第85話 手のひらの上
粘液物が付着した食器をひたすら綺麗にしていく。泡が溜まっている桶の中に次々と投入される皿は洗っても洗ってもキリがない。ノアは三百人以上いる使用人達が食べ終わった後の、汚れた皿を全て押し付けられたのだ。だがそれだけではない。厨房の掃除や食材の調達までもノアの仕事になっていた。使用人達は、必死こいて手を動かしているノアを見て嗤っている。しかしそれを条件に、ノアも厨房を使わせてもらえるのなら安いものだ。すると新たな皿がノアの元に運ばれてくる。ノアはまた乱暴に桶の中に皿を突っ込まれると思い、水飛沫が目に入らないように構えていたのだが、桶の中に皿が入れられることはなかった。ノアはそれを不思議に思い、皿を運んできた使用人の顔を見上げた。
「……あ、あの。……その」
その使用人はノアが罪人と仕立て上げられた原因でもある少女だった。その少女は兎の耳をぺたりと伏せて怯えたようにメイド服のエプロンをぎゅっと握りしめていた。
「本当にごめんなさい!」
少女は頭を勢いよく下げた。顔を上げた時には目は涙で揺れ、罪悪感で胸がはち切れるのを堪えるように胸を押さえている。
「……謝って許されることじゃないのはわかってます。 でも、それでも……。本当にごめんなさい」
ノアは懺悔する少女の姿を、透明な瞳にしばらく映していた。確かに罪人のレッテルを貼られたせいで周りには軽蔑されたり拒否される事がほとんどで、城で暮らすには不便な事が多い。だがその事に怒りは感じていない。ノアにとって、その程度のことで怒りを覚える気にもならない。こんなのは不幸でも何でもないのだ。ノアは視線を外してまた手を動かし始める。
「別に気にしてないですよ」
「そんな。……そうですか、わかりました」
本人が気にしていないと言うならこの問題はそこで終わりだ。少女もそれを理解したように唇を噛んで引き下がる、ことはしなかった。
少女はノアの隣に腰を下ろして桶の中に手を入れる。皿洗いを手伝おうと言うのだろう。だがこの水は使用人達がノアのために用意した水だ。外の水と変わらない冷水で、少女はすぐに痛みを感じて顔を歪めた。
「無理しないでください。本当に気にしてないですから」
「やらせてください。 お願いします」
「僕といたら他の人達に仲間外れにされちゃうかもしれませんよ?」
「構いません、そもそも私が原因なんですから」
手伝い冷たい水にも耐えることで罪悪感を消そうとしているのか、少女は意地でも止めることはなかった。そして想定していた通り、ノアを手伝う少女に驚き声をかけ始める使用人達が現れた。
「テレサさん、何してるの! そいつが何したか知ってるの? 手伝わなくていいから」
「だから違うって言ってるじゃない! これは私が原因なの! もう放っておいて」
兎耳の少女はテレサというらしい。テレサは形のいい眉をひそめて、友人に怒りをあらわにしている。それからも頑なに動かないテレサに、その友人は呆れたようだった。それからもテレサは申し訳なさそうに笑いながら終わりの見えなかった皿洗いを終わらせてくれた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ、そんな! こんなことしか出来なくて、本当にごめんなさい。あの時私に勇気が無かったから、貴方が大変な目に……」
テレサは再度頭を下げる。その手は霜焼けで真っ赤だ。
「大丈夫ですよ、慣れてますから」
「何か私に出来ることはありませんか? 何だってします」
「うーん、そう言われても。あ、それなら浴場を使わせてくれないかな?」
「そのくらいならできますけど。いいんですか?そんなことで」
「ええ。それで十分ですよ」
ノアがにこりと笑うと、テレサは安心したように胸を撫で下ろした。ノアも本当に気にしていないのだが、一人でも使用人に協力者がかなり変わるだろう。そして浴場はノアが入るためではない。あの姫を、アリスを入れさせるためである。ノアが作った風呂では異能で温めただけで、すぐぬるま湯になるし何より狭い。そのうえ体や髪を洗うには適していない粗末な石鹸しか無い状態だ。だからもう少し姫として生活の質を上げてあげたかった。
「アリス、おいで」
ノアは塔の中のお姫様を迎えに行った。塔から城に戻るには架け橋を渡らなければならないため、しっかりコートに包んでやる。アリスはまだ目は不自由だがノアを認識できているらしく、ノアが呼べば振り向いてぎこちない笑顔を浮かべた。ノアが来ればご飯を食べられると覚えたのだろう。自分の名前がアリスだということをわかっているのかは定かではないが、体をもぞもぞとよじりながら前へ進もうとする。
「ごーはぁ?」
「ご飯はもう少し後だよ。 まずはお風呂だ」
またあの美味しい物を食べられる。そう思って涎を垂らしていたアリスは、お風呂という単語に首を傾げる。
「ォーフぉ?」
「うん、お風呂」
ノアはアリスの身体を持ち上げて浴場へと向かった。途中ですれ違う者達に軽蔑の視線を向けられてもアリスはそれに気づかない。もしその視線の意味が理解出来るようになり、アリスが嘆くようであれば周り全てを排除すればいいだけだ。
「こっちです」
テレサはノア達を見かけ、こっそりと声をかけた。他の使用人達に見つからないうちに、いつも彼女が使っている浴場を案内してくれた。そこは使用人専用の浴場だが十分過ぎるほど広く、温かいお湯もなみなみと貼られている。これならアリスに贅沢を味わせてあげられるだろうとテレサに感謝する。
「ほら、服を脱がすよ。 バンザイして」
テレサは顔の表情を強張らせる。それはもちろんノアが女の子の服を何の躊躇もなく脱がしたからではない。服が脱がされ包帯を外したアリスの姿が痛々しかったからだ。肌が紫色に変色してかさぶたのようになっており、他の使用人達が気味悪がるのもわからないでもないと思えてしまう。
だからテレサは、もう一度何か手伝えることがないかを聞いた。ノアはテレサの強い意志や姿勢を快く思え、言葉に甘えてお願いすることにした。それは洋服と包帯の変えだ。今着ていた服はノアの予備の服で、アリスにはまだ大きすぎるし、今つけていた包帯も膿で変色しているのだ。テレサは、ノアの頼みに真剣な表情で頷くとテキパキと準備を始めてくれた。
その間にアリスの体を洗ってやる。体を洗うためのスポンジが良いのかそれとも石鹸の質が良いのか、アリスの体からポロポロと汚れが落ちていく。泡だちの良さも段違いで、泡の塊にアリスは埋もれてキャッキャッと楽しそうにはしゃいでいた。ノアは目に入らないようにアリスの目を瞑らせてゆっくりとお湯でかけ流す。するとアリスのあれだけ臭っていた体も、今は石鹸のいい香りでいっぱいだ。浴槽に貼られたお湯はアリスには熱かったようで、ノアがかき混ぜて温度を下げるまで少し時間はかかった。だがその努力の甲斐があって、アリスは気持ち良さそうにお湯に体を沈めた。浴槽は広いため思う存分足を伸ばせる。ぷくぷくと湯の中からアリスは泡と一緒に気の抜けた声を漏らしていた。
「ほら、じっとして」
アリスの体や髪を丁寧に拭いてやり、水分を柔らかな真っ白の布に吸い取らせる。水分が残っていると帰りの架け橋で湯冷めしてしまうのだ。ノアはまず包帯でアリスの肌に包帯を巻いて、その上から服を着させてやる。テレサが持ってきてくれた白一色の洋服はシンプルなデザインだっだが十分すぎるほど生地はやわらかい。
きゅるる、とアリスのお腹が鳴ったのを聞いたテレサは食事処を使うようにノアに勧めた。往復する手間も無くなるしノアにとってはありがたいが、アリスの姿を周りに見せることが少しだけ不安ではあった。
「ごぉーは」
「わかったよ、すぐにご飯にしよう」
ご飯を覚えたアリスが指を咥えて要求するので、結局すぐに行くことにした。ただその様子をテレサは驚いたように見ていた。
「何で今の言葉がわかるんですか?」
「なんとなくですけどね」
「すご……」
あまりに驚いたのか、素で驚いているテレサを見てノアは笑った。アリスを席に座らせると周りの雑音が大きくなるのを感じる。罪人と化け物、その二人が来たらざわめくのも仕方がない。そのうえアリスの体、包帯からはみ出す醜い肌が皆の食欲の邪魔をしていた。だがノアはまるで聞こえていないように振る舞い、アリスの頭を撫でている。
「テレサさんも食べます? 僕作りますよ」
「え、いいんですか? というか作れるんですか?」
「ええ。料理の腕には自信があるんですよ」
テレサはここまで、自分が作る前提で話をしていた。だから食堂でご飯を食べることを勧めたのだ。だがそれをノアが作る気だったことに驚き思わず足を止めた。ノアがやっていることは守りびとの領域を遥かに超えている。この少女のために、ノアは雑用や風呂の世話だけでなく、食事から排便まで全て世話している。そしてそれに加えて騎士としての訓練を受けている筈。
「凄すぎる……」
そして料理の出来もテレサが作ったものより数倍美味しかった。というより見たこともない組み合わせの料理で、その未知の味には困惑するレベルだった。
テレサとアリスがあまりにも美味しそうに食べるのを見て、周りはごくりとつばを飲み込んだ。アリスの食べ方は汚く、服を汚しかねないのでノアが一つ一つ口に運んでやっている。それが王族の姫のやることなのか、そんなことを言う余裕が無いほどに皆の視線は皿の上に集まっていた。
「皆さんも良かったら食べますか? よければ作りますよ。 厨房を使わせて貰ってますしね」
その言葉を待っていたと言わんばかりに表情を変える使用人達。だが表情を変えたのはテレサも同じことだった。あれだけ嫌味を言われ、酷い扱いをされているのに優しさを振りまくノアの行動が意外だったからだ。
(アリスの居場所を作ってやるには媚を売るしかない。 僕もいつまでもずっと一緒に居られるわけじゃない。 数人でも使用人達がアリスのことを受け入れてくれれば……)
そしてノアの策略にはまった使用人は半分程度だった。半分はやはり、受け入れがたいものがあるようだが、もう半分は料理の匂いにつられてアリスから離れた席に座った。ノアは出来るだけ愛想よくしながら料理を皆んなにふるまった。




