第91話 能天気な火種
アリスの頭についている泡をお湯で流していると耳が少しだけ尖っているのに気づく。アリスは妖精族だったのだ。前までは肌が腐り、耳も欠けていたため気づかなかったのだ。今のアリスは前とは見違えるほど綺麗になっている。棒のように細かった手足や体はまだ細身だとは言え、ほどよく肉付き始めている。荒れきっていた皮膚も今では艶を取り戻しつつあった。体を丁寧に拭いた後は椅子に座らせて髪を乾かしてやる。ノアが髪をといてあげている間、アリスは上機嫌に足を揺らしていた。
「にぃ、ぱぁけーき」
「パンケーキね」
「ぱんけーき!」
ノアが栗色の髪を結っていると、アリスはパンケーキを想像してよだれをじゅるりとならす。湯船で温まった後、ノアは毎日アリスにパンケーキとアイスを作ってあげていた。アリスもそれが楽しみで仕方がない様子で、そんな落ち着きのないアリスを宥めながらノアは着々と包帯を巻いていく。もう肌の変色も治り、強いていえば手足の先あたりが肌荒れをしているくらいなので、包帯は手足だけに巻く程度だ。そして痣が見えなくなればアリスはそこらの女の子と変わらぬ愛らしい少女だ。包帯を巻き終えると、ぴょんっと椅子から降りたアリスは手を伸ばしてノアの裾を引っ張る。
「にぃ、はやく」
「はいはい」
アリスは本当に元気になった。いつも寝る前に絵本を読み聞かせていたおかげか、アリスは少しづつ言葉を話せるようになり、自分の足で歩けるようにもなった。まだ早くは歩けないが、それはノアがペースを合わせればいいだけだ。
「あ、ノアくんとアリスちゃん。いらっしゃい」
食堂に着くとテレサが笑って迎えてくれた。テレサはいつもアリスを受け付けない者から、少し離れた所に席を用意してくれる。未だにアリスを軽蔑する者はいるが、それでも見た目は綺麗になっていることもあってか嫌悪する者は減りつつあった。そしてなにより、ノアの存在が大きかった。
「ノアさん、私にも作ってくださいよ」「あ、じゃあ俺も俺も」「私もー」
使用人達は、ノアが来るのを待っていたように群がり始めた。騎士達からの評判は最悪に近いが、使用人達からは少しづつ人気を集めていた。ノアの作る物はどれもこれも珍しく美味なものばかりで、完全に胃袋を掴み取っていた。そして一番使用人達の心の紐を緩めたのはノアの努力によるものだ。自分では気づいていないが、ノアの容姿は整ったほうだ。そんなノアが毎日毎日押し付けられた雑用や掃除を文句ひとつ言わずに黙々とこなしている姿に、見惚れる者も出始める。腫れ物扱いだった姫さまを優しく熱心に世話している所だって何度も見ていた。その姿を見て、彼が罪を本気で償っているのだと誰もが思った。
「悪かったな」
そんな謝罪をしたのは最初にノア達を拒絶した料理人の男だった。彼の姉は、優しい性格でもともとアリスの世話をしていたという。食事を持っていった痕跡は彼の姉のものだった。だが姉はそのせいで周りから嫌われ始めたという。そのストレスか、それともアリスの病が移ったのかはわからないが、いつの日か高熱を出して死んでしまった。だから彼は罪人であるノアではなくアリスのほうを恨んでいたという。しかし日に日に綺麗になっていったアリスを見てそんな怒りは消えていった。その笑みは化け物でも何でもない、ただの女の子のものだと気づいた。
「あの子に責任は無いのに、酷いことを言った。お前にも」
「僕はいいよ。でも、わかってくれる人が増えてくれるのは嬉しいな」
「……なぁ、お前本当に人を殺したのか?」
姫を世話する時の優しさ、雑用を押し付けられた時の対応、そして料理を作る時の表情、全てが男に疑問に縫い付け、ノアが事情を話すと全てを納得したように笑った。今のノアの言葉は信じられるものがあり、すんなりと飲み込んでくれたのだ。
そしてその流れを心の中でノアも笑っていた。必要な舞台が順調整っていくのを密かに感じる。今もテレサの他に、もう数人の使用人がアリスと遊んでくれている。だがまだ十分ではなく、自分が居なくなってもアリスが大丈夫なようにもう少しだけ広める必要があった。
「にぃ!」
「はいはい、もう出来たから」
三段に積み上げたパンケーキ。質素な見た目ではあるが中はふわふわで冷たいアイスと合わせれば絶品だ。アリスは目を輝かせながら頬張り始めるのを見て、周りの使用人達が唾を飲みこむ。
「皆さんの分もできましたよ」
ノアはにこりと笑って皆んなにもアイスを分ける。騎士隊長という地位でありながら、使用人である自分達にも配ってくれる優しさ。そんな印象を植え付けようと、ノアは人懐っこい笑みを浮かべた。
「入れ」
ノアは、騎士の一人に招集がかけられたことを伝えられた。すぐにお腹が膨れて眠っているアリスを抱えて塔で寝かし、トオエンマのもとへと向かった。しかし騎士長がいる部屋に入ると嫌でも顔が歪んでしまう。
「君も呼ばれたのか罪人の騎士君」
何故ならそこにはニコラスがいるからだ。ニコラスもノアを見て形の良い眉をひそめる。
「今回の任務は少し危険でな。二人の部隊で協力して挑んで欲しい」
「俺だけでも十分ですよ」
「ダメじゃ、今回はそう簡単なもんじゃない」
「俺が負けることはあり得ませんし、俺の剣は絶対に折れはしない」
ニコラスは心から騎士の器になろうとしている。だからこそ、罪人であるノアに対して嫌悪感がぬぐいきれなかった。それに自分の実力の前では仕方がないとはいえ、騎士として無様な負け方を選んだノアが許せなかった。騎士なら死ぬまで戦い、誇りを貫くもの。それなのにノアは剣に怯えて降参した。
「それに彼が使えるとも思えません」
そんな私情を挟むニコラスに、トオエンマは軽く眉間を押さえる。ニコラスは完璧だ。だが完璧な自分だけで完結しているところがあり、そこがトオエンマの悩みの種である。
そして、一人の少女が話を更にややこしくした。
「ねぇ、ノア。 お腹すいたぁ」
「えっ」
平然と扉を開けて入ってきたメアリィにノアは目を剥き、驚愕の声を漏らす。
「ちょっ、牢獄にいろって言っただろ」
「でもそのおじさんが出て良いって言ったよ?」
そのおじさん、とはトオエンマのことだ。騎士長に向かって指を指し、おじさん呼ばわりをするメアリィを何とか黙らそうとするが、その前にトオエンマの笑い声が聞こえた。
「ハッハッハ。 構わんよ、おじさんで。 それにその子の言っとることも本当じゃ。 その子はあくまで脅された身、もう十分じゃろうということで解放したのじゃ」
その言葉を聞いてホッと息をつく。脱獄囚と関わりがあると思われればたまったものじゃない。そんなノアの心情をまるっきり理解していないメアリィはノアの隣に立ち、何か思いついたように笑顔を咲かせた。
「ねぇ! 私も騎士になりたい!」
唐突に可笑しな事を言い出したメアリィ。そして案の定、ニコラスが食ってかかった。
「騎士とはそう簡単になれるものじゃ……」
「構わんよ」
「き、騎士長!?」
「わしが許可しよう」
「やったー! 私も今日からノアと悪いヤツ倒すよ!」
トオエンマが何を考えているか分からず、ニコラスは講義する。しかしトオエンマはメアリィを見てデレデレと頰を緩めるばかりだ。
「昔、わしにもこの子くらいの孫がおってな。 どうにも重なってのぉ」
案外この赤鬼はちょろいのかもしれない。そう思えてしまうほど、トオエンマはメアリィに甘かった。
「……はぁ、もういいです。しかし、そこの騎士に任せるわけにはいかない。 君、俺の部隊においで。 そいつは罪人でね、君が影響を受けるといけない。 大丈夫、何かあったら俺が守るから」
ニコラスは、メアリィの手を握って自分の部隊に誘う。その姿は正義感のある騎士そのもので、女の子から見ればときめいてしまうだろう。だがメアリィはその手を払う。
「いい、私ノアのとこに入る」
「な、どうして!? そこは騎士を目指す者が行くところではない!」
「え〜? どうしてって」
ニコラスは本当にメアリィのことを想って言っていた。そしてノアも別に、メアリィがニコラスの部隊に入っても問題無かった。むしろ、ここは黙ってニコラスの部隊に入って欲しかった。だが、自由奔放でどこか抜けている彼女はそうはしなかった。
メアリィは、ニコラスとノアを交互に見比べてニッと笑い、その純粋な笑顔が何よりも怖いものだった。
「私はノアの奴隷だから、食事もノアの許可が無いとできないもん」
「ちょ、メアリィ」
とんでもないことを言い出すメアリィに、ノアは驚きを隠せなかった。これ以上は何を喋らせても嫌な予感しかせず、止めようとしたがもう手遅れだった。
「貴様! 彼女を奴隷にして言いなりにしてるのか! この子に何をした!!」
「そーだよ!なんか首を手で握られてノアが言いなりになれっーてグモモモ……」
メアリィの口を押さえつけて無理やり黙らせる。しかしニコラスは怒りを覚えるには十分すぎるものだった。ニコラスの頭の中では、ノアがメアリィに様々なことを要求し、無理やり体を求めていることが想像できていた。本当に襲われて体を要求されているのはノアのほうなのだが、ニコラスにとってノアの人物像とはそういうものなのだ。
「やはり君を許すことはできないようだ。 今すぐその子を解放しろ」
ニコラスは威圧するように前へ出る。ノアは呆れつつも、メアリィを渡してしまおうかと本気で考える。奴隷を自称するこの女の、どこが自分の言いなりなのかが全くわからないのだ。しかし、そうしなかったのはノアがニコラスに対して思うところがあったからだろう。
「はぁ、別に僕は君に許されようと許されまいと、どっちでもいいんだけど」
ここには第1王女や他の王族はいない。それならこいつに屈する理由もない。それに、いつかは殺す予定の亜人だ。それならここでやってしまっても構わないだろう。
「強がるなよ、君の力は底が知れている」
「僕が二度負けることは無い。 これは絶対だ」
「へぇ、なら勝負してみるかい? この任務、先に遂げたほうの勝ちだ。 まさかやらないとは言わないよな?」
「別に構わないよ」
「 俺が勝てばその子を解放しろ」
「僕が勝てば?」
「ふん、あり得ないな。 その時は何でも言うことを聞いてやるよ」
「へぇ、それはいい」
二人は向かい合って笑みを深め合う。正義と侮蔑が混ざった笑みを浮かべながらニコラスは扉を開ける。
「必ず助け出してあげるから、もう少しだけ辛抱しててくれ」
最後にニコラスはメアリィを安心させようと言葉を残し、任務へと向かう。当の本人であるメアリィはきょとんとした表情で、事態を自覚してはいなかったが。
「お前さんは何故そうも他者といがみ合うかのう」
その様子を黙って見ていたトオエンマは、ノアを見てため息をついた。確かに何処へ行っても他者との思考のズレに絡まれるが、そんなことを言われても仕方がないのだ。
「それにしても今日はいい天気じゃな。雲一つない。 さて、お前さん達はこの空は何色に見えるかの?」
トオエンマは立ち上がって窓の外を見つめ、唐突に何でもないことをぼんやりと呟く。
「灰色、ですけど?」
何を当然のことをと言わんばかりに、ノアは首を傾げる。
「そうじゃな。 じゃが昔はこんな色じゃなかった。 700年前、この空は青かった」
「青、ですか? この空が」
信じられない。何もない空に色がついているなんて考えられない。それは口を押さえられてるメアリィも同じであったようで、目を丸くしていた。
「そうじゃ。 夕日が色をつけんとも、この空には色があった。 空には鳥という生き物が羽ばたき、海には魚が泳ぎ、土には虫が潜っていた。亜人や動物以外にもこの世界は生命で溢れとったんじゃ」
その話は昔、カナリアから聞いたことがあった。だがそんな世界を想像することは出来ない。この世界には魚どころか、海すらないのだからそれも当然のこと。
「争いが一番醜いことじゃ。 700年前、それに気づいておれば世界が滅ぶことは無かった。だからお前さん達ももう少し歩みよってはくれんか」
そう話す赤鬼の表情は、酷く和やかなものだった。
「……ねぇ、指噛んでもいい?」
しかし最後までメアリィはその話に興味が続かず、口元を塞いでいたノアの手の匂いで涎を垂らし始めていた。




