚羽織っていれば、尽きない後悔が感情までも凍結させるようだった。
そんな意味のない自責に囚われていた私は、自分の目が明らかな人工の灯りを捉えたことにすぐには気づかなかった。やがてその光の示す意味に気づいて、私の足は幾分か速度を上げた。
それはまっすぐ先の道に微かに見える暖色の電灯だった。民家だろうか。であれば、それほど強い救いとは言い難い。切羽詰まっているとはいえ、まったく見知らぬ家の厄介になるというような肚は決まっていなかった。だが当然無いよりは良いというものである。言葉にすることは避けたが、さっきまでの私は異世界にでも迷い込んだのかという不安を抱えていたのだ。妙な不安が杞憂に済んだことだけでも価値はあった。熱を取り戻すというほど現金ではなかったけれど、いくらか寒気にも耐えられるような気持ちにはなっていた。
しかし、灯りに近づくとそれが民家のものではないことがわかった。どうやら大衆食堂のようなものらしく、小さな看板が出ている。いよいよ目の前にまで近づくと、営業中という札を出していることもわかった。
私は迷った。普通なら、こういう店に入ることはない。そもそも一人で飲食店に入ること自体いつもなら絶対にしない行動なのだ。
背に腹は代えられない、だろうか。もう少し行けば別の灯りを見つけられるかもしれない。いくらか希望が見えた直後で、ここを逃せば次はないというほど絶望しているわけではなかった。本当に極限なら仕方ないと割り切って入ることも出来るのだろうに、中途半端に元気が出ている自分を呪った。
とはいえ、これを逃して本当に次の機会があるとは限らない。それなら、思い切って扉を開いても良いのではないか。
答えが出ない中、ぐうとお腹が鳴った。体は限界だと告げている。私は溜息をついて、店に入ることに決めた。今冬初めて、自分の息が白くなるのを見た。
「いらっしゃい」
引き戸を開いて店に入ると、四十代くらいの女性が気づいて声をかけた。会釈をすると、お好きな席にどうぞと愛想の良い声で案内される。店にはカウンター席しかなかったが、客は私一人であった。
冷える入り口を嫌って、私は店内奥側の席に腰掛けた。店内は暖かく、ようやく人心地がついた。暖房の温度に体を緩ませて座る私に、女性が柔和な顔で近づいてきた。渡された湯呑には、熱いくらいのお茶が入っている。
「注文は決まっていますか」
どうしよう、と私は店の中に視線を巡らせた。メニューらしき掲示は見当たらない。
「ああ、すみません。決まったメニューって無いもので。大抵のものはお作り出来ますが」
そうなのか、と頷いて私は何が食べたいかを考えた。そうガッツリ食べたいという気分ではない。こういう食堂ではどんなものを食べるのが普通なのだろう。こんなことなら、もっと食べ歩いておくべきだったな、と悔やむ。
思案の末、一先ず体を温めることが先決と考えた私は、
「味噌汁の……定食みたいなものって出来ますか」
と、あやふやな注文をした。女性はにっこりと笑って答える。
「出来ますよ。他にはよろしいですか」
「はい。とりあえず、それだけで」
女性はありがとうございます、と言うと、カウンター内の調理台で作業を始めた。私はその様子にはあまり目を向けず、熱いお茶を少量ずつすすりながら店内の様子を眺め回した。
寒さに反応して詰まってしまった鼻にも届く食欲をそそる香りは、今作っているものというよりはむしろ長年の営業で染み付いたものというような感じだった。店内には木製の調度が目立つので、きっと木々が匂いを吸い込んでしまっているのだろう。そのせいか、木材の色合いも穏やかなように感じる。引き戸を境にこんなにも環境が違ってしまうものかと驚いた。
喉を通ったお茶が、食道に線を引いていく。体の芯まで分け入った寒気を掻き分けて、胃にまで熱を届けるようだ。内側から感じる熱には、行き届いた暖房とはまた違う快さがあった。
「お待たせしました」
そうして過ごしていると、やがて味噌汁定食、と呼ばれた料理が目の前に現れた。白飯に味噌汁、卵焼きと漬物という簡素なものだが、空腹を前にそんなことは些細な問題だった。
「いただきます」
私はまず、味噌汁に口をつけた。適度な塩気が慣れない外食の緊張を解きほぐす。あとにはやわらかな味を素直に楽しめる自分だけが残った。先程お茶が拓いた食道を味噌汁が通るのを感じる。温かかった。
白飯の裏切らない美味しさもさることながら、卵焼きの素朴な味わいも箸を進ませる。私はゆっくりと食事を楽しんだ。
そんな中、店の戸を開く客がいた。もうずいぶん遅くだと思うが、こんな時間にも客が来るものなのだな、と横目で観察する。
「いらっしゃい」
「ここはどこだ。俺を元の場所に戻せ」
そう言った男性は鬼気迫る雰囲気だった。何か作ってもらえばその苛立ちも解けるはずなのに、と口にはせずに思う。
「戻りたいなら、ここの名前は聞かないほうがいいね。店を出たら、まっすぐ目の前の細い道を行くんだ。途中塀があるけど、乗り越えてしまって構わない。なるべく自分の帰る場所を思い出しながら急ぐんだよ」
女性はそんな思いもよらないことを言った。男性はそれに従って、戸も閉めないままに走り出してしまう。女性が引き戸を閉めに行って戻ってきたのを見計らって、私は訊ねた。
「さっきのは、どういうお話なんですか」
「ああ。まだこっちに来るには早い人だったんですよ。私は鬼というわけではないですから、その仕分けはきっちりしてるんです。これでも」
女性は胸を張る。私は意味がわからなくて、首を傾げた。だけど折角だから男性と同じ質問をしてみることにした。
「私も迷っていたんですけど、どっちへ行けば良いんですか」
「あなたの場合、もう帰れないですからね。こっちに住むしかないと思います。もう定食も食べちゃったわけですし」
私は混乱した。
「どうして帰れないんですか」
「どうしても何も、自分でももう帰る場所が何なのか、わからないでしょう」
そんなことはない。しっかり思い出せば自分のいた場所のことくらいはわかる。いつも降りる駅は……。駅から家までの道のりは……。家の中の寝る場所は……。いや、そんなはずはない。職場なら……実家なら……家族の名前くらいは……。
「うちに着いた時、もう限界という感じでしたからね。自分が男なのか女なのか、今どれくらいの年齢なのかも最初からわかっていなかったのではないですか」
「最初、っていつのことですか」
「駅についた時のことですよ。その時点で、もうあなたは手遅れだった」
手が震えた。湯呑が手にあたって、地面に転がって割れてしまった。
「恐れなくていいんですよ。こちらは、そう不親切な場所ではありませんから」
女性の暖かい声が、何者でもなくなった私にかけられた。